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社会性とリテラシー(2013)

社会性とリテラシー
Saven Satow
Mar. 24, 2013

「山中の孤独の中での修行も、四つ辻に座って人の話に耳を傾けることにはかなわない」。
中国の諺

2013年3月14日付『朝日新聞』に、同紙の紙面審議委員を務めた内田樹神戸女学院大学名誉教授が「2年間を振り返って」と次のようなコメントを寄せています。

 最初はけんか腰で「新聞の時代は終わった」と言っていたが、議論する中で生身の人間が膨大な情報を集め判断し伝える、人間の努力の総意で新聞ができていると知り敬意をもった。議論の場を紙媒体のメディアである新聞で確保してほしい。

 新聞のリテラシーを持たぬまま、紙面審査に臨み、極端な自説が議論の中で修正されたというわけです。大学生がこれを発言したのなら、驚きません。学生は社会性がないものだからです。

 しかし、コメントの主は内田名誉教授です。紹介文には「50年生まれ。専門は仏現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じ、『街場の現代思想』など著書多数。合気道七段の武道家」とあります。これを読む限り、社会性のない人物とは思えません。

 内田委員のコメントは近代における社会性の困難さをよく物語っています。近代以降では、実は、社会性を自然に体得できません。それは意欲的に習得する必要があるのです。

 日本の前近代社会では、全般的に仕事が家業ですから、家庭と職場がほぼ一致しています。人にとって社会は一つなのです。身分や職能が親族間で伝承されるので、相続社会と呼ぶことができます。同じことを繰り返すのですから、亀の甲より年の功で、経験が知恵に直結します。また、共同体内のつながりが強く、幅広い年齢層間のコミュニケーションが基調で、若者は年寄から知恵を学びます。極端な思考は、この過程でバランスが整えられるため、消失します。歳をとるごとに、社会性が身についていくのです。

 しかし、近代社会では違います。賃労働が浸透し、生活と労働の場が分離して、人にとっての世界は二つになります。体験で得られた知見が社会全体に通用しません。ある職場で身につけた知識や技能も、その外では必ずしも一般性を持ちません。社会人として働いているから社会性があるほど単純な話ではないのです。

 また、生活と生産の場が別ですから、交友関係を選べます。年齢や嗜好、思想信条、相性など似通った人間が集まり、同質的な関係でコミュニケーションをする機会が増えます。こうした閉鎖空間では、他との異質性が強調され、短絡的なステレオタイプが指向されます。それは好き=嫌いや善い=悪いといった強い感情的反応、すなわち情動を伴い、冷静な判断力を低下させます。全体像の把握ではなく、断片的情報に囚われてしまいます。多様なコミュニケーションが乏しいので、偏った考えが補正されずに増幅される危険性があるのです。

 内田委員はまさに近代の課題を体現していると言えます。こうした特徴の近代ですから、功成り名遂げる人物であっても、社会性がないことは十分ありうるのです。また、極論が訂正されないまま、増長されてしまう危険性もあります。ですから、近代以降では、多様なコミュニケーションを意識的にする必要があるのです。ユルゲン・ハーバーマスは現代における公共性の形成をコミュニケーション過程に見出し、熟議の民主主義を提唱しています。近代社会の特徴を踏まえるなら、その意義は大いにあるのです。

 内田委員は新聞のリテラシーを持たないまま、紙面批評に臨んでいます。新聞はコミュニケーションですから、固有のリテラシーを通じて読者にニュースを伝えています。このリテラシーを無視して思いつきや思いこみで情報を加工しても、新聞報道にはなりません。

 非専門家のメディア・リテラシー学習の意義は通常こう考えられています。送り手と受け手の情報の非対称性を是正し、批判的に対象に接して、主体的な思考を育むために、必要とされているというわけです。確かに、これは間違いではありません。けれども、近代社会の特徴を踏まえるならば、リテラシーの学習は社会性習得とも捉えるべきです。

 ある領域で身につけた知識や技能が社会全体に通用するわけではありません。専門化が進んでいますから、少しでも外れると素人になりかねません。社会は断片化されているとも言えます。こうした状況におかれた異なった人の間でコミュニケーションを可能にするために、リテラシーが必要になるのです。専門家になるには足りないけれども、その領域をめぐるコミュニケーションが成り立つ程度の仕組みの理解を共有すれば、社会の断片化は解消されます。多様なコミュニケーションが促進され、極論も修正されやすくなります。

 このように、リテラシー学習は社会性習得のために必要なのです。

 批判してきましたが、内田委員は、新聞のリテラシーはともかく、問いに対する返答にはなっています。ところが、審議委員の中には設問の意味さえよくわかっていない人もいます。村上憲郎前グーグル日本法人名誉会長がそうです。

 日本が大きな変わり目にさしかかっていると痛感する。ひょっとしたら、武力衝突という懸念も感じざるを得ない。軍事について語ること自体が「好戦的」と受け取られる空気もあるが、朝日新聞には冷静に軍事を語ってもらいたい。

 紙面審議委員が「2年間を振り返って」と尋ねられているのです。そうしたら、それは「2年間の紙面審議委員の経験を振り返って、あなたの意見を述べてください」と聞かれていると理解しなくてはなりません。2年間の紙面審議委員の経験を材料にして自分の意見を答えるように求められているのです。

 たとえ話をしましょう。新聞社の入社試験で「信用について書きなさい」というテーマの小論文が出されたとします。この設問の意図は、回答者に信用一般ではなく、新聞社にとっての信用について意見を尋ねているのです。新聞社志望の人が聞かれているのですから、いちいち断らなくても、それくらいのことはわかっていなければ、適性がありません。新聞はマスコミュニケーションです。出題者の意図も読み取れない人がコミュニケーションの職に就くのは適当ではありません。

 村上委員は「47年生まれ。システムエンジニアを経て外資系IT企業数社の日本法人代表を歴任。著書に『村上式シンプル仕事術』など」と紹介されていますから、多様なコミュニケーションを経験しているはずです。しかし、村上委員は2年間の審議委員の経験に触れていません。しかも、「痛感」や「空気」が示すように、主張の根拠が自身の感覚であって、感想として物申しているだけです。村上委員は質問の意図がわかっていないのです。

 審議委員会は座談会形式をとっていますので、尋ねられた文言は「2年間を振り返って」ではなかったかもしれません。けれども、任期最後の会合です。総括を聞かれたことでしょう。文言はどうあれ、質問の主旨は「2年間を振り返って」と同じです。そもそも質問者が目の前にいるのですから、わかりにくかったら、意図を確認できるはずなのです。

 他の審議委員の古城佳子東大大学院教授と土井香苗ヒューマン・ライツ・ウォッチ日本代表も2年間の経験に言及しつつ、自分の意見を述べています。「2年間を振り返って」の問いかけの意図の読み取りが決して難しくないことがここからもわかります。他の三名の委員と違い、村上委員はこの2年間の議論から何も学ばなかったのか、自らの偏向が修正された経験がなかったのか、思考が進化しなかったのかといった疑問さえわいてきます。

 率直に言って、新聞リテラシーを身につけていない人物を紙面審議委員としても、建設的な紙面批評にはなりません。彼らが読者の立場に近いからと反論するのであれば、それは新聞社側の逃げ口上と見なせます。リテラシーの十分でない人による批判は、思いつきや思いこみに基づいていることが多く、新聞ならではの部分への生産的な批判になりにくいのです。コミュニケーション能力に疑問がある人物を審議委員にしている現状では、読者からの批判のガス抜きと思われても仕方がありません。

 同紙が月一で連載している『池上彰の新聞ななめ読み』と比べれば、この審議委員の紙面批評の質が必ずしも高くないことははっきりしています。このコラムは、大きな事件・出来事をめぐる報道を朝毎読日経東京の各紙の記事を比較し、新聞のリテラシーと照らし合わせながら、批評しています。評価基準は読者としての主観性ではなく、リテラシーです。紙面審議委員に評論させるよりも、このコラムの連載を週一に変更した方がよほど有意義です。

 新聞のリテラシーに基づく批評が記者や読者の理解を共有させ、よりよい紙面制作へつながっていくのです。新聞に限らず、近代の特徴から、リテラシーの明示は社会性に寄与します。暮らしているだけで身につくように、社会性が暗黙知として十分だった時代ではありません。社会性もリテラシーを通じて明示化して習得しなければならないのです。
〈了〉

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