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You Like Bohemian─小林秀雄(5)(2004)

五 小林秀雄の文体
 小林秀雄の文体はフランスのモラリストから影響を受けている。その叙述スタイルは、スコラ哲学的な形式主義者や懐疑主義者を批判するために、ミシェル・ド・モンテーニュが選んだエッセーである。彼は具体的な現象や経験を観察し、絶え間ない自己省察を通じて、普遍的な生の姿を追及する。持続的と言うよりも、瞬間的であるエッセーの内省による時間・空間に関する認識は客観秩序の存在をア・プリオリには認めない。

 エッセーは、本質的には、告白であるが、それがルソー以後の告白と異なっているのは、物語的要素、すなわち順序だった構成に欠けている点である。告白は知的であり、理論的領域から関心は離れない。けれども、それが体現する理論は観念ではなく、具体的・日常的世界へと還元されていく。

 小林秀雄は、彼の前にあったマルクス主義を筆頭に理論志向の文芸批評の文体と用語が生硬で、日常言語から遠く離れていると意識し、そのパンクな文体を選択している。モラリストと違い、時々、レトロな文体も採用していたとしても、「明治以来、批評の文体は漢文くずしの文語文から口語文に推移し、この変化は概して進歩と見倣され、大正末期にはほぼ完成したと言ってよいのですが、青年期の小林氏は意識的にこの風潮にさからって、漢字を思いきってたくさん使った文語的表現に近い独自の散文をつくりあげ、それによって、一種の詩的評伝ともいうべき、特異の表現をつくりあげています」(中村光夫『小林秀雄初期文芸論集』「解説」)。批評は自らの生が希求する明晰な思考を紡ぎ出す姿勢にほかならない。

 小林秀雄は、対象を用いて、自己を語る。この対象はつねに挑戦的である。彼の論理展開は文脈や文章のリズムによって支えられている。論理のつながりを軽視して、いささか唐突な主張を結論的に提示することも少なくない。彼にとって、論理はペダンティックすぎる。エーリッヒ・アウエルバッハが『ミメーシス』においてモンテーニュについて言及しているように、エッセーの中で、小林秀雄は二人いる。それは著者としての自己と対象としての自己であり、両方に小林秀雄はかかわっている。「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠)であり、「批評するとは自己を語る事である。他人の作品をダシにして自己を語る事である」(『アシルと亀の子Ⅱ』)。

 論理の進行は何度も中断され、突然、再開される。この唐突さが彼の問題を顕在化させる機能を果たしている。意表をついたり、飛躍したりする彼の作品の構造が精緻で論理的であることは、「分析」してみればすぐわかるが、その行為は彼には最も嫌悪するものでしかない。順序が乱雑であったり、主張が飛躍したりしていると読者は彼に噛みついてはならない。彼の批評は読者が協力しなければ成り立たない。読者を信用しているのだ。読者は小林秀雄の企てを推察することを期待されている。彼の理論の動きと同時に読者は洞察力を発揮していなければならない。自己省察を深化させようという細かな思考作業を意図している。

 けれども、表現しようとする自意識が過剰であるため、理論的論文の形態に収まりきることができず、エッセーという形式を必要とする。小林秀雄は彼の作品に共感するものは誰もが自分と同じような経験をしているだろうと考えている。「『子を見る親に如かず』という。わかる親もあれば、わからぬ親もあるという風に考えれば一向につまらないが、親が子をどういう風に見るかと思えば面白い。私という人間を一番理解しているのは、母親だと信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析している事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私という子供は『ああいう奴だ』と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない」(小林秀雄『批評家失格』)。「みたばかりの死に芒然として、卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません」(中原中也『死別の翌日』)。

 アカデミックな論文には、確かに、そのような体験は味わえないだろう。小林秀雄は思考を構築する手続きを省略し、それを暗示させようとする。彼は論理的な順序ではなく、日常的に親しいという程度とでも言うべき関係を判断として提示する。読者は文章と文章の間に欠けているのではないかと推測される文章を、古典文献学者のように、補わなければならない。小林秀雄は読者の関心をこうした緊張によって惹きつける。同じ主張を繰り返したかと思うと、新しい視点や新たなイメージを振り向ける。作品構造は求心的と言うよりも、拡散している。

 彼の作品は理論的と呼ぶべきではなく、日常会話的である。告白は独白とは違い、自分と同時に誰かに話しかける行為である。彼は、そのとき、自己を発見する。小林秀雄は、『ドストエフスキイの生活』の序文「歴史について」において、「『現代ロシヤの混乱』の鳥瞰は、そのまま彼自身の精神の鳥瞰に他ならなかった。インテリゲンチャの不安はそのまま彼自身の懐疑であった。彼はこれを観察する地点も、これを整頓する支柱も求めなかった、ただ自らこの嵐の中に飛び込む事によって自他共に救われようとした処に、彼の思想の全骨格がある」と書いている。だが、これはロシアの文豪についてよりも、彼自身の告白である。

 小林秀雄はいかなる作品にも自己を見出す。彼が従うものはただ自己だけである。特定のグループのルールに従属するなどできやしない。自己は作品によってゆり動かされ、そこから力を得るが、そこにとどまることなく、ほかの作品に移り変わる。彼の批評は作品の注釈の枠を破っている。批評を書く際に、読んだ作品だけでなく、自分自身の体験や人から聞いた話、日常生活の出来事もつけ加える。

 気鋭の文芸批評家小林秀雄は、一九三六年、『読売新聞』に「作家の顔」を発表したのをきっかけに、文壇の長老正宗白鳥との間で「思想と実生活論争」を繰り広げている。実生活の真相が思想に反映すると言う正宗白鳥に対し、小林秀雄は、実生活を離れた思想はないが、実生活に犠牲を払わない思想は人間社会では有効ではないと主張している。学問的手法や論理的発展に束縛されず、具体的・現実的事象や出来事を手放さない。抽象的で、ときとして、虚しい知識によって窒息することを実際に起こった出来事や事実は防ぐ。小林秀雄は「様々なる意匠」によって支配され、自己を見失わないように細心の注意を払う。彼の読解手法は、アカデミックな意味では、不当であると言えるかもしれない。彼もそれは自覚している。「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に類似してくるのは、どうした事であろうか」(小林秀雄『常識』)。

 エッセーの持つ生成パターンが体現する歴史は秩序立てられていない。時間や空間に関するエッセストの感覚は物語的構造を窮屈に感ずる。内向的であり、百科全書を編集できる構成力を必要としない。けれども、いかなる人間でも倫理について考えるのに十分な素材を持っているのであり、自己吟味は倫理的存在としての人間を対象とすることを可能にする唯一の方法である。

 「方向を転換させよう。人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一あるのみだという事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。或る人の真の性格といい、芸術家の独創性といいまた異なったものを指すのではないのである。この人間存在の厳然たる真実は、あらゆる最上芸術家は身をもって制作するという単純な強力な一理由によって、彼の作品に移入され、彼の作品の性格を拵えている」(『様々なる意匠』)。

 どんな生でも無数の可能性のほんの一つである。それは任意であるが、同時に、ほかにありえなかった以上、「宿命」と言わざるを得ない。一つの全体性の内包されたその「宿命」の下にある人間の自己観察は間違っているとは言えないだろう。学問的知識はこれをねじ曲げてしまうだけである。「宿命」としての自己を倫理の出発点としなければならない。

 小林秀雄の観点と内容は任意であるにしても、「宿命」である自己をめぐる記述である。「宿命」を引き受け、その中に身を置いて、そこで動き出す自意識をたどって、自己を探り出す。数多くの物事について語りながら、一つのものは別のものへと移動し、「宿命」となる。たとえ断片的であったとしても、小林秀雄の歴史意識は統一性を保持している。歴史も自己のフィルターを通して意識される。彼には「宿命」という統一性はあっても、隠遁的・瞑想的な自己と客観的秩序との一致はない。「宿命」は窮屈な態度ではなく、他者たちの記憶に定着されることによって決定される。他者はある人生の下でしか生きられなかった「私」の可能性をあれこれと想像する。「宿命」はその他者の想像する可能性も含んでいる。

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