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坂本龍一、あるいは20世紀の音楽図鑑(1)(2023)

坂本龍一、あるいは20世紀の音楽図鑑
Saven Satow
Apr. 12, 2023

「音楽を創る作業、作曲は身を削るような仕事です。自分の中にあるたくさんの感情、喜び哀しみを含む多様な事実と真正面から向き合わなければ、蓄積してこないものであって。だからこそ、美しいメロディーは人の心を動かすのだと思います。そうした珠玉の作品を、私達に残してくれました。なにより、気骨ある人でした」。
大貫妙子

1 20世紀の音楽
 坂本龍一の実践は20世紀の音楽図鑑である。それは、西洋音楽史を踏まえた上で、その系譜にある20世紀の音楽潮流の知・情・意・政を網羅する。知はアルノㇽト・シェーンベルクの12音技法、情はイゴール・ストラヴィンスキーのリズムの解放、意はルイジ・ルッソロの雑音音楽、政はソ連の全体主義体制による政治的音楽として象徴的に理解できる。坂本龍一は、自らの方法論で再構成した上で、それを音楽図鑑に構築している。

 坂本龍一は少年の頃よりルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベンやクロード・ドビュッシーに魅了されつつも、クラシックとしての西洋音楽の行き詰まりを認識する。これは20世紀音楽の起点であり、坂本もそれを共有している。20世紀の音楽家の共通認識なので、他の芸術家の活動と重なるところも少なくない。ヤニス・クセナキスやカールハインツ・シュトックハウゼン、武満徹、高橋悠治、冨田勲、ジョン・レノン、ブライアン・イーノなど先鋭的な音楽家との共通点を見出すことができる。

2 知の音楽
 18世紀のウイーン古典派によって機能和声が確立する。和音の基礎となる音を「根音」と呼ぶ。主和音は主音を根音とする。「主音」はド、すなわちハあるいはCである。主和音は、長調または短調の旋律で終始音となる主音の上に3度上の音と完全5度上の音が重なってできている。完全5度は全音三つと半音一つからなる音程である。ハ長調の場合、主和音はド=ミ=ソとなる。ただし、このミは半音四つからなる音程の長3度である。次に、主音のドから完全4度上の音ファを「下属音」と呼ぶ。その音を基準に構築された長3和音が「下属和音」であり、ド=ファ=ラである。また、主音ドから完全5度上のソを「属音」と言い、これを根音とする長3和音が「属和音」である。ハ長調では、シ=レ=ソが該当する。

 この三種類の和音は機能が異なっている。主和音と下属和音は次にどんな和音がきても構わないが、属和音を鳴らした時は、その後に必ず主和音が続く。この理由は、強いて言えば、長音階にある二つの半音の求心力であろう。属和音は主和音に向かおうとする和音であり、下属和音は、それと違い、中立的である。逆に言えば、主和音は属和音を招き入れる。曲は、主和音や下属和音が鳴っている間は事実上動いておらず、属和音が響くと次に主和音がくるので、動き出す。ハ長調の和音をピアノで弾いてみる際に、ド=ミ=ソ→ド=ファ=ラ→シ=レ=ソ→ド=ミ=ソと循環するのはこの規則に基づいている。

 19世紀に登場するロマン派はこうした機能和声を批判する。クラシックはこの19世紀の西洋音楽と要約できる。それはフランス革命から第一次世界大戦に至るまでの「長い19世紀」(エリック・ホブスボーム)である。

 ロマン派は機能和声の客観性を超えるべく主観性を追及する。それは半音の多用として端的に言い表せる。ウイーン古典派にとって半音は、言わば、句読点である。ハ長調の音階を例にすれば、ミトファ、シとドが半音の関係にあるだけで他は全音である。半音は全音を強調する役割がある。主役はわき役によって明瞭になる。ところが、半音が多用されると、中心が曖昧になる。これが主観性を表現する。反面、まとまりが悪くなり、場合によっては終われなくなってしまう。フランツ・シューベルトの『未完成交響曲』が好例である。また、リヒャルト・ワーグナーは『トリスタンとイゾルデ』において機能和声では解釈できない後にトリスタン和音と呼ばれる独特な和音を使い、ぐるぐるとさまよう印象を醸し出している。

 しかし、西洋の音楽家たちはこの方法論に行き詰まりを覚え、その打開のため、大胆な挑戦を実践し始める。その一人がシェーンベルクである。彼は中心の曖昧さを推進、調性を放棄した曲を発表する。1920年代に入ると、シェーンベルクはその考えを徹底化し、音楽の集合論と呼ぶべき「12音技法」を考案する。これは単縦化すると、音楽を音に解体し、1オクターブを構成する12の音をすべて平等に扱うという発想である。ある音を使ったら、他の11音すべてが登場し終わるまで、その再利用は認められない。

 いわゆる「現代音楽」はこの後継者たちを指す。門外漢にはわけのわからない音楽であるが、こういった理論に基づいている。西洋音楽の正統的軽症者である現代音楽は調性の超克の高度化として発展している。その代表がピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンなどのトータル・セリエリズムだろう。12音技法の系譜は知性によって管理された音楽であるが、その不協和音だらけの作品は極めて暴力的である。知性の暴力は科学技術、特に無過失責任の高度危険活動のもたらす惨劇によく表象される。

 坂本龍一は東京芸大で作曲を理論的に学んでいる。それは作品を構造や技法から分析・解釈する認識である。この主知主義は『B-2ユニット』を始めとするソロアルバムに顕著である。ただ、セリエリズムほど破壊的ではなく、電子楽器を利用し、ポピュラー音楽の可能性の拡張と理解できる。現代音楽にはエリート主義的傾向がある。精緻に計算されて作られた曲は、演奏も概して難しく、聴衆に集中力を要求する。そうした難解な作品は大衆が理解できないところにアイデンティティがある。坂本は、大衆迎合的姿勢を取らないものの、電子楽器を通じて現代音楽をポピュラー音楽として再構成する。

3 情の音楽
 西洋音楽の行き詰まりの打開には機能和声成立以前の旋法への回帰を含む非西洋音楽への接近という流れもある。それが「情」である。19世紀後半、欧州の作曲家は音楽の新たな可能性を求めて非西洋世界に関心を広げる。当初は異国趣味の域を出るものではなかったが、世紀末のフランス印象派は非西洋世界の音楽に直接触れ、衝撃を受けている。ドビュッシーやラヴェルらはガムランを始めとするこの外部を意慾的に取り入れ、和声の面で新たな音楽の地平を切り開く。

 これは西洋音楽を外部から転倒しようという試みだ。この流れの中で登場するのがストラヴィンスキーである。彼は西洋音楽を根本から覆す。それはリズムの解放である。この試みがどれだけ西洋音楽において衝撃的だったのかはストラヴィンスキーのバレー組曲『春の祭典-異教徒ロシアの音楽』の初演が物語っている。1913年5月20日にパリのシャンゼリゼ劇場でお披露目された時、拍子が目まぐるしく変わる曲を聴いた観客は集団ヒステリー状態と化している。現在では、この曲を耳にした際、『ジョーズ』の主題曲を思い起こす人も少なくないだろう。

 西洋音楽はキリスト教の禁欲主義に起源の一つを持っている。身体性は忌避され、一旦設定された拍子は変更されないのが原則である。リズムは身体性と結びついているため、クラシックのオーケストラには打楽器はティンパニーくらいしかない。他方、ポール・モーリア・グランド・オーケストラにはドラムを始め多くの打楽器が用意されている。そこではリズムが解放されている。ポピュラー音楽はリズムの音楽である。実際、ストラヴィンスキーは民族音楽のみならず、ジャズにも接近、ベニー・グッドマンに曲を提供している。

 第一次世界大戦後、ストラヴィンスキーは西洋音楽史の再構成に挑む。彼はリズムの解放のアプローチからその体系全体を組み直す。『ブルチネルラ』などの新古典主義作品はロマン派が克服しようとしてきた調性にあえて従う。けれども、リズムの解放を導入して、ロマン派以降の西洋音楽を根本から批判する。

 この方法論はポピュラー音楽によるクラシックの捉え直しでもある。専門教育を受けた音楽家たちが西洋音楽の技法を活用してポピュラー作品を作曲する。これは西洋音楽史を情の観点で現代的課題として再検討することである。特に、このアプローチが顕著なのが映画や舞台の音楽である。エーリッヒ・コルンゴㇽドやマックス・スタイナー、レナード・バーンスタイン、バート・バカラック、ニーノ・ロータ、ジョン・ウィリアムズなど枚挙に暇ない。

 坂本龍一の世界的名声は映画音楽の成功によるところが最も大きい。代表的映画音楽の『戦場のメリークリスマス』や『ラストエンペラー』は非西洋音楽を参考にしつつ、西洋音楽の方法論によって制作されている。それは情の音楽の系譜の正統に位置づけられる。

 坂本は西洋音楽の理論に基づく曲は言うに及ばず、民族音楽にも大いに関心を持ち、それを取り入れた作品をソロやYMOで発表している。また、歌謡曲を含めた楽曲を多くのアーティストに提供、アレンジも担当している。しかも、電子楽器をここでも利用することが少なくない。彼はこのタイプの音楽において極めて貪欲な姿勢を示している。この幅の広さは、世界的に見ても、傑出している。


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