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I Love You, Mr. Robot─手塚治虫の『鉄腕アトム』(10)(2001)

10 Ethica
 石ノ森は、自伝的マンガ『青いマン華鏡』(一九七三)で書いているように、マンガを「芸術」と把握している。石ノ森の姉は、どうしても芸術性を高めようとするあまり難解さに走る傾向にあった彼に、難しくないけれども高い芸術性を持っている「ジョン・フォード」の映画のようなマンガを描くことを諭している。石ノ森は、ときには、読者を無視し、娯楽路線をとらないことを厭わない。

 石ノ森に対して、手塚がマンガの娯楽性を重視し、商業主義を堅持したのは、政治的だからである。政治権力の正統性には民衆の支持が欠かせない。手塚には読者の反応は自らの正統性に直結する。手塚のマンガ家としての政治権力は制度ではなく、民衆との社会契約に基づいている。手塚は自らの正統性獲得のために、スタイルを変えることをためらわない。

 長野規編集長や西村繁男編集長に始まる『週刊少年ジャンプ』が極度にこれを強調し、編集が介入する結果になっる。小林よしのりは、それを疎ましく思い、逆に、読者を背景に自分のスタイルを制度化させようと躍起になり、現在に至っている。晩年の石ノ森は、西村編集長の頃に頭角をあらわした秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の巻末エッセーにおいて、名作は量産の中から生まれるという趣旨の下、「ジョン・フォード」に言及している。

 「マンガがとても豊かな娯楽性を発揮して、大衆文化として根づいているとすれば、先鋭的な表現と定型的な表現とが互いに完全に分離しないで、交流しながら発展しているからだろうと考えられます。おうおうにして批評家やマニアがバカにしてしまうような作品、どこを読んでも同じような類型的な作品がたくさんあることによって、初めてマンガ文化全体が豊かなダイナミズムをもちうるのです。『いいマンガ』、『優れたマンガ』、『先鋭的なマンガ』のみを評価して、『くだらないモノ』は排除するという発想でマンガをとらえると、自分で自分の首をしめるようなことになりかねません」(『マンガはなぜ面白いのか』)。

 手塚も夏目房之介の意見に同意する。マンガは、そのため、アナーキーでなければならない。「どんなものを、どんなふうに描いてもいいのだ。支離滅裂、奇怪破廉恥、荒唐無稽、独善茫然自暴自棄、非道残虐陰惨無法、狂乱狂恋百鬼夜行的なものを描いてもらいたい。それがつまり落書き精神だ」。

 けれども、手塚は、『マンガの描き方』において、倫理はあると続けて次のように述べている。

 しかし、漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らなければならぬことがある。
 それは、基本的人権だ。
 どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、だんじて茶化してはならない。
 それは
 一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと
 一、特定の職業を見くだすようなこと
 一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと
 この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
 これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人を問わずである。
 これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。

 手塚の倫理は他者を認めること、すなわち共生である。しかし、それに反しているものを規制してはならない。「権力や圧力の庇護があって、漫画家は何ができようか」(『ぼくはマンガ家』)。暴力を背景にするのではなく、議論を通じて、マンガにおける共生を実現しなければならない。しかも、議論は「人権」を制度化させることを妨げる。すべてが時代によって変わっていくように、「人権」の枠組みも変身していく。

 手塚治虫の作品にはこうした倫理の問題があっても、自意識や成長といったロマン主義的な問題はない。手塚だけでなく、トキワ荘世代にも、こうした問題はない。手塚はゲーテの”Faust”を三度マンガ化し、ニーチェ的に『ファウスト』を読み、その克服を試みている。手塚が描きたかったのは、先に述べたように、ポスト永劫回帰である。アトム自身もそれを体現している。アトムはコギトを持つロボットとして登場する。「電光人間」や「アトラス」(一九五六)において、人間と比べたアトムの不完全性が問われている。アトムには「悪」がないというわけだ。

 この「悪」の欠落はニーチェの『反時代的考察』における「ルソーの人間」から「ゲーテの人間」を経由して、「ショーペンハウエルの人間」への転換を意味する。国木田独歩の『武蔵野』の一節が引用されている「赤いネコ」のエコ・テロを敢行する四足には、「ルソーの人間」特有のロマン主義的情熱が見られる。アトムは、このとき、「ゲーテの人間」として振舞っている。しかし、「ゲーテの人間」はメフィストフェレス的「悪」が欠けているため、俗物に堕してしまう危険性があり、そこで、「ショーペンハウエルの人間」へと変化する必要がある。「青騎士」から「メラニン一族」で、手塚はそれを提示しなければならなくなる。だが、「ショーペンハウエルの人間」は価値破壊には適していても、新たな価値を創出できない。

 アトムは新しい価値を創造するために、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の「幼子」へと変化を遂げる。「幼子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」。

 「アルプスの決闘」(一九五六)では、アトムも人間の感情を持つことに憧れ、実際、持ってみるものの、最終的に、ロボットである自分自身を受け入れる。アトムは自らに宿る「幼子」を肯定するとき、アトムの幼児体型は好ましいものとなる。これにより、アトムは手塚にさらなる変身を促す。

 アトムは時代に沿って成長しているわけではなく、子供の頃見た「夢」のように、それぞれの作品で、さまざまな姿を示している。アトム自身も記号であり、場面と設定に応じて、役を演じているだけだ。「思い出のアルバムを繰るとき、別に、生まれたときから順にする必要もない。それに、いたるところが欠落だらけで、連想によって、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、いくつかの情景の断片が、編集されていく。みらいへのゆめにしても、いろんなイメージが脈絡もなくあって、それが順次に達成していくほどの計画性はない。もっと極端には、夢の中の時間がある。これこそ断片が、矛盾しながら重なりあっている。ただしぼくは、見たつもりの夢の物語を、本当に見たのかどうか、ちょっと疑問に思っている。あれは、目ざめたときにその断片を物語に編集したものではないだろうか。それゆえ、夢判断というものの有効性は、編集批評としてあるのかもしれない」(森毅『過去・現在・未来』)。

 手塚治虫と同時代を生きた森毅は、『マンやヘッセを読んだ時代』において、「空襲の中でゲーテを読んだって、それは『オレンジの花咲く南の国』の話であって、自分自身の人間形成になんの関係もない」と言い、続けて次のように述べている。

 戦中から戦後にかけては、むしろ成長が約束されていないところに特徴がある。決まったコースで成長することが約束された中で、青春という通過儀礼を待つというのは、明治以来のエリート文化だったのかもしれぬが、それはすでに崩壊していたはずで、考えようによっては、昭和をその崩壊過程と考えることだってできる。

 人生その時々に、それを成長と呼べるかどうかは別としても、さまざまな屈折があるのは当然のことである。そして、その原型が青春にあって、その時に人生が固まってしまうものでもなく、別の形の屈折として姿を現すものだろう。そうした意味でこそ、青春の屈折である。それは成長を約束させるものでもない。現在のぼく自身にとって、マンやヘッセを読んだ時代というのは、もうほとんど忘れてしまった青春の物語でしかない。しかしながら、その青春をどう位置づけるかは、老人の現在の問題としてある。

 これは手塚の思いそのものであろう。森毅は手塚少年をよく知っていたし、母親がファンだったこともあって、手塚以上に、「ヅカ・ガール」と親しい。彼らには成長主義や男性中心主義がない。ただ「夢」の時間性があっただけである。

 通時的に見れば、五〇年代では弾力性のある線、六〇年代には硬い線という違いはあるものの、手塚は人間もロボットも動物も同じ線で描いている。手塚はすべてが生命体なのだと言っているわけだが、より正確には、それは機械としての生命体という意味である。この場合の機械は言語によって構成されているバイオエレクトロニクスと解釈する必要がある。手塚は人間も動物もロボットも区別しない。人間も動物もロボットも機械だからだ。人間も動物も遺伝子で書かれた機械である。その違いは、ヒトゲノム計画が明らかにした通り、ほとんどない。

 少なくとも、一九六一年に「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的考察」により奈良医科大学から医学博士号を授与された手塚は、遺伝子レベルでは、人間と他の生物は極めて類似点が多いことを知ってる。「タニシの精子と人間の精子とをくらべると──いや、べつにタニシでなくとも、豚でも庭と鶏でもおなじなのだが──大きな共通点があることがわかる。横に切って調べると軸索が九本螺旋状に走っているのが見える。これは、いかなる動物の精子でも九本より多くもなければ少なくもない。実に奇妙な統一なのだ」(『ぼくはマンガ家』)。

 いかなる生物も遺伝子という情報によって成立し、ロボットを構成するコンピューターは機械語で動く。三者とも言語によって書かれた機械である。大友は無機的にすべてを捉えるが、手塚はそれをバイオエレクトロニクスと見ていると考えるべきだろう。意欲的なマンガほど、時代とともに、人物を男性=女性という区別ではなく、中性として捉える傾向にある。しかし、手塚の線は男性でも、女性でも、中性でもない。つねに「克服されるべき何ものか」(『ツァラトゥストゥラ』)、生成を表象している。

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