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コンテクスト指向演技(1)(2012)

コンテクスト指向演技
Saven Satow
Jan. 09., 2012

「本来は、ことばは単純に記号化されてすむのではなく、状況や関係性の中でゆらぐ。それが、ことばの心というものだと思う」。
森毅『京ことばのモラル』

第1章 専門用語とコンテクスト
 2011年10月1日より全国で公開された『はやぶさ/HAYABUSA』は小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトを題材にしている。主役を演じた竹内結子が各種のメディアからインタビュー取材を受けている。彼女が扮した役は宇宙科学研究所(現JAXA)の女性研究生水沢恵である。役作りの際に、「専門用語がたくさんあって、セリフが大変でした」と振り返り、わからない用語はインターネットで検索したと付け加えている。

 しかし、実在の出来事をモデルにした映画の主演女優がこのような談話を口にすることは信じられない。竹内結子の役作りは方向性が間違っていると言わざるを得ない。

 専門用語は、コミュニティ内部でのコミュニケーションを円滑に行い、誤解のないようにするために使われる。その目的に則り、定義や用法も厳密に決められている。専門用語はコミュニティのコンテクストから生まれてくる。専門用語を文脈と有機的な関係にあることを認識せず、その世界を舞台にした作品の出演者がそれと切り離して覚えようとするのは本末転倒である。

 竹内結子は専門用語をネットで検索したと言っている。しかし、専門家が知識を共有するために、利用されてきたインターネットでは、断片的な情報が集積しているだけである。暗黙知の一種であるコンテクストを検索することはできない。

 このコンテクストは、専門用語以前に、物理学者であれば誰もが暗黙のうちに共通理解である。自然科学において単位の共通化は欠かせない。その際、特定の物質に依存することは避けられる。物理学の基本単位は、長さはメートル、質量はキログラム、時間はセカンドであり、大きな数あるいは小さな数を表わす場合でも、それは変えずに、累乗を使う。と言うのも、この中で、kgだけは原器を用いているものの、他の二つは物理学の理論によって基礎付けられているからである。はやぶさプロジェクトのメンバーは、当然、これが身体化されている。

 竹内結子の役は実在の人物をモデルにしていない。それはこの共同体のコンテクストを具現化した理念型でなければならない。現実のはやぶさプロジェクトは彼女なしで動いている。そこに一人加えるのだから、その人物はコンテクストに融合的でなければ、事業が破綻しかねない。プロジェクト・チームにはバランスがあり、構成員が一人増えるかどうかは実際には大問題である。映画におけるその役割は、自分を通じて観客へ共同体のコンテクストを伝達することになる。

 観客の中には天文マニアの女子大生がいるかもしれない。星空に興味を持ち始めてから、天文関係の書籍や雑誌を読み耽るようになる。望遠鏡やカメラを始めとする天文観測のツールを買い、夜空の撮影に出かけ、時々、写真を専門誌に投稿もしてみる。高校では天文部に所属、この部活で天文愛好家の人脈も広がる。服装は母親が買ってきたのをただ着るだけ、アウトドアの際に邪魔にならないように、ヘアー・スタイルは実用性重視のショート・カットである。また、どういうわけか視力が下がってしまい、メガネは冬季の夜間撮影のときに曇ることがあるので、コンタクト・レンズを使用している。大学に進学後、天文学を体系的に学び始める。そこで、星のことだけを知っていればいいのではなく、幅広い関連領域についての知識が要求されると痛感する。サークルや研究室を通じて、人脈は天文マニアだけでなく、学者にも拡大する。依然としてファッションには興味はない。実用性重視の無難なものを選ぶ。メークは、仕方なく、することもある。慣れていないので、指先がよく動かず、仕上がりは幼稚園児のぬり絵並である。メークしているときは自分ではない気がする。天文のことをしているときが幸せだと感じる。年齢よりも幼く見られがちである。そんな人から見て納得できるかは、竹内結子の演技がコンテクストを指向しているかにかかっている。役者は自分の演じる役柄の本職が観客にいることに気づいていなければならない。

第2章 記号的情報と連合的情報
 加えて、竹内結子のファッションやヘアー・スタイル、メークの理由もはっきりしない。それらは個人の嗜好が優先されない。場や所属する共同体の許容範囲が大枠を規定する。場の要求する「らしさ」や共同体のアイデンティティを逸脱することは許されない。

 ファッションを例にとろう。服装を通じて自己は他者へ印象を送り、それに反応・形成する。服飾は「記号的情報」と「連合的情報」が他者に伝達される。前者は社会的属性などで具体的・一義的、後者は個人的特性といった抽象的・多義的なものである。

 人が服飾を選ぶ際、その理由は次のような階層構造をしている。

階層名
内容
衣服層
衣服の色・形態・生地
装飾層
装飾品・小物類等
身体層
着装者の特性
環境層
着装場面


 着装はこのような階層構造を経て取捨選択されている。下のレイヤーほど強制力が強く、記号的情報に属している。派出所の巡査が制服、内偵中の刑事が私服を着ているのも、環境層が強いる違いである。浴衣で葬式に参列したり、タキシードを着て登山に挑んだりなど場面をわきまえずに衣服を選ぶと、その人は社会性がないと判断される。アイロニーを強調する芸術作品では、見えすいたことに、場面を無視した着装者がよく登場する。

 この階層構造に従って選ばれたファッションは、まず、記号的情報を見る人に伝えられる。これは具体的・一義的で、誤解の余地は少ない。逆に、着装がそのコンテクストを顕在化させる作用を持っている。

 ところが、連合的情報は受信者にどう伝わるかわからない。送信者の意図と違う理解が生まれることもしばしばである。受けとる人によって、「若々しい」と感じられたり、「年甲斐もない」と見られたりする。連合的情報は、記号的情報と異なり、コンテクストを必ずしも伝達しない。

 このように検討してくると、竹内結子のファッションやヘアー・スタイル、メークが連合的情報に傾斜していることがわかる。共同体のコンテクストを体現する役目なのに、記号的情報を軽視しては、それが観客に伝わってこない。なぜメガネをかけているのか、なぜ髪を束ねているのか、なぜそのスーツを着ているのかを共同体の側から説明できない。この女優は演技を考える際に、コンテクストの考慮をおろそかにしていると言わざるを得ない。

 インタビューを聞く限り、どうも竹内結子は仕事に一途な女性として役を演じていたようである。しかし、映画『プラダを着た悪魔』では仕事に没頭し、見てくれを二の次にする女性がいかなるファッションを選択するのかがよく示されている。冒頭に、アン・ハザウェイ演じるアンドレア・サックスが上体を前に倒さないまま、ブラをつけるシーンがある。これは彼女がファッションに無頓着だという意味のカットである。また、メリル・ストリープふんするミランダ・プリーストリーは、彼女のファッションについて、一昔二昔前のモードだと詳細に指摘する。こうした女性は、ファッションやヘアー・スタイル、メークはある時期でとまっている場合が多い。時代遅れだったり、サイズが合っていなかったりするものだ。

 無思想の演技は女優だけのせいではない。堤幸彦監督にも大いに責任がある。俳優の演技は映画のリテラシーに制約される。それはカメラを通じて構成され、カットによって切断されて、フィルム上に平面化される。物語の進行とシーンの撮影順序は一致しないことが常で、おまけにせっかく演じたのに使われないテイクも多々ある。映像は役者の演技を増幅も抑制もする。映画の時間・空間は俳優に支配され得ない。その意味で、確かに、映画は監督のものである。

 ずぶの素人が何の用意もせずに舞台に立つのは難しいが、映画では、このリテラシーのため、ベテラン俳優を上回る存在感を発揮することがあり得る。演劇では、幕が上がったら、脚本家も演出家も手の出しようがない。そこは役者が独占する世界である。コンスタンチン・スタニスラフスキーは『芸術におけるわが生涯』で言う。「舞台の唯一の帝王、支配者──それは才能ある俳優である」。反面、同じセリフを同じ相手と交わす反復のため、演技が小さく、まとまってくる傾向がある。また、役者は全体の流れを承知しているから、プロットを運ぶことに気をとられがちになる。映画は、撮影・編集の作業が加わるので、自己完結していない演技が望ましい。観客にフレームの外を想像させてしまう演技が欲しい。素人は技術が乏しいため、自分自身の内観への手探りの過程が露見する。この未完の開放性を監督が生かすと、お約束の演技に終始するベテランを凌駕する。

 経験のある俳優であれば、コンテクストを指向することで、自己完結性から脱却できる。コンテクストは俳優の記憶や経験だけでは認識できない。意識的な認知の構築が不可欠である。その際、監督がコンテクストを意識せざるを得ない仕掛けを用意しておけば、俳優もそれをうまく利用できる。映画では舞台以上に演技にコンテクスト指向が必要となる。

 ただし、コンテクストを指向する演技は目標対象と合一化することではない。各種のインタビューなどで『はやぶさ/HAYABUSA』の佐野史郎が実際の川口淳一郎になりきろうとしたことが賞賛されている。しかし、それは彼の役者としての「味」であって、演技の「質」ではない。かりに「そっくりだ」で完結した評しか得られないのでは、いい役者とは言えない。リアリティはコンテクストの有機的な顕在化であって、断片的な細部へのこだわりではない。似ても似つかないにもかかわらず、その人を感じさせる演技もある。映画『アンストッパブル』でフランク・バーンズに扮したデンゼル・ワシントンがその一例である。

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