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笑蝉記(10)(2021)

10 隠者を気取って
 ウォーキングの時、笑蝉荘を出たら、北に向かう道を進む。それは緩やかな下り坂である。10分ほど歩くと、他の別荘がちらほら現われてくる。常住しているところもあれば、留守のところや、放置されたところもある。雑木林に囲まれた道は曲がったり、わかれたりしているが、下り坂を進む。30分ほど歩くと雑木林が途切れる。草地に常住の別荘が何件かある。それらは壁面に薪が積んであるなど大草原の小さな家の趣がある。

 別荘地の端まで進んで、振り返ると、雑木林の向こうに岩手山が見える。頂には積雪がある。岩手山を眺めながら、上り坂を引き返す。

 坂道が雑木林に戻ると、岩手産が隠れて見えなくなる。そうしたら、来た道と別のところを気分次第で進んでいく。笑蝉荘は坂上の西端にある。坂を上りきって、とにかく西に進めば、いつかは帰れる。

 八幡平では音が遠い。ゴーッとどこか彼方で響くと、波が海辺に寄せるように、次第に辺りでザワザワと木々が揺れる。ほとんどが自然音で、ゆったりとしたリズムをしている。自然の空間は距離感を覚える。

 他方、都市の音は近い。ほとんどが人工音だ。建設や工事の作業、自動車、商店街のスピーカー、人々の足音や話し声などがのべつ幕なし聞こえる。時折、緊急車両がけたたましいサイレンと叫び声をあげて急速に近づき、ドップラー効果と共に過ぎ去っていく。八幡平の音が空気の流れだとすると、都市のそれは空気の振動だ。都市においては、聴覚だけでなく、他の感覚も併せて有機的に音の世界を甘受することがない。音は鼓膜を激しく叩くだけで、想像力をかき立てることもない。自然の音がする時は、豪雨や突風、雷など都市活動が抑制される場合である。

 八幡平の風景はさまざまな図形の面が複雑に重なり合って構成されている。咲いた花に近寄って見る時はともかく、色は決して種類が多くなく、緑系や青系、白系、黒系、茶系程度である。紅葉はこの茶系に含まれる。ただ、その濃淡が微妙である。光を放つものは太陽だけで、すべてが反射光の世界だ。

 他方、都市は直線や曲線といった線によって構成されている。色彩も種類が豊富で鮮やか、信号機を始め自ら光を放つものも多い。都市は、八幡平に比べて、世界の輪郭が明瞭である。立体的ではなく、平面的だ。

 夜になると、八幡平は静寂の暗闇に包まれる。ただ、空の星の光だけがある。昼と違い、単純な世界だ。他方、都市は夜でも騒々しく明るい。音も光もあちらこちらから発せられている。夜も昼の世界のヴァリエーションだ。

 蝉の季節には、鳴き声が雑木林から空間全体に響き渡る。時折、ホトトギスやウグイス、シジュウカラ、カラスの声が聞こえる。しかし、今、すなわち5月上旬は、鳥だけである。そうした声がしたら、指笛で応える。その音は、蝉の季節以外なら、雑木林に軽く反響して余韻が奥行きを感じさせる。

 けれども、ウォーキングも気持ちのいいことばかりではない。特に、坂を上りきって西に向かう途中がそうである。歩いていて、アブが顔をかすめたり、ハチが寄ってきたり、やぶ蚊に襲われたりすることがある。虫よけスプレーをしていても効果は限定的である。その時は、手で払いのけながら、急いで立ち去る。彼らの羽音は「何しに来た?ここはおめえの来るとこでねえ!」と言っているように聞こえる。だから、自然と一体感を覚えることなどない。大きな自然の底にある小さな安全地帯を歩かせてもらっているだけだ。道を囲む雑木林に足を踏み入れたいとは思わない。もし入ってしまったなら、侵入者として自然が襲ってくるだろう。自然とは畏れて共生するものだ。

 笑蝉荘が見えてくると、着いたとホッとしつつ、もう少しこの空間にいたいという気持ちになる。しかし、自然は求めていない。温泉につかりながら、今日の道すがらを思い出し、あれこれ考えた方がよい。マスクを着けることなく、荘の中に入る。

Boys, now the times are changing
The going could get rough
Boy's, would that ever cross your mind
Boy's, are you contemplating
Moving out somewhere
Boy's, will you ever find the time

Here we are stranded
Somehow it seems the same
Beware, here comes the quiet life again

Boy's, now the country's only miles away
Form here
Boy's, do you recognize the signs
Boy's, when these driving hands push
Against the tracks
Boy's, it's too late to wonder why

Here we are stranded
Somehow it seems the same
Beware, here comes the quiet life again

As you turn to leave
Never looking back
Will you think of me
If you ever, could it ever stop

Here we are stranded
Somehow it seems the same
Beware, here comes the quiet life again
(Japan “Quiet Life”)
〈了〉
参照文献
鴨長明、『方丈記』、浅見和彦校訂、ちくま学芸文庫 2011
五味文彦、『日本の中世』、放送大学教育振興会、2007年
H・D・ソロー、『ソローの市民的不服従 悪しき「市民政府」に抵抗せよ』、佐藤雅彦訳、論創社、2011年
御厨隆、『権力の館を考える』、放送大学教育振興会、2016年

Simon Worrall、「27年一度も人と接触せず、ある森の『隠者』の真相 謎の窃盗犯はなぜ世を捨てたのか、そこに教訓はあるのか、米メイン州」、北村京子訳、『ナショナル・ジオグラフィック』、2017年4月12日更新
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/041100075/?ST=m_news
「英政府、『孤独担当大臣』新設 殺害された議員の仕事継続」、『BBC』、2018年1月18日更新
https://www.bbc.com/japanese/42728308
「NEAT(ニート)を高めよう!」、『 医療法人鉄蕉会 医療ポータル サイト』、2018年3月1日更新
http://www.kameda.com/patient/topic/rehawalk/12/index.html
浅田晃弘、「重度障害者らが自宅にいながら接客スタッフに 『分身ロボットカフェ』日本橋に開店へ」、『東京新聞』、2021年2月18日 7時10分更新
https://www.tokyo-np.co.jp/article/86629?fbclid=IwAR28e3E76FwfKsh9ymIlmrEyqEFKAwMX2SuJ9-0HiBkrnp9PmGUwXlJEN-A
「『孤独・孤立』NPOを支援へ 自殺防止や公営住宅貸出」、『共同通信』、2021年3月16日16時47分更新
https://nordot.app/744503735486857216?c=39546741839462401
「コロナで外出自粛 高齢者の健康に深刻な影響 研究グループ調査」、『NHK』、2021年3月23日 6時44分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210323/k10012929741000.html?fbclid=IwAR2qj5sBlzU3SwWm5tT7hEninmAQbxjY0Iko0zv9Ckdftqcdzq-0Yk1-das
矢澤秀範= 松井聡、「入国者の我慢で成り立つ日本の水際対策 つきまとう『後手』批判」、『毎日新聞』、2021年5月25日 22時08分更新
https://mainichi.jp/articles/20210525/k00/00m/010/313000c

鴨長明、「方丈記」、『青空文庫』、2004年
https://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
浅見和彦、「方丈記と鴨長明の人生」全52回、『NHK古典購読』、2019年
https://www.youtube.com/watch?v=sjdajcbpjiE

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