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漢詩と政治(2012)

漢詩と政治
Saven Satow
Nov,.13, 2012

「詩なる者は、妙観逸想の寓する所なり」。
恵洪『冷斎夜話』

第1章 文章経国思想
 衆院憲政記念館において、特別展「昭和、その動乱の時代―議会政治の危機から再生へ―」が催されている。開催期間は2012年11月8日~30日である。

 その展示品の中に、立憲民政党の代議士斎藤隆夫による『第七十五帝国議会去感』と題する漢詩がある。

吾言即是万人声(吾が言は即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評(褒貶毀誉は世評に委す)
請看百年青史上(請う百年の青史の上に看る事を)
正邪曲直自分明(正邪曲直自ずから分明)

 これは、彼が1940年2月2日に衆議院本会議において日中戦争を批判した反軍演説を行い、それを理由に除名処分を受けた後に記した作品である。

 何か事があった時、戦前の政治家のみならず、軍人や官僚、財界人、知識人など漢詩を認めることで知られている。今日ではこの習慣は廃れてしまったと言って差し支えない。そうした現代人からすれば、なぜ斉藤隆夫が漢詩を詠んだのか理由がよくわからない。日本の歴史において漢詩がいかなる機能を持つのかを知らなければ、この創作行為の意味も理解しえない。

 実は、漢詩は日本の歴史において政治的な文学である。日露戦争開戦に際して、明治天皇は「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」と和歌を詠んでいる。斉藤隆夫が漢詩を用いたのに、明治天皇は開戦直前に和歌によって自らの心情を暗示したのも、それぞれのジャンルの機能の違いに起因している。漢詩と違い、和歌は政治色が弱いからである。

 近代の漢詩は大きく二つの流れが併存している。一つは清新派で、日常性を扱いながらも、清の繊細な詩風を学び、洗練された作品をつくっている。もう一方は詩吟につながる詩風である。欧米列強と接触し、尊王攘夷運動盛んになると、『日本外史』がそのイデオロギーの一つとして読まれるようになる。これは、頼山陽が著わした漢文による全22巻の歴史書で、1829年に刊行されている。そうした影響にある維新の志士たちは自分たちが真っ只中にいる歴史的出来事・事件をめぐる漢詩を創作する。もっとも、それらは大言壮語が過ぎ、詩としてはいささか粗雑である。けれども、荒々しく、激しい歴史のドラマを記念する叙事詩と見なされ、系譜を形成していく。戦前のエグゼクティブによる漢詩は多くが後者に属する。

 日本史において漢詩が最も政治的だったのは平安初期である。平城・嵯峨・淳和の三代の天皇の時代、すなわち806年から833年までの平安初期、天皇や上皇、皇太子主催の詩会が盛んに催され、勅命による漢詩文集が編纂されている。『凌雲集』・『文華秀麗集』・『経国集』の勅撰三集であり、これは文章経国思想に基づいている。

 この考えは中国の六朝や初唐にかけて普及した『文選』に収められた魏文帝「典論」の「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」に由来する。『文選』は南北朝時代の南朝梁の昭明太子によって編纂され、現存する最古の漢詩文集である。全60巻に及び、春秋戦国時代から梁までの不明を除く約130人による800近くの作品を賦・詩・騒・七・詔など37のジャンルに分類して収録する。昭明太子自身による序文に選択基準として「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」が挙げられている。深い思索と美しい修辞を併せ持つ作品を選んだというわけだ。

 『文選』は後世詩文の模範とされ、科挙の試験に文学的才能が重視されたことも相まって、文人とその志望者の必読書となっている。文人とは科挙に合格した士大夫、すなわち高級官僚である。儒教では、武力に頼らずとも、文化の力だけで無為によって治世することが理想とされている。文化は天子の徳の現われである。徳治主義の政治に携わる文人は読書人のみならず、詩人でなければならない。

 文学が政治に影響を及ぼしたのは東アジアに限った現象ではない。ペルシア語文化圏でも詩が政治と深く結びついている。イスラムの拡大と共に、シリアやエジプトなど独自の言語を使っていた地域でもアラビア語がそれに取って代わる現象が起きる。けれども、ペルシア語文化圏においては、事情が異なる。確かに、宗教領域の言語はアラビア語に変更されたものの、行政では依然としてペルシア語が用いられている。インドのムガール朝でさえ、宮廷においてペルシア語が好まれている。

 ペルシア語文化圏では、詩人のステータスが非常に高い。王は偉大であるから、それに関する文章は美しくなければならない。そのため、詩が尊ばれる。行政文書にも詩に則った表現が使われる。官僚にも詩作の能力が要求され、例文集も用意されている。王主催の詩を競い合う場もあり、そこで優れた作品を披露した詩人に年金が褒美として与えられる。こうして生まれた文学を「インシャー文学」と呼ぶ。詩を愛好したのは王宮だけではない。すべての身分や職能の間でも盛んに詩が楽しまれている。詩人たちはパトロンを求めて阿あちこち移動する。

 日本も律令制を輸入した際、文章経国思想も受け入れる。『文選』の影響力は大きく、『枕草子』に「ふみは文集。文選。はかせの申文」とあるほどだ。『経国集』には政治に関する文章も収録されている。やまとことばの和歌に政治色がないのとは好対照である。政治・経済・宗教などの用語は漢語であり、やまとことばだけでは表現の幅が狭い。漢詩集は文学がいかに現実の政治に有効であるかを語っている。漢学者が実際に政治に携わり、活躍している。彼らは養成機関である大学で学び、国家試験を受けて官僚になっている。

 9世紀後半から和歌が流行し始め、10世紀初頭の『古今和歌集』がこの流れを決定的にする。宮廷での漢詩から和歌へのヘゲモニーの移動は、藤原氏の台頭も関連している。8世紀半ばにまとめられ、現存する最古の日本漢詩集である『懐風藻』には、藤原氏の漢詩も多く収められている。けれども、律令制は天皇を中心とし、漢学に通じた官僚が補佐するシステムであり、藤原氏が政治の実権を握るには、文章経国思想の廃絶が不可欠である。政治と漢詩の関係を断ち切れば、漢学の知識を理由にした他の有力貴族の朝廷への影響力は失せる。藤原氏の策謀はイデオロギーにも及ぶ。901年の菅原道真の左遷がその象徴的事件である。

 律令制の理想の体現者であった道長が排斥されて以後、漢学者は政治の中心から締め出される。天皇や皇太子に漢籍を講じ、詩会の際に詩を詠み、仏事において願文を書き、摂関や大臣の依頼に応じて辞表などを執筆するといった仕事に限定される。しかし、漢詩が結界と化したわけではない。藤原氏に対抗する動きが出ると、漢学者の活動も活発化する。

 現実政治から距離が出て以来、漢詩の表現が多様化する。従来の政治的内容のみならず、中世説話文学の先駆とも言うべき作品が生まれたり、男しか読まないという前提のため、同性愛を含めかなりエロティックな作品も書かれたりしている。『新猿楽記』で知られる藤原明衡がそうした時代を代表する漢詩人の一人である。

第2章 漢詩と国際関係
 平安初期のように直接携わる機会は減ったものの、漢詩は以後の歴史でも政治的役割を果たしている。

 中世、日本と大陸の交流を最も担っていたのは僧侶である。特に禅の存在感が大きい。日本から大陸へ留学僧が渡り、高層が来日する。禅林、すなわち禅宗寺院は大陸から伝わった最新の文物を味わえる空間である。

 僧侶は東アジアの共通語である漢文を国内で最も操れる人材である。幕府は、僧侶に大陸との外交に用いる公文書の作成や来日した使節の応対を依頼している。僧侶は宗教者だけでなく、外交官である。国内政治では影響力が縮小した漢詩であるが、国際関係では依然として重要な役割を果たしている。

 ただし、禅林の文学はかなり独特である。「不立文字」や「教外別伝」の禅宗は教えを経典の中に記されているとは考えず、座禅を通じて自ら体得する者と説く。そう言いながらも、禅僧は語録を残すことでも知られている。彼らは惰性と化した言葉の使い方や考え方に再考を求める。思いもよらぬ修辞や論理によってそうした思考を打破し、仏の教えを垣間見せる。禅では、通常は連想できないような修辞法を用いる。恣意的ではないかと感じられる言葉の切断・連結が提示され、俗語も多用される。それは抹香臭さが薄まっているけれども、滑稽さや卑俗さが濃い。次第に、作品を読んだだけでは、作者が出家なのか、在家なのかわからないほどになってしまう。元代に入ると、禅僧も市井と交流するようになり、普通の漢詩を創作していく。

 禅林の文学は象徴主義を先取りしているのみならず、その後の現代文学のありようも教えてくれる。19世紀フランスで勃興した象徴主義は外界の写実的描写よりも内面を象徴によって表現する芸術運動で、その後の近代ならびに現代文学に多大な影響を与える。比喩など従前のレトリックによらず、作者が対象を前例のない連想によって喚起することを目指す。

 歴史的・社会的コンテクストを抜けば、何のことはなく、象徴主義は禅林の文学と同じ方法論である。象徴主義以降の文学潮流も、禅林の文学をから容易に推察できる。こうした禅林文学の歴史も知らず、謎があるなどと村上春樹を称賛している読者が少なからずいるのは滑稽かつ卑俗である。こんにゃく問答とさして変わらん。世間はぬるい。

 近世では、朱子学が幕府の御用イデオロギーと認められ、朝鮮との国交も含めて、林羅山を代表に朱子学者が政治に影響を及ぼすようになる。彼らのみならず、朱子学に対立する漢学者の活動も活発で、漢詩の創作も積極的に行われている。

 室町時代から社会の上流と下流階層の交流が頻繁となり、今日に至るまで続くいわゆる「伝統文化」が形成される。漢詩も市井で親しまれている。詩の専門家や詩書画を創作する文化人も江戸中期以降には登場する。さらに、幕末には、梁川紅蘭や原采蘋ら女流漢詩人も活躍している。付け加えると、19世紀前半の文化・文政の頃に清朝の民間音楽が伝来し、中国語の歌詞のまま、日本社会で広く楽しまれている。これは「明清楽」と呼ばれ、明治期にも流行している。

 このように、漢詩は、日本の歴史において、濃淡はあれ、政治色がある文学である。貴族から僧侶、学者へと主な担い手も変わっているが、それもその時代の政治情勢をよく物語っている。「政治と文学」という課題は、漢詩において両者の密着が当然であるため、あまり意義がない。政治について文学作品として語るには漢詩がふさわしい。和歌ではない。

 漢詩は日本で政治的な文学であるが、その他にも役割を果たしている。漢詩は東アジアの前近代において最高の文学である。その中でも最大級の詩人は李白だろう。彼は、詩の才能を天から与えられたとして「天才」と呼ばれている。

 その李白に『哭晁卿衡』(770)という作品がある。

日本晁卿辭帝都(日本の晁卿帝都を辞し)
征帆一片遶蓬壺(征帆一片、蓬壺を遶る)
明月不歸沈碧海(明月帰らず、碧海に沈み)
白雲愁色滿蒼梧(白雲愁色、蒼梧に満つ)

 ここで追悼されている晁衡とは阿倍仲麻呂のことである。彼は唐に渡った後、科挙に合格、極めて優秀で、高官にまで登りつめる。文人は読書人のみならず、詩人でなければならない。彼も李白や王維など歴史に名だたる詩人と友情を温めている。しかし、望郷の念は捨てきれず、皇帝に帰国の許可を願い出る。念願かなって帰路に経ったものの、船が遭難、仲麻呂死去の噂が都に届き、それを知った李白が詠んだのがこの詩である。李白の代表作の一つと評価されている。

 仲麻呂が帰国する直前、王維も『送秘書晁監還日本国』という送別の詩を贈っている。

積水不可極(積水極む可からず)
安知滄海東(安んぞ、滄海の東を知らんや)
九州何處遠(九州何処か遠き)
萬里若乘空(万里空に乗ずるが若し)
向國惟看日(国に向いては、惟だ日を看)
歸帆但信風(帰帆は但だ風に信すのみ)
鰲身映天黒(鰲身天に映じて黒く)
魚眼射波紅(魚眼波を射て紅なり)
郷樹扶桑外(郷樹扶桑の外)
主人孤島中(主人孤島の中)
別離方異域(別離方に異域)
音信若爲通(音信若爲てか通ぜん)

 仲麻呂は、実は、この時、ベトナムに漂着している。その後、長安に戻り、中国で生涯を終える。現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江の北固山の歌碑に、仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が漢詩の五言絶句として刻まれている。

翹首望東天(首を翹げて東天を望めば)
神馳奈良邊(神は馳す 奈良の辺)
三笠山頂上(三笠山頂の上)
思又皎月圓(思ふ 又た皎月の円なるを)

 日中は、文学者出身の政治家石原慎太郎による尖閣諸島購入計画の発表以降、対立が激化している。歴史を敷衍する時、石原慎太郎は文学も政治もよく知らないのではないかと言わざるを得ない。1200年以上も前に文学は両国の友好をつないでいる。斉藤隆夫の漢詩にもさらなる感慨が思い浮かぶだろう。文学の政治力を見くびってはいけない。
〈了〉
参照文献
林達也、『国文学入門』、放送大学教育振興会、2008年


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