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芥川賞と直木賞(2023)

芥川賞と直木賞
Saven Satow
Aug. 27, 2023

「さらに次のような例もある。すなわち我々は過去において外国の探偵小説を読み、それらの作家の名前までおぼえてしまつた。しかし、それらとは比較にもならないほど高い作家である鴎外の名を知つている外国人が果して何人あるだろう」。
伊丹万作『映画と民族性』

 毎年10月二発表されるノーベル文学賞は表現者を対象にしている。そのため、生涯に一度しか受賞できない。ところが、既刊作品を対象とする日本の文学賞の多くは、事実上、一人の作家が複数回輝くことがない。発表の際に、主催者は受賞作を明らかにしているのだから、対象は作品であって、作家ではない。

 これは、世界的に見て、必ずしも常識的ではない。アメリカの代表的文学賞としてピューリッツァー賞と全米図書賞を挙げることができる。これらはいずれも作品が対象であり、一人の作家が複数回栄誉に輝くことが可能である。ジョン・アップダイクは前者のフィクション部門で1982年と91年、後者の小説部門で1964年と82年にそれぞれ受賞している。文学者に対する名誉賞の色彩が強ければ、受賞は一度きりだろう。しかし、一定期間内に発表された作品を候補とするのであれば、映画のアカデミー賞が示しているように、同じ表現者が何度受賞してもかまわないはずである。

 日本は文学賞の数が多い。なおかつ細分化されている。検索すると、単独のみならず、文学部門を含む賞もあり、その量に驚かされる。しかも、なぜその賞が必要なのかの理由が曖昧で、どういう賞なのかよくわからないものも多々ある。そのため、少なからずの作家が複数の受賞歴を持っている。ノーベル文学賞作家大江健三郎を例にすれば、彼は芥川賞や野間文芸賞、新潮社文学賞、大佛次郎賞などに輝いている。賞のインフレはその価値を下げることにつながり、なぜこれほど文学賞が必要なのかわからない。

 もちろん、アメリカ文学にもジャンルに応じた賞が数多く設立されている。特別賞や功労賞を除けば、一般的に複数回受賞が可能である。また、長さによる部門分けが用意されていることが少なくない。ホラー小説やダーク・ファンタジーを対象としたブラム・ストーカー賞には長編・中編・短編の三部門があり、スティーヴン・キングはいずれでも受賞している。

 こうした乱立状況について、宮澤賢治作品の翻訳で知られるロジャー・パルバースは、2006年4月7日付『朝日新聞』の「文学の国?文学賞の国?」において、「日本では、文学作品そのものより、文学賞のほうが重要である、というかのようだ」と指摘する。日本は文学指向ではなく、文学賞指向だというわけだ。

 彼はもし宮澤賢治が今の出版社に『銀河鉄道の夜』を投稿したら、次のようなメールが返ってくるかもしれないと記している。

 宮澤先生、先生の小説「銀河鉄道の夜」を拝読いたしました。率直に申し上げて、小社からの刊行は難しいと思われます・もし先生が先生の名前にちなんだ賞を受賞する作家を目指されているのであれば、列車は銀河を走るのではなくて、地球を…

 あり得る話だ。文学賞が斬新な捜索を促すどころか、保守化を招いている。その上で、彼は「日本はまさに文学賞の国だ。しかし、それはすなわち文学の国ということになるだろうか?」とコラムを閉めている。

 賢治の「名前にちなんだ賞」とは「宮沢賢治賞」のことである。これは、宮澤賢治に関する優れた研究・評論・創作などを毎年顕彰するために、花巻市が1991年に創設した文学賞だ。選考は、宮沢賢治学会イーハトーブセンターに委嘱されている。研究・評論・創作は部門分けされておらず、なぜこれらが同じ基準で評価できるのかはわからない。なお、ロジャー・パルバースは、2008年、同賞に輝いている。 

 日本文学を最も代表する賞として1935年から始まった芥川龍之介賞と直木三十五賞を挙げることができる。前者は芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編小説作品に与えられる文学賞である。一方、後者は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。いずれも、他の多くの文学賞同様、受賞は一度きりだ。メディアは、受賞者の発表の際、他の文学賞以上の扱いで報道している。

 芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学の小説作品を対象にする。しかし、こうした分類は日本文学の歴史に関連しているため、欧米の権威ある賞ではあまり見受けられない。先に挙げたピューリッツアー賞の文学部門はフィクション・戯曲・歴史・伝記及び自伝・詩・一般ノンフィクション、全米図書賞は小説・ノンフィクション・詩・翻訳・児童文学である。いずれも小説を芸術性と大衆性によって部門を分けていない。また、諸部門を用意、小説作品だけを対象にしていない。批評の認識を持って文学に臨むなら、こうした分類は当然である。

 確かに、芥川賞はフランスで最も権威あるゴンクール賞に似ている。同賞は主に若手作家の小説作品を対象に、受賞は原則一度きりである。例外的にロマン・ガリが1956年と75年の複数回輝いているが、二度目はエミール・アジャール名義である。ただ、そのゴンクール賞も部門化が進んでいる。従来の他に、ゴンクール処女小説賞やゴンクール短編小説賞、ゴンクール詩人賞、ゴンクール伝記賞、高校生のゴンクール賞などがある。もっぱら小説だけが文学で、短編も長編も同一基準で評価する賞はあまりに時代離れしているというわけだ。

 直木賞の大衆性重視という基準はわかりにくい。これはおそらく芥川賞との差異化を理由にしている。戦前、エリート層の岩波文化と庶民層の講談社文化という対立があり、芥川賞が全社、直木賞が後者に当たる。しかし、およそ文学賞は芸術性や卓越性を認める作品に与えるものである。

 商業的成功を得やすいミステリーやアドベンチャー、歴史、SF、ファンタジーなどのジャンルも、文学賞ではそうした点を重視する。一般的に言って、売れることを重視する文学作品はジャンルに立脚し、その上で評価されるものだ。ミステリーや歴史、アドベンチャーを同じ基準で作品の優劣をつけることには無理がある。加えて、ジャンルを融合した作品も少なくない。実際、近年の芥川賞と直木賞の受賞作に分類の意味が果たしてあるのかわからなくなる場合もある。

 直木賞はかなり以前から「エンタメ小説」と呼ばれる作品が候補や受賞に挙がっている。1988年、第99回直木賞を受賞した景山民夫の『遠い海から来たCOO』を「大衆文学」と呼ぶことなどあり得ない。そもそも、今日「大衆」を使うことは非常に限定的である。かつては吉本隆明のように「大衆」を自らの思想のキーワードとして扱っていた理論家もいたが、今では、「マスコミ」が「メディア」と称される通り、耳にすることも稀だ。「大衆」が事実上死語で、直木賞が対象とする作品群は「エンタメ小説」がふさわしい。いわゆる純文学系の小説も形式は保守化し、扱う題材は新しいが、新たな文体の挑戦や破綻した構造、出来事に依存しない展開といったイノベーションも全般的に乏しい。ローエナジーで、こじんまりとしたエンタメ小説という趣さえある。

 以前は掲載媒体が賞の対象範囲を示していたが、エンタメ小説は書き下ろしが少なくない。確かに、純文学系は、依然として雑誌掲載が中心で、書き下ろしは稀である。しかし、今は電子書籍など雑誌を介さない発表方法もあり、媒体による区分も時代に即していない。

 芥川賞と直木賞は近代日本文学における芸術性と大衆性の拮抗や小説偏重という特徴をよく示している。ただ、賞として社会の中の文学の認識が十分ではない。絶対的基準があるなら、そもそも文学賞など要らない。文学賞は文脈に依存した相対的基準によって先行する。選択である以上、権限があるのだから、そこには責任が伴う。そのため、文学賞には正当性が不可欠である。例に挙げた米仏の文学賞が社会の変化に応じて部門を細分化させていることはそうした自覚に基づいている。賞は同時代的社会からの要請によって再定義が求められるものだ。一方、日本の文学賞では結果発表の際に、同時代的社会における意義に触れず、個人的見解を口にする選考委員さえ少なくない。文学賞が日本の文学の自己認識を物語っていることは確かである。
〈了〉
参照文献
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/

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