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邪魔くさいけどええやないか─森毅(4)(2021)

第4章 人生論と旧制高校
 だが、森毅は、80年代のエッセイにおいて高齢者に憧れ、早く年を取りたいといった願いも口にしている。森毅は都市部の核家族家庭で育っている。三世代以上の家庭と違い、日常的に高齢者に育てられた経験はない。高齢者は経験を積んでいるため、力が抜け、洗練され、社交家である。森毅が出会ってきた高齢者はそういう姿であり、その魅力を体得したいと願っている。そこには否定的なものを肯定化しようというアイロニーがない。

 その森毅が老年人生論を本格的に語り始めたのはバブル経済崩壊後の90年代初頭である。『老人力』の流行よりも5年以上早い。高齢社会までもう間もなくであっても残念ながら、巷はまだ用意ができていない。森毅の人生論は近代的な発達段階説を踏まえつつも、その意味を再構成している。

 1928年生まれの森毅は88年に還暦を迎え、91年に京大を退官する。80年代後半の日本人の平均寿命は男性が75歳、女性が80歳を超えている。定年後に15年の老後が待っている。自由の身になっていかに生きていくべきかと問うのに十分な時間がある。執筆にはそうした事情もあるだろう。しかし、見逃してならないのは森毅が旧制高校の最期の世代だということだ。旧制高校生は近代日本において人生論を最も愛読してきた人たちである。戦後、人生論は民主化されたが、戦前においてはエリートにとってしか必要とされていない。人生論の旧制高校文化に囲まれながら、それを自分なりに解釈して受け取ってきたのが森毅である。

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。
 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。
 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。
 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。
(森毅『景気の還暦』)

 人生論はよく生きることをめぐる思索である。それは古代よりあるジャンルで、幸福論とも言い換えられる。ただ、近代の人生論はそれ以前と時代背景が異なっている。

 前近代における政治の目的は徳の実践、すなわちよく生きることである。しかし、欧州で16世紀から宗教戦争が頻発し、自身の道徳の正しさに基づいて殺し合いが繰り広げられ、それが崩れる。平和でなければ、徳の実践も叶わない。政治の目的が平和の実現へと変更される。

 その際、政教分離が進められる。政治を公的、信仰を私的領域として分け、相互干渉を認めないこととする。これは公私の区別としてさらに展開される。価値観は私的領域に属し、その選択は個人に委ねられる・

 従来のよく生きることは自身が所属する共同体の道徳規範にとってふさわしいそれである。しかし、価値観はもはや個人に選択が委ねられている。よく生きること、すなわち幸福も個人によって異なる。こうした近代における人生論は、従前のものと違い、個人主義的にならざるを得ない。そこで、既成の価値観を相対化した上で、「人生というものは何か」や「幸福というものは何か」という再検討が試みられる。モラリストの思索が好例である。理想が個人に委ねられているので、人生論は現実の自分がいかなる道筋を進めばよく生きることになるかを語る。

 前近代が静的社会であるのに対し、近代は動的である。前近代は遺産相続社会で、人は生まれついた家の身分や職能によって将来が決まる。選択の自由がない。一方、近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念としている。それを踏まえ、人はどのような人生を選ぶべきなのかを問い始める。近代では通過儀礼によって子どもから大人へと転換するわけではない。幼年から少年を経て青年へと成長し、壮年や老年へと至る。生きていく過程を通じて苦悩や葛藤などを経験して内的に成長していくものだ。

 この精神の成長を文学作品にした作家の一人がヨハン・ヴォルフガング・ゲーテである。ゲーテは、文学史において、教養小説の代表的作家と位置づけられている。これは人間の内的世界の成長を描くジャンルである。なお、この過程に歴史的変化を重ね合わせたのが大河小説で、フランスにおいて発達している。当時の欧州はフランス革命前夜であり、近代社会が到来しつつある。教養小説はそこに誕生した新しい人間類型、すなわち近代人を文学に導入する。

 そのゲーテは、青年のみならず、老年に至るまでの総体的な人生をめぐる『ファウスト』のような作品を創作している。彼は近代人に向けた人生論を語る。その言葉は同時代の欧州のみならず、近代化を迎えた地域の人々の心にも響く。特に、人生の意味を探し、将来に悩む青年が人生の指標として受けとめる。

 青年は近代において変化を担う存在である。青年ヘーゲル派や青年トルコ党、『新青年』、青年将校など「青年」には球体歴然たる遅れた社会をロマンティックな情熱によって一気に変えてみせるという情熱のほとばしりがある。

 明治維新以後の日本の青年も同様である。日清・日露の戦間期、「煩悶青年」が社会現象になっている。きっかけは1903年の藤村操の自死である。子のエリートの自死に触発され、後追い自死が頻発する。この時期は明治の心の時代とも呼べる。キリスト教や仏教を始め宗教の改革運動が盛んで、青年たちは内村鑑三や井上園得ようなどの下に足を運んでいる。高山樗牛の修養主義が流行、これが大正に入り、エリート青年の教養主義へと発展する。

 しかし、文明開化が進みながらも、近代の理念通りに生きられる人はわずかである。人生に対する夢を抱いていても、貧困や規範などのために断念せざるを得ない。国民の大部分は貧しく、高等小学校を卒業してすぐに働きに出なければならない者も多い。そんな人々にはゲーテの言葉に触れる余裕もない。選択の自由がないのだから、人生論を必要としない。あくまで旧制高校性など一部のエリートがゲーテを始め人生論を読んでいるだけだ。むしろ、人生論を紐解き、心に留まったフレーズを抜き書きしたり、意見をノートに綴ったり、友人と語り合ったりするのがエリートの証である。ただ、そうした習慣は1920年代の出版産業の拡大と共に、旧制高校性以外の青年にも染み出していく。

 1922年生まれで、画学生志望だったマンガ家の水木しげるもゲーテの人生論に感銘を受けた一人である。彼は『ゲーテとの対話』を愛読、戦地にも持っていき、繰り返し読んでいる。水木しげるよりも年下で1928年生まれの手塚治虫もゲーテに影響を受けている。彼は、中でも、『ファウスト』に惹かれる。三度マンガ化を試みただけでなく、他の作品にもそれを取り入れている。なお、手塚治虫は森毅の旧制北野中学の1学年後輩である。

 当時は戦争中であり、旧制高校生以外の青年も人生について考えている。しかし、それは選択の自由からではない。死が迫っているという切迫感による人生の意義の発見である。「お国のために死ね」と命じられながら、青年は人生の意義や証を見出そうとする。戦争が青年に人生論を求めさせる。

 しかし、人生論を最も求めたのはやはり旧制高校生である。このエリート校文化は人格形成を目指し教養主義で知られる。リベラルでバンカラな気風の中、語学クラス・運動部・寮で強い仲間意識が養われる。この学歴貴族の愛読書は三木清の『人生論ノート』である。選択の自由が開かれた彼らにはいかに生きるべきかと思い悩む。森毅はそうしたエリートの一人だ。彼は、旧制第三高等学校(現京都大学教養部)在学中の二年生の時に終戦を迎え、1947年、東京大学理学部数学科へ進学、50年に卒業している。この47年から東京帝国大学に代わって東京大学の名称が使われ、49年に教育制度改革が実施されている。つまり、森毅は最後の旧制高校世代である。

 森毅は、1928年1月10日、東京府荏原郡入新井町(現東京都大田区)に生まれている。彼は核家族の一人っ子である。父は師範学校を経て東京帝国大学理学部物理学科に入学、卒業後、外資系企業に就職している。また、母は一人っ子であることなどをのぞけば、自伝『自由を生きる』にあまり経歴の記述がない。ただ、森毅は知的好奇心の発展において母からの影響について語っている。母の思い出は、文学や宝塚への関心、ツケ回しによる買い物習慣、気まぐれな子育ての姿勢など後の森毅につながるものだ。他方、父をめぐる回想は比較的少ない。しかし、それは手塚治虫のような、父に対してアンビバレントな感情を持っていたからではないだろう。父の持っていた理数系の本を読んだと述べているので、おそらく彼が働き詰めで、接する機会が限定的だったからのように思われる。

 1929年に世界恐慌が起き、父が解雇されてしまう。一家は親戚を頼って大阪府豊中市に転居、父は町工場を起業する。事業は成功、自身では家庭を「中流」と言っているが、経済的余裕も生まれ、森毅は小学生の頃から塾にも通っている。1939年、旧制北野中学校(現北野高校)に入学、在学中から数学が得意だったと述べている。1944年に旧制三高へ進学する。受験した理由は戦時下にあって最もリベラルが残っていると評判だったからである。「戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生、要領と度胸だけは抜群の受験名人、それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた」(森毅『数学受験術指南』)。

 なお、この「不良」は1970年代の「生徒文化」(ウィラード・ウォーラー)における抗学校的態度とは異なっている。頭にソリを入れて、短ランにボンタンで決め、教師に校内暴力を振るうというツッパリのことではない。本を読み耽ったり軍事教練をすっぽかしたりといった抗軍国主義的態度が森毅の言う「不良」である。

 旧制高校への進学率は最も高い1940年代前半でさえ同年代の男子の1%にも満たない。しかも、二浪三浪当たり前である。森毅はそんな難関をストレートでパスしている。そのため、飛び級を除く同級生全員が彼より年上である。旧制高校は1950年まで続く。しかし、戦後は廃止された軍の学校からの編入があったり、女性の入学が許可されたりするなど気風が変化している。だから、すでに述べた通り、森毅は戦前の旧制高校の雰囲気を知る最後の世代に属する。

 戦前の旧制は、戦後の申請と異なり、理解するには注意が要る。森毅の父は東京帝大の卒業生であるが、旧制高校経ていない。戦前の学閥は大学閥ではなく、旧制高校閥である。旧制高校生は語学クラス・運動部・寮を通じて人脈が形成される。この人間関係は個々人にとって非常に影響力が強い。森毅も、入寮しなかったものの、頻繁に出入りして、そこでの経験を自伝で回想している。

 森毅自身も、『自由を生きる』の中で旧制高校時代に触れる際、当時の作法によって記述している。旧制三高では、先輩後輩を問わず、高校生を呼び捨てにする。また、教員は学生を「君」づけで呼ぶ。さらに、学生は教員に直接話す場合は「先生」、その場にいない教員の場合は「さん」とそれぞれつける。このルールに則って森毅は当時の人々の呼び名を記している。三高性の萩原延尋なら「萩原」、教師だった秋月康夫なら「秋月さん」である。

 森毅の父は旧制高校生活を経験していないので、同じ帝大性であってもアウトサイダーである。実は、師範学校卒の教師は巷で「師範タイプ」と呼ばれている。1886年(明治19年)の師範学校令以降から師範学校制度の終結までの間の教師はしばしば「師範タイプ」と揶揄されている。これは本来は「順良・信愛・威重の徳性」を重視する教師像である。従前の天職・聖職としての士族的教職観を引き継ぎつつ、1880年(明治13年)前後の徳育重視の教育政策から準備され、初代文部大臣・森有礼の師範学校改革によって理念化されたものだ。しかし、その養成プロセスは兵式体操などの軍隊式手や全寮制の寄宿舎内での上級生による下級生へのいじめ(集団的差別)、法令に基づく政治活動禁止といった諸問題がある。しかも、期待される役割を提示しながらも、政府は地位や給与などの保障が不十分である。読書傾向も旧制高校生と違い、三木清よりも寺田寅彦を手に取っている。こうした事情もあり、師範学校を卒業した教師は「内向的」や「融通が利かない」、「裏表がある」、「偽善的」などの悪癖の「師範タイプ」と見下されてしまう。

 森毅は自伝を含め著作の中で父の影響について積極的に記していない。父がどういう人だったのかはよくわからない。しかし、リベラルな自身に何らかのことを与えているなら、それを記すものだ。こういう事情から森毅の認知行動には父よりも旧制高校の雰囲気が圧倒的に作用していると考えざるを得ない。

 旧制高校時代の回想を卒業生が数多く残している。森毅も少なからず記しており、その中の一つである『マンやヘッセを読んだ時代』において旧制高校時代を振り返りつつ、青春の人生論を次のように語っている。

 人生はその時々に、それを成長と呼べるかどうかは別としても、さまざまの屈折があるのは当然である。そして、その原型が青春にあって、その時に人生が固まってしまうのでもなく、別の形の屈折として姿を現すものだろう。そうした意味でこそ、青春の屈折である。それは成長を約束するものでもない。

 森毅は理科(理系)の旧制高校生であるから、兵役に就くことはない。戦時中は大阪の航空機工場に勤労動員されて数理計算をしている。しかし、工場が空襲で焼けたり、グラマンの機銃掃射に遭ったりもしている。時代的・個人的環境の下、無常感を覚えている。他方、戦後の旧制高校の思い出の記述は自伝に少ない。むしろ、占領期の回想は大学進学のため東京に住むようになってからの方が多い。一例を挙げると、上野の浮浪児の集団の光景に恐怖を覚えたと記している。森毅にとっての「青春」には戦時中の経験が欠かせない。「青春の屈折」はその後の人生において「別の形の屈折として姿を現す」。これは、後に述べる彼の独自の段階論に基づく人生論につながっていく。

 戦後、教育制度の改変に伴い、旧制高校文化の継承は時を経るにつれ薄れていく。反面、戦時体制により少なくとも中等教育経験者に人生論が普及していたが、戦後はそれがさらに民主化される。自由が民主化され、人生論を必要とするのはエリートだけではない。また、戦争が終わり、いかに死ぬべきかに代わり、いかに生きるべきかからの人生論である。多感な青春や思春期は子どもから大人へと成長する際に誰もが経験する段階と広く認知される。さらに、経済的理由によって高校や大学に進学できなかった青年も教養を高めてよりよい生き方を探求しようと人生論を読む。そうした状況の下、マルクス主義と並んで実存主義が青年の間で流行する。

 しかし、大学進学率の向上と共に、「しらけ世代」と呼ばれる若者が登場する70年代を迎えると、人生論の需要は縮小する。選択の自由を許された者が人生をいかによりよく生きるべきかを考えるために人生論のページを開く。けれども、大学進学率が上昇すれば、選択の自由を手にする同世代も増える。多くに選択の自由があるのなら、いかに生きるべきかと深く悩み、熱く議論する必要もない。将来について考えないわけではないが、大衆化した大学の若者は、かつてのエリート青年と違い、なんとなく思う程度である。

 『なんとなく、クリスタル』の1980年に大学生活を送る若者は次のような会話をしている。

「クリスタルか……。ねえ、今思ったんだけどさ、僕らって、青春とは何か! 恋愛とは何か! なんて、哲学少年みたいに考えたことってないじゃない? 本もあんまし読んでないし、バカみたいになって一つのことに熱中することもないと思わない? でも、頭の中は空っぽでもないし、曇ってもいないよね。醒め切っているわけでもないし、湿った感じじゃもちろんないし、それに、人の意見をそのまま鵜呑みにするほど、単純でもないしさ。」
 そう言って、タバコの火を消した。
 「クールっていう感じじゃないよね。あんましうまくいえないけど、やっぱり、クリスタルが一番ピッタリきそうなのかなー」。

 彼らは自分たちのメンタリティを「クリスタル」と形容する。それはホット=クールの二項対立では捉えきれない。青春や恋愛について形而上学的に熱く語り合うのでも、それを冷笑するのでもない。経験に基づきながら、自分たちの世代の間で感性的になんとなく納得できる理解を持っている。それが「クリスタル」という意味だろう。タルコット・パーソンズの「コンサマトリー」とも言い換えられよう。

 従来、青年であるなら、人生論を読むのが当たり前である。しかし、80年代の若者には人生論などお及びでない。これは、この時期では、「青年」ではなく、「若者」が弱年層を指す言葉として圧倒的に使われるようになったことが物語る。前者が年齢による発達段階の区分であるのに対し、後者は社会的・時代的状況によって伸縮する。時代に発見された「青年」が近代化を進めたが、「若者」はその社会が規定する。「若者」は、「青年」と違い、その発達段階特定の課題を持たない。「若者」」は思春期から現場を担う30代まで含まれることになる。

 こうした変化は『なんとなく、クリスタル』以後に青春小説が登場していないことからも強調されよう。坪内逍遥の『統制書生気質』以降、新たな青年風俗を扱った青春小説の系譜が日本近代文学に続いている。特に、戦後はそういった青春小説が社会的に流行現象を生み出している。石原慎太郎の『太陽の季節』(1955)がその代表である。けれども、『なんとなく、クリスタル』の後に若い作家がそうした青春小説でデビューすることがない。青年の持つ前世代を否定するような時代的意識の同世代的共有が成り立たなくなったからである。

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