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黒澤明の修業時代(2018)

黒澤明の修業時代
Saven Satow
Feb. 22, 2018

「その後、彼は私の助監督についたが、私とは実によく話があった。他の助監督は、映画一点張りの映画青年ばかりなのに引きかえ、油絵はもちろんのこと、日本の古い絵もよく理解していた。また新劇をよく見ていたが、能もよく見ていた。音楽はベートーベン、文学はドストエフスキーとバルザック、そして相撲と野球に詳しかった。しかし、それがすべて彼独自の見解で把握されていて、その意見には天才的な真実の追求があった。絵だって映画だって同じだと言った彼の言葉は偽りではなかった」。
山本嘉次郎

 2018年3月4日、第90回アカデミー賞の授賞式が開催される。これまで何度か日本の作品や俳優、スタッフがノミネート・受賞の対象になっている。そのアカデミー賞を受賞した最初の日本映画が黒澤明監督の『羅生門』である。部門は1951年の外国語映画作品賞だ。黒澤監督はその後もノミネートされたり、受賞したりしている。

 黒澤明監督は、世界的に最も評価の高い日本の映画人の一人である。その影響は計り知れない。けれども、黒澤監督も最初から世界的巨匠だったわけではない。彼にも修業時代がある。それは自伝『蝦蟇の油』からうかがい知ることができる。この回想を読むと、助監督として現場を共にした山本嘉次郎監督の指導に関する記述が少なからず見られる。

 これがなかなか示唆に富む。そこで、自伝から映像をめぐる指導のエピソードを三つ紹介しよう。

 山本組は、移動中の汽車の車内でショート・ストーリー遊びを楽しんでいる。誰かがあるテーマを出し、そのショート・ストーリー映像のアイデアをそれぞれ示して、どれが最もよかったかをみんなで評価する。言わば、噺家の師匠が移動中に弟子に三題噺の稽古をするようなものだ。

 この遊びはやはり山本監督がいつも制している。黒澤監督は、中でも、「暑い」のショート・ストーリーが忘れられないと次のように回想している。

 場面は牛鍋屋の二階だ。
 夏の酷しい西陽が、閉め切った窓の障子を、カッと照らしている。その狭い部屋で、一人の男が牛鍋屋の女中を、吹き出る汗を拭きもせずに、しつっこく口説いている。
 その傍で、鍋のすき焼きが煮詰まって、ぐじゅぐじゅ音を立て、その牛肉の臭いが部屋一杯にこもっている。

 確かに、これは厚い。と言うよりも、暑苦しい。想像しただけでも夏バテしそうだ。

 言葉は抽象性・一般性を扱うことができる、しかし、映像は具体的・個別的な事物しか映せない。「暑い」という抽象的・一般的な言葉を映像にするためには、人々の経験の中にある共通認識を探り出す必要がある。人には思い出しただけでも暑いと感じる経験がある。それを巧みに映像に加工すれば、人は想像力によって暑さを覚える。

 具体的・個別的な経験にある共通性・類似性に基づいて抽象的・一般的言葉を映像化する。こういった言葉を映像化するには訓練が不可欠である。ショート・ストーリー遊びは最適だろう。

 後に、黒澤明監督はこの「暑い」の映像化を試みている。1949年公開の『野良犬』の冒頭がそれである。ギラギラ輝く太陽のアップとぐったりとした犬のアップのカットバックで「暑い」を表現している。

 また、山本監督は黒澤助監督の脚本を何度か添削している。時には、助監督が眠っている間にそっとそうしている。

 その中に、文学作品を映像化する際の注意がある。文学と映画は表現方法が違う。原作を忠実に再現しても、いい映像になるとは限らない。

 黒澤助監督は、菊池寛の『藤十郎の恋』を脚本化した際、山本監督から次のように添削されたと述べている。

 私は、それを原作の通り、立札を読んで来た水野が、それについて、仲間に話すところを書いた。
 山さんは、それを読んで、小説ならこれでよいが、シナリオはこれではいけない、これでは弱過ぎる、を云うと、すらすら何か書いて私に見せた。
 それを読んで、私は吃驚した。
 山さんは、水野が立札を見て来て話すなどというまだるっこしい事の代りに、水野が立札を引っこ抜いて担いで来て、それを仲間達の前におっぽり出し、これを見ろ。とずかりと云わせている。

 言葉に頼らず、映像で物語を展開するのが映画ならではの表現である。それを意識して脚本を書かなければならない。

 黒澤助監督がPCL(現東宝)に入社した時、映画界はすでにトーキー時代である。しかし、山本監督はサイレントの経験がある。サイレントは言葉を使わず、ほぼ映像だけで物語を展開する。今何が起きているのかを動く写真で観客に認知させなければならない。文学作品をサイレントで映像化する際には、言葉を視覚化する工夫が必須だ。他方、トーキーはセリフがあるのが当たり前である。映画と文学の違いを自覚していないと、映像で語るのではなく、言葉に依存しかねない。

 サイレントの手法をトーキーに生かした例の一つとして、アルフレッド・ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』(1956)が挙げられる。この映画のクライマックスはコンサート・ホールでの暗殺阻止のシーンである。ところが、そのシーンはオーケストラの演奏する音楽が鳴り響き、台詞が一切聞こえない。しかし、映像だけで何が起きているのかが認知できる。逆に、このシーンを忠実に言葉によって再現しても感動などない。ヒッチコック監督にサイレントの経験があるから、こうした編集が可能なのだろう。

 さらに、山本監督の代表作は『馬』(1941)である。監督はこの作品の一部を黒澤助監督に編集させている。その際、助監督は監督から次のように指導されたと明かしている。

 この「馬」のストーリーの中に、売られた仔馬を探し求めて、母馬が走り廻るところがある。そういう時、母馬が、まるで狂ったようになって、厩を蹴破って飛び出すし、放牧場まで行って、その柵から中へもぐり込もうとさえする。私が、その母馬の気持が哀れで、その表情や行動うぃ克明に継ぎ、ドラマティックに編集した。
 ところが、映写して見ると、少しも感じが出てこない。いくら編集し直しても、母馬の気持がその画面からにじみ出て来ないのである。山さんは、その私の編集したフィルムを、私と一緒に何回も見たが、黙っているだけだった。これでいい、と云わないのは、これでわるい、と云う事だ。私は、ほとほと困って、どうしましょう、と山さんに相談した。その時、山さんは、こう云った。
「黒澤君、ここは、ドラマでない。もののあわれ、じゃないかね。」
 もののあわれ、この古い昔の日本の言葉で、私は、目が覚めたように悟った。
「わかりました!」
 私は、編集を、まるっきり変えた。
 ロング・ショットの情景だけを継いだ。
 月の夜に、髭や尾をなびかせて、走り廻る母馬の小さいシルエットだけを重ねるように継いだ。
 そして、それだけで十分だった。
 それは音を入れなくても、哀しい母馬の嘶が聞え、沈痛な木管の調べが聞えて来た。

 山本監督は黒澤助監督がうまくできないことをおそらく予想している。できると思っていたら、失望や叱責を口にしただろう。助監督がアドバイスを求めるまで、監督は黙っている。失敗すると想定した上で、指導をするために、このシーンの編集をさせている。しかも、山本監督は黒澤助監督がドラマティックにクローズアップのカットをつなぐと予期している。だからこそ、「もののあわれ」という助言を用意している。

 ここで、二人が「もののあわれ」の概念をいかに理解しているかは重要ではない。山本監督のアドバイスは、クローズアップとロング・ショットの効果の違いを意味している。これは映像に限らず、絵画やマンガを含む視覚的表現全般に見られることだ。

 クローズアップは映したい対象だけを画面に示す。それは対象を絶対化=必然化する。その世界は対象に支配される。一方、ロング・ショットは画面にさまざまなものが映る。中心となる対象はそれらによって相対化=偶然化される。世界は対象に支配されることなどない。

 母馬が人間によって仔馬から引き離される。彼女にはそれをどのようにしても回復することができないので、悲嘆にくれる。その嘆きは仔馬から引き離されたことだけでなく、自らの無力感にも向けられる。

 クローズアップでこのシーンを撮ると、前者の別離の感情だけしか表現できない。けれども、ロング・ショットであれば、後者の無力感も表わすことができる。これが「もののあわれ」を見る者に感じさせる。

 黒澤明監督は、この時受けたアドバイスを『影武者』(1980)のエンディングに生かしている。この映画は武田信玄の影武者が川で撃ち殺されるシーンで幕を閉じる。黒澤監督はこれをロング・ショットだけで撮っている。クローズアップを使っていない。影武者の男は自分ではどうにもならない力によって死んでいく。そもそも彼が信玄の影武者に選ばれたのも偶然にすぎない。そんな男の最期はロング・ショットがふさわしい。観客はそこに「もののあわれ」を感じずにいられない。

 自伝には、他にも山本監督からどれだけ薫陶を受けたかが記されている。中には、守れなかった指導もある。山本監督は黒澤助監督に、現場で人を呼ぶ時には名前を口にすることと注意している。それはエキストラに対しても同様である。けれども、名前覚えの悪い黒澤助監督はどうしてもできなかったと反省している。

 自伝は山本組が山本学校だったことを伝えている。画家志望の黒澤助監督は、入社した時、映画に関して素人である。その彼はこの山本学校で映画人に育っていく。山本監督は黒澤助監督に遊びながら言葉を映像化する習慣を身につけさせたり、脚本を添削したり、指導がてらにフィルム編集させたりしている。優れた映画教師の山本監督の教えを生徒の黒澤助監督は貪欲に学んでいる。

 山本監督は黒澤明青年の入社試験の面接官の一人でもある。山本監督の指導なくして後のクロサワはおそらくあり得ない。彼は山本学校の卒業生であり、山本監督は恩師である。黒澤助監督はこうした環境で修業時代を送り、世界的巨匠への道を歩み始める。

 今の映画現場でこのようなOTJはもはや見かけない。コストの制約に迫られ、すでに経験を積んだ即戦力が現場に集められる。監督が助監督の脚本を添削したり、フィルム編集させたりする余裕はない。移動中にスタッフでショート・ストーリー遊びをすることもないだろう。

 状況が変わった中で過去を懐かしむだけでは建設的ではない。ただ、こうした環境がクロサワを育てたことは知っておいた方がよい。この修業時代に学ぶところが今もある。
〈了〉
参照文献
黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波現代文庫、2001年

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