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生きられた超人─長嶋茂雄(6)(1992)

第3章 長嶋とは何であり得るのか
第1節 「わが巨人軍は永久に不滅です」
 長嶋は、一九七四年十一月十四日、ジャイアンツ=ドラゴンズの最終戦(於後楽園球場)を最後に引退する。デビュー戦と違って、この試合の打席の結果は何一つ語られることはなく、ただあの試合後の引退式だけがファンの口に上る。長嶋の構築したエピソードの一つの頂点はあの引退式にあるように思われる。

 長嶋はセレモニーで、「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫び、その後、外野スタンドの前を涙を流しながら、ファンに別れを表わしている。過剰な言葉をかき消し続けた長嶋が発したその言葉は何を意味しているのだろうか? 楽しさを示し続けた長嶋の涙は一体何だったのだろうか? メロドラマを拒否し続けた長嶋は最後の最後になってそれを演じてしまったのだろうか? 長嶋の泣く姿を鑑賞し表わすだけでは、長嶋によって変革された意識それ自体を読みとることはできない。

 近藤唯之は、『天才の悲しみー長島茂雄』において、長嶋の「悲しみ」について次のように述べている。

 11月2日、後楽園球場で第7戦が行われた。巨人は3連敗のあと、3連勝だから、乗りに乗っていた。
 さて1対1の同点で迎えた六回、巨人はライト投手の中越え二塁打などで2対1と逆転、なお一死満塁の場面に持ち込んだ。このとき六番・淡口憲治右翼手は足立の初球、真ん中低めに沈むボールにバットを出し、投ゴロ併殺に終わった。
 その瞬間における、長島監督の表情を忘れはしない。顔をゆがめ、右足スパイクで地面をけり、まるでサヨナラ満塁本塁打を食ったような一瞬だった。
 淡口は併殺だったとはいえ、2対1と逆転したのは本当である。なぜ、あれほど悲しむのか。私は長島監督のゼスチャーはオーバーすぎると思った。
 ところが3分後の七回一死後、一塁走者・ウィリアムス右翼手をおき、六番・森本潔三塁手は左翼席逆転本塁打をぶっとばした。天才というのか、ひらめきというのか、淡口が併殺打になった瞬間、長島監督はすでに3分先の再逆転を予想していたのかも知れない。私はそこに天才・長島の悲しみを見たと思った。

 長嶋は、つめ将棋が素人やそれ程熟達していないものにとってはまだ途中に見えてもすでに終わっているように、野球において先がほぼ完全に読めており、すべてを認識している。野球はパターンや構造の反復の中にあり、すべては繰り返しにすぎない。だが、その繰り返しはそれぞれ単独的なものである。長嶋の「悲しみ」は出来事の悲惨さではなく、そうした認識、悲劇のヴィジョンに関わっている。繰り返ししかないと認識し、先が読めるにもかかわらず、その一回一回は二度と戻ってこないと経験しつつ生きることは悲劇的である。長嶋は、結果がすべてではない以上、悲劇を意欲的に反復する。長嶋の涙はこの反復を認識することから流れ出るのである。

 野村克也による「ID野球」提唱以降、日本のプロ野球界では、従来の決定論に代わって、確率論が支配的である。しかし、「あの一球が大きかった」とか、「あのプレーが流れを左右した」、「あのゲームでシーズンが決まった」という言い方がよくされるように、プロ野球を考える場合、むしろ、カオス理論や複雑系による認識の方がふさわしい。

 そもそもスポーツは初期条件に敏感に依存する。十九世紀末、最初にカオス性の運動に気がついたアンリ・ポアンカレは、『科学と方法』において、「われわれの目をかすめるような極めて小さな原因が、無視できないほど大きな効果を生むことがある。この時、その効果は偶然に起こったと言われる」と述べている。彼は、三つの天体の運動を調べる「三体問題」と呼ばれる天文学の問題を考えている際に、一九六〇年代に「カオス」と命名される運動を発見している。複雑系は、哲学的には、ポアンカレとほぼ同時期に研究を開始していた数学出身の哲学者E・フッサールの「現象学」に類似している。

 長嶋は、先のプレーに、「今日北京でチョウガ羽を動かして空気をそよがせたら、来月ニューヨークで嵐が起こる」という比喩で説明される「バタフライ効果」を見出したために、「悲しむ」。長嶋は複雑系の認識を持って、プロ野球を見ている。長嶋がかつて「カンピューター」と呼ばれていたことを思い起こすべきだろう。カオス理論や複雑系はコンピューターによって再発見され、その可能性が追及されている。「その複雑さは驚くべきもので、私自身もこの図形を引いて見せようとは思わない」(ポアンカレ『常微分方程式』)。つまり、長嶋という「カンピューター」が野球における複雑系を顕在化させるのだ。

 長嶋は引退した翌年一九七五年に、『旧約聖書』の巨人ゴリアテに由来するジャイアンツの監督に就任する。長嶋は、その際、背番号を3から90に変える。背番号3というエピソードに別れを告げるためである。五年後の一九八〇年、長嶋は成績不振を理由に監督を解任される。長嶋の監督としてのテーマは試合に勝つこと以上に楽しさをプレーする側にも見る側にも感受させ得るかという点にある。多くのファンはそれを求め、長嶋に声援を送っている。しかし、球団は勝たなければ親会社の新聞の発行部数やテレビの視聴率が低下すると恐れている。長嶋はルサンチマンに囚われた読売球団によって、すなわち被害者意識が転じ加害者になるというあの反転によって解任されてしまう。長嶋は勝利のみを要求している球団と、結果において、一致していた間だけ監督たり得ている。

 それでも長嶋は解任されたジャイアンツを愛している。その姿を愚かしく情けないと評するものがいるが、ジャイアンツ・ファンと長嶋のジャイアンツへの関わり方は異なっている。ジャイアンツ・ファンにとってのジャイアンツはルサンチマンを晴らすことの対象にすぎない。長嶋は自分自身が現にこうしてあり、その自分を可能にしたこうでしかありえなかった現実としてジャイアンツを愛しているのである。

 言うまでもなく、ジャイアンツが長嶋を生み出したわけではない。長嶋は自分自身が関わり、相互作用を繰り返してきたあるがままの現実として愛している。どんなに人生がそれでボロボロになったとしても、再起不能なまでのこころの傷を受けたとしても、ジャイアンツから無視され続けたとしても、どんなにそのジャイアンツが腐敗し最低になっていたとしても、愛されることが迷惑だとしても、長嶋は愛し続ける。「愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。あなたがた臆病者に、わたしはそう告げる」(『ツァラトゥストラ』)。愛することはルサンチマンを廃した完全な肯定を意味している。長嶋はルサンチマンに囚われている数々のプレーヤーに対して「強者」としての超人の生き方を示し、「救済」する。「過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうであった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること──これこそわたしが救済と呼びたいものだ」(『ツァラトゥストラ』)。長嶋最大の救済は読売球団に対してのそれである。にもかかわらず、読売球団は長嶋が愛することによって自分たちを「救済」していることに気づいていない。

 長嶋は引退式で「わが巨人軍は永久に不滅です」と叫ぶ。「永遠」ではなく、「永久」と言ったことに長嶋の真意がある。「永遠」は、ニーチェの永遠回帰のように、内的なものだけで限りなく運動が回帰してくることであり、「永久」は、永久機関のように、外的な働きかけのないまま限りなく運動が回帰することなど机上の空論でしかないという意味がある。長嶋があの引退式で告げたかったことは次のことである。「あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見いだすことになった。信仰者とはいつもそうしたものだ。だから、信仰するといってもたいしたことはない。いま、わたしがあなたがたに求めることは、わたしを捨て、あなたがた自身を見いだせ、ということだ。そして、あなたがたがみな、わたしを知らないと言ったとき、わたしはあなたがたのところに戻ってこよう。まことに、わが兄弟よ、そのときはわたしはいまとは違った愛でもって、わたしの失われた者たちを尋ね出すだろう。いまとは違った愛をもって、あなたがたを愛するだろう」(『ツァラトゥストラ』)。つまり、「巨人軍」が「不滅」などは机上の空論にすぎず、「巨人軍」にとらわれるのではなく、自分自身を「見いだせ」と長嶋は言わんとしている、すなわちあれは最高のユーモアである。

 ニーチェは、『ツァラトゥストラ』において、あの永遠の回帰について次のように語っている。

 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。
 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。──
 あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ!
 ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ!
 ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは──永遠を欲するからだ。

 ピッチングにしても、バッティングにしても、野球を支えるのは円運動であり、長嶋はこの円運動を消極的な繰り返し、すなわち惰性ではなく、積極的な繰り返し、すなわち反復へと、永遠回帰へと創造するのである。プロはこの反復による創造ができなければならない。たった一度でも生が肯定される瞬間があったなら、その「よろこび」によって世界や生を「然り」とし、「帰ってこい」と叫び得るものにする。ここでニーチェは、生き難い現実に対して働きかけるか否かだけではなく、現れてきた今ここをどのように生きるのかと問うている、すなわち苦悩や悲嘆を「反感」の病的な回路に向け、生を否定し、それを晴らすように復讐のために生きるのか、それとも苦しみを「わたしがそのように欲した」へとつくりかえて、よろこびを一切の苦しみとともに「去れ、しかし帰って来い」と健康的に肯定するのかの二者択一を提示している。長嶋の目指したものはこのニーチェの永遠回帰と同一のものである。二度目の監督就任の際に選んだ新たな背番号33は3の反芻、永遠回帰を意味するのだ。事実、長嶋は、再び、その背番号3へと回帰する。長嶋は生きられた超人である。すなわち彼自身が新しい価値の定義であり、新しい価値を創造しているのだ。

 長嶋登場以降における日本プロ野球のピッチャーの中で最高は、先に言及した点も考慮して、江夏である。沢村栄治やスタルヒン、金田正一、稲尾和久らはその以前にプロ入りしているため、この条件から除かれる。「失われた時」を求める江夏を語るには「奔流のような活動の衝撃と活気を受けとめ」(『失われた時を求めて』)、比喩的な関係についてのメタ比喩性を喚起させる必要がある。なお、江夏以降で最も速い球を投げたのは山口高志であり、最も美しい球を投げたのは郭泰源である。

 その江夏は最も嫌な打者として王ではなく、長嶋をあげている。理由は「わからないから」だという。「王さんは、こっちが“決めた”と思った球はまず打たれない。長嶋さんは反対。やった、という球を打たれるんだなあ」。だが、長嶋はそれこそが一流投手に対する打者の知恵と断言する。「江夏級の一流投手が勝負してくるシチュエーションは、案外決まっている。自信があるからだろうね。僕はその球にヤマをかける。ウィニング・ショットを狙うほうが的中率は高いからね。それを打つのがバットマンのテクニック。狙っているからできるんです」。長嶋は、いかなる状況においても、このように新たな価値を創造する。

 長嶋は、日本語や英語、スペイン語だけでなく、既存の言語を解体し、長嶋語と呼ぶほかない新たな言語すらもつくりあげてしまう。長嶋は言語に敏感である。長嶋は、その直観力により、すべてのものに命名する。しかし、この比喩力のみに頼ることなく、長嶋は詩人としてだけではなく、散文家としての才能も発揮する。長嶋はつねに両義的である。

 長嶋語は、あの終わりのない永遠に続くセンテンスにより、すべてのものを飲みこむ恐るべき強度を持った肯定の言語である。さらに、男性や女性の言いまわしの区別もなくなる。一切の文法上の誤りのないその言語を耳にするだけで、誰もが真似をしてみたくなり、「しあわせ」になれるのだ。創造された新たな価値は、時が経るとともに、象徴や彫像、偶像に堕してしまいかねない。永遠回帰はこの宗教的な危険を粉砕する。長嶋に憧れることは偶像崇拝ではない。長嶋はそうした宗教的な通俗からほど遠い。あのカン高い声は聖者への哄笑を意味しているのだ。

 だが、長嶋は神などではない。神はすでに死んでいる。長嶋は生まれた頃から超人だったわけではない。長嶋は、むしろ、人一倍負い目やコンプレックスを感じ、ひどくルサンチマンに囚われている。小学生の頃は「チビ」と馬鹿にされ、中学高校時代に身長は伸びそう呼ばれなくなるものの、立教大学時代はひどい千葉訛が抜けず、それをごまかすために口癖となった「チト」と「ハア」から、「チト、ハア」というあだ名をつけられ、その訛ゆえに長嶋は合宿所にかかってきた電話に一切出ず、電話番の仕事を逃げ回っている。長嶋はそうしたルサンチマンに対してある踏ん切りをつける。ルサンチマンが大きければ大きいほど、それが転換されたとき、大いなる生の喜びとして現れる。つまり、長嶋はルサンチマンを打破しろではなく、転換せよと言っているのだ。引退式はそのメッセージにほかならない。

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