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法螺話を語る天才(2004)

法螺話を語る天才
Saven Satow
Nov. 18, 2004

「十で神童十五で才子、二十過ぎれば只の人」。

 2004年11月15日、ジョージ・W・ブッシュ大統領がコンドリーザ・ライス大統領補佐官をコリン・パウエル国務長官の後任に選んだとメディアが報道しています。この1954年11月14日アラバマ州バーミンガム生まれのアフリカ系アメリカ人女性は、わずか15歳で、デンバー大学に入学しています。ピアニスト志望のため音楽専攻を登録したのですが、ビル・クリントン政権の国務長官マドレーン・オルブライトの父ヨセフ・コルベルの影響を受け、専攻をソ連の国際関係の研究に切り替えています。

 1971年、19歳の時に優等で卒業、ノートルダム大学に移り、政治学修士号を取得します。1975年。デンバー大学へ戻り、1981年、政治学博士号を取得しています。25歳の時に、スタンフォード大学の教授に就任、1985年、日本の防衛大学に2週間招待され、客員教授を務めています。

 こうした早熟の天才は作家や科学者、芸術家、アスリートなどにしばしば見られます。しかも、たいてい才能の前借をしているだけで、年齢を重ねるごとに、枯渇していくものです。いわゆる早熟の天才やアーリー・ブルーマーなどと呼ばれます。

 もちろん、数少ない例外もあります。早熟の天才でありながらも、その後半生においての活動も思想史に大いに寄与している人もいます。3人ほど例をあげましょう。

 1844年に生まれたフリードリヒ・ニーチェは、14歳の時、ドイツ中のエリートを集めたプフォルタ学院に入学、同級生8人と共に、優秀な成績で卒業しています。ボン大学とライプツィヒ大学で古典文献学を学んだ後、24歳で、バーゼル大学助教授、翌年には教授に就任しています。

 古典文献学界を背負う若き新星と期待されたのですが、28歳の時に、当時若者の間で流行していたリヒャルト・ワーグナーとギリシア古典を結びつけて論じた『悲劇の誕生』を発表、学会から追放状態になってしまいます。35歳、弱視や頭痛などの健康悪化に耐えきれなくなり、大学を辞職、以後、年金生活を送り続けます。

 独特なスタイルで書かれた作品を刊行するごとに昔からの友人を失い、まったくと言っていいほど世の中の読者からも相手にされません。彼の代表作『ツァラトゥストゥラはかく語りき』は自費出版で40部が印刷され、うち7部を友人に献呈しただけです。45歳の時にとうとう精神に異常をきたし、以後、1900年に亡くなるまでの11年間、自分が誰なのかさえわからない状態です。

 発狂する直前くらいからその著作が注目され始め、1890年代には生きた伝説となっていたのですが、それを知ることはありません。ニーチェは、カール・マルクスやジークムント・フロイトと並んで、20世紀に最も影響を与えた思想家の一人です。

 1894年に生まれたノーバート・ウィーナーは9歳で高校に入り、14歳でハーヴァードの大学院に入学するにもかかわらず、コーネル大学において哲学を学ぶことにし、その後、18歳でハーヴァードの博士号を習得しています。ヨーロッパの大学に遊学して、有名教授の数学・哲学の講義を聴いた後、アメリカに戻ったものの、大学の研究生活が面白くないとブリッジと映画に明け暮れています。

 第一次世界大戦が始まると、軍隊に志願したのですが、強度の近視のために入隊できず、さまざまな職を転々としています。25歳の時に、マサチューセッツ工科大の講師に落ち着きます。20代では、理論物理学で画期的な業績を挙げ、30代になると、数学者として論文を発表し続けます。

 40代には計算機とオートメーションに関心を寄せ、54歳の時に刊行した『サイバネティックス』が世界的な評判となり、数学者の間では、確率過程論での堅実な業績を台無しにする大風呂敷と非難され、マッカーシズムの時代に自分は共産主義者ではないとくどくど弁明しながら、以降70歳で死ぬまでこの本の名声による講演旅行を続けていくのです。サイバネティックスは、後に、サーモスタット機能などのフィード・バック理論に利用されています。

 最後は極めつけの神童です。1805年8月3日と4日の境目にアイルランドのダブリンにおいて弁護士のハミルトン夫妻に男の子が生まれます。ウィリアム・ロウワンと名づけられたこの子は、母から才気、父からは酒好きを受け継いだと言われています。

 ほどなく父が亡くなったため、牧師の伯父の下で育てられ、5歳の時にギリシア古典の長編叙事詩ホメーロスを暗誦しています。この段階で、すでにラテン語・ギリシア語・ヘブライ語ができ、8歳には、フランス語とイタリア語、10歳ともなると、サンスクリット語・アラビア語・ペルシア語・カルデラ語・シリア語・ヒンドスタン語・マレー語・マラッタ語・ベンガル語を話しています。同じ頃に、ユークリッドの『原論』を読んで、数学に目覚め、12歳の時には、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』に触れ、天文学に魅せられています。

 14歳の頃に母が亡くなります。学校には一切通っていませんが、「第二のニュートン」として数学や物理学の世界で有名になっていきます。

 18歳になり、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学します。もちろん、首席です。けれども、彼は大学を卒業していません。22歳の時に、ダンシンク天文台長兼天文学教授に就任するからです。学部の学生がそのまま教授になるというのは前代未聞です。

 19歳の頃に書いた数学論文によってすでに教授に推薦されています。けれども、キャサリン・ディズニーに大恋愛したものの、大失恋して、精神的に不安定になっています。27歳の時、病弱で神経を病んでいるマリア・へレンに同情して結婚します。その看病疲れから酒に溺れるようになり、30歳にもなる頃には、どこに出しても恥ずかしくない堂々たるアル中です。

 その頃、光栄にも、アイルランドの王立学士院の院長に選ばれます。年がら年中酔っ払っている飲んだくれの院長誕生というわけです。彼は光学を使ってエネルギーの波の伝播を再構成する方法を研究し、それは後の統計力学や量子力学のモデルを提供することになります。いわゆるハミルトニアンです。

 しかし、彼はもっと壮大な夢にとりつかれています。1843年10月16日、ダブリンのブルーム橋を妻と散歩中に、ii=jj=kk=ijk=-1という公式が浮かび、4元数のアイデアが閃きます。これは4次元の数で、奇妙なことに、ij=-ji=kのようになり、交換法則が成立しません。今、ブルーム橋にはその日付と公式が刻まれた碑文が埋めこまれています。

 10年かけて、48歳の時に、『四元数講義』として完成しますが、酔っ払いの誇大妄想と学会から無視されてしまいます。死の床にあったかつての恋人キャサリンにも「私の生涯を賭けた仕事です」と言って、この本を手渡しています。

 解説のつもりで『四元数の基礎』を書いたのですけれど、生前、出版さえされません。それでも難解だからです。

 誰にも相手にされなくなり、妻にも先立たれます。60歳のある日、無数の空の酒瓶と食べかけの骨付き肉、酒の匂いが染みついた膨大な量の紙くずの中で、亡くなります。散乱した紙くずに震える手で書かれた字はもはや誰の眼にも読めるようなものではありません。けれども、『四元数講義』は聖書とまではいきませんが、今では、20世紀数学の黙示録と評価されています。

 この3人は確かに神童でしたが、ただの人にもならず、若くして才能を枯渇させることもなく、年をとってからの仕事で現在においても語られています。その一因は、彼らが大法螺吹きだからでしょう。彼らを今日振り返る時、最初に認められたオーソドックスなアカデミズムの業績ではなく,そこでは相手にされなかった法螺話が注目されます。

 ニーチェなら、「永遠回帰」や「超人」、「力への意志」、ウィーナーなら、「サイバネティックス」、ハミルトンは、言うまでもなく、「4元数」です。それらは狭い専門領域から離れて広範囲に影響を及ぼし、人の想像力を刺激してやまない法螺話になっています。

 「天才」の歴史的役割について考える時、欠かせない一つのエピソードがあります。1777年に生まれたヨハン・カール・ガウスという数学者がいます。

 「ガウスはおそらく、考えられるかぎりの数学的特性を備えていた。精緻な論理的強靭さ、目的に向かって突進する計算力。精髄をつかむ柔軟な精神、そして多くの事実を体系に織りあげそこに理念的連関を見出す。数学の世界の純粋構築を追究すると同時に、自然的実在に数学的法則を発見する。理論体系を個別に自立させる専門精神と、百学を統一把握しようとする百科全書精神とが、一身に共存する。もしも『理想の数学者』の要素を集めてきて造物主が人間を作ったら、こんな人間ができるだろう」(森毅『異説数学者列伝』)。

 これだけの人物ですから、19世紀前半のヨーロッパ数学界のボスになったとしても不思議ではありません。ところが、彼は、新たな数学を若手が公表すると、とにかく無視するか、けちをつけることで有名です。

 けれども、彼は、別に、陰険だったわけではありません。死後、私信や未公開のノートが公にされ、彼がそれらすべてをとっくに発見していたことが明らかになります。彼が公表しなかったのは、『異説数学者列伝』によると、「ガウスはその知りえた結果を完成形式において発表するという習癖を持っていて、未完成をさらけだして物議をかもすようなことを嫌った」からです。

 「つまり、この半世紀ほどの多くの数学者の業績をひとりでまかなえたことになる。しかし一方で、この半世紀間の重要な業績がガウスの篋底に見出されたとはいえ、他の数学者によって『発見』されなかったような著しい事実もまた、そこにはなかった。つまり、ガウスなしで数学が半世紀間に発達したぶんだけ、この『天才』は私有していたことになる。それで、人類にとって『天才』なしで間に合うということを、ガウスの『天才』が証明したことになる」(『異説数学者列伝』)。

 「理想的な数学者」であるガウスにしてこうですから、天才がいなくても、誰かがそのアイデアをいずれ思いつきます。天才など不要だということになるでしょう。

 おそらく天才の役割はそんなところにはありません。ガウスのエピソードで問題になるのは内容と公表の時期です。他方、先の3人のケースは、むしろ、可能性です。天才は潜在的な可能性を顕在化するのです。

 法螺話を生み出したのは輝かしい若き才気ではなく、孤独なオヤジを捕らえて放さない執念です。向こう見ずで、怖いもの知らずの神童も、多くの場合、加齢と共に、常識的になり、翳っていくものです。けれども、真の天才は執念を持って法螺話を語り続ける人のことを言うのかもしれません。歴史を動かす法螺話を語れることこそ天才の特権であり、その証明でしょう。

 もっとも、そういう突飛な話は同時代的に理解されにくいものです。天才はそんな孤独の中であっても法螺話を語るために、この世に登場するのです。
〈了〉
参照文献
森毅、『佐保利流数学のすすめ』、ちくま文庫、1992年
同、『異説数学者列伝』、ちくま学芸文庫、2001年
ニーチェ、『ニーチェ全集』15、川原栄峰訳、ちくま学芸文庫、1993年

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