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芭蕉の烏(2012)

芭蕉の烏
Saven Satow
Mar. 15, 2012

「カーラースーなぜ鳴くのー?カラスの勝手でしょー」。
志村けん

 国籍申請した人よりもその審査を担当した方が自国の文化に通じていない。そんなお役所仕事の喜劇を経て、2012年3月8日、合衆国市民ドナルド・ローレンス・キーンは日本人キーンドナルドになる。

 この北区在住38年の日本文学研究者は松尾芭蕉の『奥の細道』の翻訳でも著名である。その芭蕉が芭蕉になった時期は、1860年、37歳だとされている。この時に詠んだ「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」が蕉風形成の句と見なされている。蕉風は幽玄や閑寂を重んじ、さび・しおり・細み・軽みを尊ぶ傾向である。水墨画『寒鴉枯木』をモチーフにしたとされ、芭蕉の関心がこの時期より和歌から漢詩文へと移っていく。なお、「かれ朶に烏のとまりけり秋の暮」や「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」などの後に改変された異文がある。

 「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」の最大の特徴は季語が二つある点である。「枯枝」は冬、「秋の暮」は秋の季語である。一句の中に複数の季語を入れる技法を「季重なり」と呼ぶ。通常は句の主題が不鮮明になるため、避けられるが、それが鮮明である場合に用いることができる。その際、季語は主題に即した方が優先される。感動の焦点を示す「切れ字」が使われている句では、その位置によって主題の季語を判別することもできる。この句は切れ字が採用されたタイプであり、その直後に置かれた「秋の暮」が季語として選択される。

 この句は、日が沈みかけた秋の暮に、ふと見ると、枯枝に烏がとまっていると一般的に理解されている。黄昏の中の黒い烏というコントラストが鮮明であると同時に、もうすぐあたりは、その色のように、闇夜になる。この句は季重なりが非常に効果的で、時間の構造が一日の変化のみならず、季節の流れがそれを包みこむように、重層的になっている。秋と冬の季語を併用することで、秋から冬へと向かう季節の移り変わりを表わせる。これにより烏の静に対する動という対応関係が示せる。しかも、通常、烏は生物であるので動であり、風景は静として認識されるが、それが逆転している。この反転により俳人は、自分もこの烏と同様、時間の流れの中にいることを認知する。加えて、一日の変化さえもこの季節の移行の一瞬である。こうした階層的な時間の変遷において、烏が鳴きもせず、枯枝にとまっていることから静けさが強調される。空を素早く飛び回る烏も、実際には、時間のゆっくりした動きの中ではとまっているに等しい。芭蕉の詩論の核心である「不易流行」を具現しているとも言える。確かに、名句だ。

 この句をモチーフに弟子たちが水墨画を描いている。現在、確認されているのは五枚あるが、いずれも烏が一羽だけ登場する。日本語には冠詞がない。そのため、決定詞をつけずに、普通名詞を用いることができる。単複の区別がその単語のみでは判断できず、コンテクストを探る必要がある場合が少なからずある。伝統的に、『枕草子』を始めとして日本では烏は群れるものと解されてきたけれども、『寒鴉枯木』を元にした句であることからこういう設定になったと推察できる。

 インターネットで確認できる英訳も烏は”a crow”と単数形が使われているのがほとんどである。

 ところが、芭蕉自身もこの句を絵画にしているが、およそ様相が違う。「枯枝」と言うよりも、「枯木」の方がふさわしい樹木に烏が七羽ほどとまり、空には二〇羽が飛んでいる。合計二七羽とかなりにぎやかで、伝統的な日本の烏のイメージに近い。なお、絵画の余白に書き添える詩文の画賛には「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」が使われている。

 岩手県北上市の相去(あいさり)・鬼柳(おにやなぎ)地区で生まれ育った人の間では、この句に関して芭蕉の絵の方が正しいと理解されている。北上市鬼柳町打越(うちごし)にある白髭(しらひげ)神社に「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」の句碑が設置されている。この句が選ばれた理由は明快である。白髭神社は烏が多いことで有名だからだ。今では、アルフレッド・ヒッチコック監督の『鳥』を実体験できるスポットとして地元で警戒されている。

 江戸時代後期、俳諧中興運動が盛んになり、全国で多くの芭蕉句碑が建立される。1783年、佐々木輦砂(れんさ)が率いた黒沢尻(現北上市)の俳諧グループ玄皐連(げんこうれん)と一関(現一関市)の俳人扣角(こうかく)こと小松屋惣右衛門が白髭神社にこの句碑を立てたのも、その一環である。ちなみに、芭蕉が鬼柳町を訪れた記録はない。

 現在、この句における烏は一羽が定説であり、芭蕉の絵はメイキングの扱いとされている。もちろん、今後、それがディレクターズ・カット版として普及することもあり得る。

 芭蕉と弟子の絵画を比較すると、情報の非対称性が認められる。師匠は、漢詩文の世界を思い浮かべながら、風景全体の中からあるショットをフレームの中に収めて作品としている。他方、弟子たちにはそのフレームの外の光景がわからないので、そのカットを延長して風景全体を想像する。創作には編集作業がつきものであるが、鑑賞者にはその過程が見えない。

 ただ、これは解釈の多様性ではない。烏が一羽だろうと、七羽だろうと、句の意味に違いはない。句は一義的である。当時の文学は社交である。文学リテラシーと古典の教養を共有した人たちが作品を介してお互いの美意識を交歓する。句をめぐる師匠と弟子の絵画の相違も話題の一つにはなれ、解釈の対立に発展しない。情報の非対称性が特に問題になるのはリテラシーが共有されていない状況んいおいてである。

 かのコロンビア大学名誉教授は多くの日本文学論や翻訳を著わしている。けれども、彼を語る際に、最も欠かすことができないのは日本の文学者たちとの交流であろう。谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫、安部公房、吉田健一などとの歓談こそがドナルド・キーンの文学だと言ってよい。文学が社交だという姿を垣間見せてくれる今では稀有な人である。生きられた文学がそこにいる。
〈了〉
参照文献
芭蕉俳句全集
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/index_theme.htm
北上観光協会、「きたかみ魅力辞典─松尾芭蕉」
http://kitakamicity.net/kanko.php?itemid=2113

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