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「作者の死」?(4)(2018)

5 批評とリテラシー
 その問いは「世界はどこに行くのか」につながる。しかし、それに答えることは容易ではない。ただ、電子メールやSNSの浸透に伴い、現在の人々が過去のどの時代に比しても最も書くことをしているのは確かだろう。現代人は「書くヒト」、すなわち「ホモ・スクリーベンス(homo scribens)」である。そうした時代的・社会的状況を踏まえるなら、従来読むことから把握されてきた批評を書くことからそうするべきだ。

 作者は最初の読者である。実際、小林秀雄や井伏鱒二、大西巨人など発表後に自作を書き換える作家も少なくない。近大批評が作者中心だとすれば、現代批評は読者中心である。しかし、批評は作者中心でも、読者中心でも、片手落ちだ。作者と読者が協同する批評が必要である。書き換えのエピソードは読者も作者になり得ることを物語る。

 こうした批評は、実際には、前近代においてすでに行われている。前近代は作者と読者が創作・鑑賞の文法を共有している。両者には協同作業が成り立つ。落合直文が『将来の国文』(1890)において紹介したことでも知られる有名なエピソードがそれを物語っている。

 江戸時代、ある俳諧師の弟子が「米洗ふ前に蛍の二ツ三ツ」を詠む。夏に米を洗おうと思ったら、蛍が二、三匹飛んできたという内容である。よく出来たと感じ、これを兄弟子に見せたところ、「米洗ふ前へ蛍の二ツ三ツ」とした方がよいとアドバイスされる。「前に」では飛んできた蛍がそこで止まった印象があるけれども、「前へ」であれば、動き続けているからだと兄弟子は説く。

 この兄弟子が師匠に事の次第を説明し、自分の添削によっていい句になったと自信満々で報告する。ところが、師匠はお前はまだまだ修行が足りないと「前へ」を「前を」と改める。「前へ」では、米を洗っているところへ蛍が飛んできたとなるけれども、「米洗ふ前を蛍の二ツ三ツ」ならば、蛍がどこからともなくやってきてどこへともなく消えていく動きに沿った表現だからだ。助詞がたった一文字違うだけで、情景が変わってくる。鑑賞が創作へと再帰する。これが作者と読者の協同作業としての批評である。この弟子と兄弟子に関しては不詳だが、俳諧師は松尾芭蕉あるいは香川景樹ではないかとされている。

 こういった推敲は暗黙知に基づいている。師匠は、手本を示しつつ、主に「そこは違う」という否定を指摘する指導を通じた反復の稽古を字なくて気関係にある弟子に施す。この繰り返しの中で弟子は創作・鑑賞の文法を体得していく。それは母語話者の言語学習と同じである。

 言うまでもなく、21世紀の協同批評は、それと違い、明示知に基づいている。非母語話者の言語学習と同様である。批評は人格的な関係に限定されるわけではなく、広く他者と共有される必要がある。

 近年、急速に発達した文学研究の一つがコンピュータによる文体のクラスター解析である。これは計量文献学で、RMeCabを用いて作家間や作品間の文体の個性を定量的に示すことができる。犯罪捜査でも採用されている手法であり、実証性・客観性は非常に高い。土山玄お茶の水女子大学特任講師などが日本文学を対象に意欲的に取り組んでいる。もちろん、解析結果は統計的データで、そこから何が言えるのかと分析することが批評である。

 この統計的データは読者が作者を体験する機会を提供する。水村美苗が漱石の文体を模して未完の『明暗』を『続明暗』(1990)によって完結させたが、その労苦をデジタル技術が補ってくれる。傾向を踏まえて、文体を模写、すなわちミメーシスする時、その作家がなぜそれを用いるのかが体感できる。なぜこの語を選ぶのかや文の長さをこうしたのかなど作者が、自覚的であれ暗黙の裡であれ、その機能を認知した上で書いていることが明らかになる。頻繁に用いられる語を類義語に入れ替えるだけでも、理由を推測できよう。それは作者らしい文体がその作品にふさわしい文体であるかを批判的に吟味することにつながる。このふさわしさは作品相互関連性やコンテクストにも依拠している。文体論から文章論への発展とも言える。

 言葉の単位として文章を考える文章論はしばしば還元主義と非難される。けれども、これは作者と読者を協同的読解に導く。文章を理解するためには、単語や文の各々の意味と相互関係を認知・処理していなければならない。その際、トップダウンとボトムアップの二つの処理法がとられる。演繹的と帰納的とも言い換えられよう。こうした処理を念頭に置き、文章論は単語や文、文章をそれぞれ機能として捉え、全体との相互関連性を吟味する。

 語と語が組み合わさって文が形成される。各語にはそれぞれ機能がある。文は動作や様子、挨拶、要求、心情、意見などを表わすことができる。さらに、文と文が組み合わさって文章が形成される。各文にはそれぞれ機能がある。文章は時間・空間の推移が伴う変化、理由・関係に基づく説明などを表わすことができる。語と語、ならびに文と文の組み合わせを成り立たせている仕組みは、暗黙知・明示知の規則・規範に従っている。書き手と読み手は、それを共有した上で、コミュニケーションをする。組織化された文や文章は詩歌や標語、広告コピー、メール、報告書、企画書、手紙、日記、小説、諷刺、随筆、記事、論文などとさまざまなジャンルで呼ばれる。

 文を考える際には、構成している語の機能を明らかにすることが必要である。また、文章を考える際には、構成している文の機能を明らかにすることが必要である。組み合わせの規則や規範は広義の文法に属する。この文法は使用者に固有の発想をもたらす。それは、歴史的な姿や他言語と比較した際に、明瞭になる。その上で、全体がどのように構築され、いかなる作用をもたらしているか、内容と形式はどんな関係をしているかを考察する。

 従来、文芸批評は作家論や作品論、文体論が主である。狭義の文体論、あるいは文学読解で使われる修辞学は「らしさ」、すなわち作家の個性による文体の考察である。文体は社会性=「ふさわしさ」と個性=「らしさ」の二つの基軸によって様相が規定される。文体における「らしさ」は「ふさわしさ」を必須とする。「ふさわしさ」の基準は用語や表記、文・文章の組み立てなど数多くの要素に及ぶ。それを母語話者は「ふさわしく」使い分けている。

 この「ふさわしさ」は二つの基準を提供する。一つは内部の許容範囲である。書き手は任された裁量権を行使する時に、各種の取捨選択を通じて個性を表出する。もう一つは逸脱する際の枠組みである。イノベーターはそれをアイロニカルに利用する。

 オノマトペを例にこの点を検討してみよう。日本語においてオノマトペは、英語と違い、公的場でも使うことができる。それは気分や雰囲気を表し、誰でも新しく造語することが可能である。

 宮沢賢治は独特なオノマトペを用いる。賢治の作品でしか見受けられない者も少なくない。『やまなし』の「クラムボンはかぷかぷわらつたよ」が物語るように、オノマトペはその作品世界が現実と異質なものであることを表現している。

 中原中也は独自のオノマトペを創造することはしない。ただ、中也は一つのオノマトペが複数の意味を指すことを利用して認識の広がりを提示する。それを端的に示すのが『一つのメルヘン』の「さらさら」である。中也は視覚性から聴覚性、触覚性をこの一つのオノマトペで展開してみせる。それは現実から遠くない心象風景にふさわしい。

 太宰治は、賢治や中也と違い、オノマトペの用法は一般的なそれと変わらない。作品世界も現実に近い。太宰は、その動作や除隊を印象づける際に、使っている。読者はそれをめぐる気分や雰囲気を通じてシーンを記憶にとどめる。のみならず、『トカトントン』とタイトルにも使っている。太宰は構成力に難がある。たとえ失敗作であっても、魅力的な文章がある。それは概してオノマトペが関連している。

 三島由紀夫のオノマトペの用法には意図が不明である。賢治や中也、太宰と異なり、それを用いる理由が見出せず、なんとなく使っているとしか思えない。三島は、『北条防三』の第四部「天人五衰」を「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。…」と書き終えている。静寂を「しんとしている」とするのはマンガの用法であって、小説にふさわしくない。

 マンガは、無音を含め音を読者に意識させる際、オノマトペを利用する。それがなくても、そのシーンに音がないわけではない。オノマトペを描く場合、抽象的概念として記すのではなく、レタリングによって視覚的にその気分や雰囲気を具体的に表現する。マンガではそこに「ふさわしさ」や「らしさ」が表われる。

 賢治や中也、太宰のオノマトペの用法はその作家「らしさ」と同時に作品世界の「ふさわしさ」も表現している。他方、三島のそれに「ふさわしさ」はない。

 とは言うものの、「ふさわしさ」と「らしさ」の境界は曖昧である。そこに批評をする意義がある。その際、手引きになるのがリテラシーである。非母語話者は言語を明示知として学習する。他方、母語話者は暗黙知として体得し、自身の言語に対するメタ認知が不十分である。しかし、批評にはメタ認知が要る。非母語話者としてその学び方、すなわちリテラシーによって作品を批評することがふさわしい。母語作品であっても、批評には翻訳が伴う。

 批評家は自身の解釈を論証する際に、言語学の学説をしばしば引用する。しかし、その高度な理論が母語話者に明示知を示すものでは必ずしもない。

 言葉は抽象的・一般的概念を示せるが、映像は具体的・個別的事物しか表わせない。現代では映画やテレビ、マンガが文学テクストを原作・翻案として映像・画像化することが少なくない。これは読者が作者になることであり、媒体の違いから非母語話者の言葉への再検討に通じる。従来も散文や詩の舞台化は行われ、その比較・検討もなされている。現代において文学を論じる際に、大衆への影響が大きい新媒体によるこうした試みも無視することができない。

 もちろん、視覚媒体の文学への影響も見逃せない。それは外観についての具体的で詳細な描写が取り入れられただけではない。従来見ることのできなかった光景を目にすることが可能になり、視覚的認識を構成していることである。CGのみならず、ドローンの登場によりそうした可能性はさらに広がっている。

 この傾向は絵画において顕著であるが、文学でも認められる。最も端的な例はウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984)の書き出し”The sky above the port was the color of television, tuned to a dead channel”であろう。作者は空をアナログ・テレビのスノーノイズ、いわゆる砂嵐に譬えている。それはテレビによって現実を知覚している比喩でもある。

 こうした新媒体の批評に文学理論が利用されている。当初は蓄積がないからやむを得ないが、依然として文学とのリテラシーの違いを考慮しない批評が目につく。代表的な映画批評としてアンドレ・バザンの『映画とは何か』(1958~63)が挙げられる。しかし、この筆者は映画のリテラシーを十分に踏まえないまま、論を展開している。

 バザンを援用して映画を論じると、見当外れの理解に陥ってしまうこともある。一例を挙げるなら、溝口健二監督の『山椒大夫』の長回しについてドキュメンタリー・タッチの反モンタージュと評する者がいる。けれども、長回しは煮つまった雰囲気を出す時に用いられる。演劇は暗転を使わない限り、場面が固定されるので、人の出入りによって物語が展開される。空間を閉じてそれをなくしてダイアローグをすると、その場が煮つまってくる。これとほぼ同じ効果である。長回しはやりきれなさや行きづまり、閉塞感を表わしているのであって、ドキュメンタリー性ではない。『山椒大夫』の安寿の逃亡シーンの名が回しは彼女に出口がないことを印象づける。このショットが次につながれた時、彼女が入水したことが暗示される。彼女にとっての出口はそこにしかない。長回しの効果はこれである。

 映画はカメラのサイズとアングル及びフィルムの編集という組織化に基づく映像表現である。テレビ・ドラマはながら視聴が前提であるため、セリフを始め音声だけで内容が理解でき、一つのカットの情報量を減らし、それを切り替えの多さで補う。ついでに言うと、マンガは線とコマの組織化に基づく画像表現である。言葉に関してはネームや語りもさることながら、オノマトペの表現が重要である。

 こうした視覚的表現では意図が重要である。これは作品のメッセージということではない。映画におけるカメラのサイズやアングル並びにフィルムの編集、マンガの線とコマには、それぞれ固有の効果をもたらす機能がある。映画で言うと、制作者がその機能を理解した上で意図を持って使わないと、そのカットが意味不明になる。映画のリテラシーを認識しているなら、そうしたカットを目にすると、この監督はなんとなく撮っている、もしくはスタッフと意識を共有していないとわかる。また、周囲と同期していないなどの効果を狙う場合を除けば、カットの意味は理解できるが、セリフが長すぎて、その時間内に収まらず、整合性がない時にも、同様である。こうしたカットはふさわしくない。

 もちろん、脚本の書き方もある。それは映画やドラマ、演劇、ミュージカル、歌舞伎、能、人形浄瑠璃、マンガなどでも異なる。なお、マンガではそれを「ネーム」と呼ぶ。このこともリテラシーに属する。同じ題材であっても、そのため、表現されたものが違ってくることもある。

 映画の作り方やマンガの描き方も知らないで、文学の批評理論を借用しているだけの論考が残念ながら少なくない。映画やマンガをいくら見ても、リテラシーは学べない。それは作る際に必須の知識だからだ。「作者の死」はリテラシーを無視した発想である。リテラシーは鑑賞者ではなく、創作者の立場に立たないと学ぶことができない。しかし、情報の非対称性を無批判的に受け入れず、作品をより深くまた広く理解するためには、リテラシーが必要であろう。

 リテラシーに基づく批評を「リテラシー・スタディーズ(Literacy Studies)」と呼ぶこともできる。文学の書き方や映画の作り方、マンガの描き方を知った上で、その対象を批評する。それは創作者と鑑賞者の協同作業として作品を捉えることで、社会関係資本が見直されている時代にふさわしい。リテラシー・スタディーズは言葉の単位として文章を考えるこうした文章論的アプローチを採用する。精緻であると同時に、汎用性が高く、共時的・通時的問題にも強い。文章論によって作家論や作品論、文体論の文学的体系も再構成できる。共時的・通時的に蓄積・形成されてきた成果を踏襲しつつ、これが今後の批評にふさわしい機能である。それは諷刺の批評の復活でもある。「批評は現代を反映するだけで甘んじていてはいけない。過ぎ去るものに先行して、将来から逆に、現在を闘いとらねばならない」(ロベルト・シューマン『フロレスタン』)。
〈了〉
参照文献
江川温、『新訂ヨーロッパの歴史』、放送大学教育振興会、2005年
金田一秀穂、『日本語のカタチとココロ』、日本放送出版協会、2007年
関根清三、『旧約聖書と哲学』、講談社学術文庫、2008年
平田オリザ、『演技と演出』、講談社現代新書、2004年
福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、2006年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
アンドレ・バザン、『映画とは何か』上下、野崎歓他訳、岩波文庫、2015年
ミハイル・バフチン、『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、川端香男里訳、せりか書房、1995年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖〈新装版〉』、海老根宏他訳、法政大学出版局、2013年
野中哲照、「特別講義 薩摩硫黄島の熊野三山と『平家物語』」、『放送大学』、2016年放映

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