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Lost Samurai─新渡戸稲造の『武士道』(3)(1993)

4 中国文化圏の宗教と文学
 現在、中国文化圏において、イスラム教やキリスト教も信仰されているが、仏教・道教・民間信仰の大きく三つが信じられている。道教は中国文化圏で生まれ、そこで育ち、その外に出ることがなかった宗教であり、その意味で、最も中国的な宗教と言えるだろう。また、民間信仰には、確固とした宗教体系はない。これら三つの宗教の境界は極めて曖昧である。聖職者たちは教えに厳格であるけれども、一般の民衆はその限りではない。

 中国の宗教界において、最も大きい出来事は、紀元前後の仏教伝来である。インドで生まれた仏教は非常に抽象的で、中国文明にとって、異質であり、儒教や道教は、その衝撃によって、体系化されていく。東アジアにおいて、最も基本的な道徳は儒教であり、それに時代・地域・身分による通俗道徳が混じり、さまざまなヴァリエーションが生まれている。

 体系化が進むにつれ、道教も仏教も、愚かな迷信として、民間信仰を排撃する。けれども、御利益のないもの、すなわち実用性のないものを信じる民衆は少なく、仏僧は仏典や仏教説話を俗人に、民間信仰を援用して、わかりやすいように講釈し始め、道教も同様の方針転換をする。その結果、各宗派も複雑に融合していく。こうした「俗講」の僧は、唐の時代から、タレント化し、仏教色を弱めた「小説」を語るようになる。さらに、元の時代になると、戯曲が流行する。農村地域にあった祭祀儀礼に含まれた歌舞や所作、白(セリフ)が「個々に独立分化し、文化洗練されて、神霊降臨の物語としての演劇が成立」(田仲一成『中国演劇史』)する。

 歴史的な出来事や事件、経典ではなく、『西遊記』や『封神演義』といった演義によって仏教はまず一般にも知られるようになる。当時の識字率は低かったので、直接読まれることは少なく、それらをモチーフにした講談や芝居を通じて民衆の間に普及していく。宗教の教義の民衆への布教に演劇が利用され、その後、演劇が宗教から離れて娯楽へと発展していく過程は中国に限ったことではない。チューダー朝のイギリスにおける演劇の隆盛もほぼ同様の経過をたどっている(この時代の仮面劇の流行は愛情をわきたたせるためである。当時、結婚は愛に基づくのではなく、ビジネス上の契約と考えられており、顔を隠すことで結婚の意味を転倒させている)。

 芝居の種類は豊富で、セリフ劇だけでなく、オペラやミュージカルも含まれている。時代が下るにつれ、『三国志演義』や『水滸伝』といった宗教性が希薄な作品も発表・上演されるようになっている。演劇の流行により、役者には驚異的な記憶力が要求され、劇作家は良質な作品を大量に素早く書かなければならなかったろう。こういった文学や芸術を通じて、神が選ばれ、祀られていく。孫悟空を祀った廟が中国各地に見られるのは、そのためである。

 人気小説のタイトルによくついている「演義」は通俗小説という意味である。通常の漢文と違い、白話、すなわち口語で書かれている。この白話体は、もちろん、現代的な言文一致体とは異なり、中華文化圏の共通語である漢文に対するドメスティックな言語と捉えるべきだろう。

 白話と言っても、文字を使うのだから、読者は知識人である。当時は音声メディアが発達していない。全国を移動する役人たちの間で通じる話し言葉も必要だ。漢文の読み書きのできる人たちの間の話し言葉を表記したものである。白話文学が普及したのは、既成文化の行き詰まりの打開などを理由に知識人がそれに目を向け始めたからである。なお、現在の中国において漢文の古典は縦書き、白話の通俗文学は横書きで記されている。。

 漢文と白話の違いは拘束形態素の有無にある。漢文では、一つの漢字が一つの意味を持つと同時に単語として機能する。他方、白話には、意味を持っているものの、他の要素と結びついて初めて単語として使われる拘束形態素の漢字が存在する。「これは日本語の訓読みと音読みになぞらえることができるかもしれません。訓読みのほうの『目(メ)』は自由ですが、音読みの『目(モク)』は不自由です。『瞠目』『反目』『目撃』など、何かと結合して使うことになります」(相原茂『はじめての中国語』)。

 目で見て理解する前提の漢文においては、杜甫の『春望』の「国破山河在」というように、「国」が一字で単語として使われている。けれども、口で話し、耳で聞く白話では、「国」は形態素にすぎないため、単独で用いられることはなく、その意味で表現したい場合は「国家」としなければならない。こうした特徴から、漢字は、近年、「表意文字(Ideogram)」ではなく、「表語文字(Word Character)」と呼ばれる傾向になっている。「城山三郎氏に『粗にして野だが卑ではない』という小説がありますが、これを漢字を使わず『そにしてやだがひではない』と書いたり、耳で聞いても、何のことやらさっぱりでしょう。視覚に訴える漢字の力です。ひるがえって、現代語では書かれる文章も口語体(話し言葉)に基礎をおいていますから、当然、口語で用いられる2音節語の方が使われます」(『はじめての中国語』)。

 人々が井戸端会議などでお互いに語り合った面白い話や奇怪な話は、古代中国において、「小説」と呼ばれている。為政者は、驚くべきことに、これらを収集し、書物にまとめている。ただ、漢の時代までの小説は、タイトル以外、ほとんどが残っていない。演義はその系譜上にある。

 漢文は文化圏の共通言語であるけれども、中国文化圏では、漢字だけでなく、それをヒントに独自の表音文字が生まれ、文学昨比を通じて伝承されている。日本や朝鮮半島でも、表音文字が考案されているが、ベトナムも、中国に支配された影響で、古くから漢字が使わると同時に、漢字の部首を組み合わせたチュノム(字喃)というドメスティックな文字が考案されている。チュノムは文芸作品使用されたものの、難解なため一般にはあまり普及していない。フランス領時代に、ベトナム語のローマ字表記が漢字とチュノムに代わって使われるようになり、今日に至っている。

 中国の民衆向けの小説や芝居において、歴史的出来事は口実にすぎない。この傾向は、程小東監督の『スウォーズマン(東方不敗)』シリーズが示している通り、今日の香港映画・マンガでも同様である。なお、中国の思想書・物語において、センテンスの論理的結びつきは、西洋のものに比べて、緊密ではない。アナロジーやアレゴリーなど詩的飛躍を多用し、センテンス間の隙間を意図的に開けている。作者が読者を説得するのではなく、読者のイマジネーションを刺激するように努めている。作品は誰かによって使われるのを待っている。

 『西遊記』は仏教の教えを一般に伝える目的で、玄奘(三蔵法師)がインド(天竺)に経典を取りに行くという歴史的事実をモチーフにしているが、醍醐味は孫悟空たちと妖怪との戦闘シーンである。演義が生み出した最大の神が関羽であり、彼は、現在、中国人の間で最も信仰されている。関羽は蜀の劉備の部下の軍人であるが、志半ばで呉の孫権に殺されているため、かつては怨霊と考えられている。日本では、菅原道真のように、非業の死を遂げた人を霊を慰める目的で、神として祀るという習慣があるけれども、中国では、そうではない。

 関羽をめぐる状況を一変したのが『三国志演義』の流行である。その中で描かれた力強さが、彼を怨霊から神に押し上げる。各地に、廟が建設され、その地位は清になると最高にまでのぼりつめ、今日では、ヤクザから警察まで彼を「関帝」と祀っている。日本でも、文学作品を通じて、源義経や武蔵坊弁慶といった為政者に粛清された英雄、国定忠治や清水次郎長、石川五右衛門といったアウトローが神格化されて、信仰対象になっている。

 神を芸術が創造する以上、それは移ろいやすい。ある神が信仰されたかと思うと、ちょっと時が経つと、廃れ、別の神が祀り上げられる。宗教は流行の一種である。すべては御利益がありそうだというイメージ次第である。複数の宗教を信じることも可能である。実用性という観点から見れば、こうした宗教観はまったく間違っていない。神は時代の季語にすぎない。

 こうした宗教の混在は中国や日本だけではなく、実際に、文化圏全体で広く見られる。ベトナムは多くの文化の影響を受けたため、諸宗教が混在している。中心的な宗教は仏教であり、仏教各派をあわせると仏教の信者が現在でも最も多く、道教や儒教の要素を多く含んだ民間信仰も信じられている。また、フランスの植民地支配により、キリスト教徒も多く、特にローマ・カトリック教会は600万人の信者がいると言われている。

 今日、仏教と関係のあるホアハオ(和好)教やキリスト教・仏教・道教・儒教などを統合したカオダイ(高台)教といった比較的新しい宗教も多くの信者を得ている。1990年に教祖の死亡で解散してしまったものの、1964年、グエン・タィン・ナムが仏教・儒教・キリスト教との混合宗教として始めたココナッツ教というユニークな宗教も信仰されている。東アジアの宗教の交配は、インドのシーク教に見られる対立するイスラム教とヒンドゥー教の融合とは異なり、あくまでも御利益の追求によって行われている。

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