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太宰治の『斜陽』、あるいは喜劇の解読(2)(1992)

2 『斜陽』の敬語
 『斜陽』は太田静子の書いた日記や彼女との関係、山崎富栄との交流をもとに、アントン・チェーホフの『桜の園』をモチーフとして書かれた作品である。彼は、1933年から足かけ十五年の間、太宰治のペンネームを使って作家生活を送っている。作品は三つの時期にわけられている。初期は『晩年』や『二十世紀旗手』、『魚服記』など実験的な作品群の時期、中期は『津軽』や『走れメロス』、『富嶽百景』など私小説的な作品と古典を土台にした作品群の時期、後期は『冬の花火』や『トカトントン』、『人間失格』など現代を舞台にし、時代の雰囲気を反映させた作品群の時期である。それぞれ戦前・戦中・戦後に対応している。『斜陽』は晩年の作品である。

 太宰は、確かに、戦争期にも『右大臣実朝』や『お伽草子』など優れた作品を書いているが、それらは彼を神話化させるには至っていない。太宰の神話作用は無頼派の一人として書いた『斜陽』のジャーナリスティックな成功が不可欠である。「太宰文学の集大成」(奥野健男)であるこの『斜陽』を読解することが彼の文学の限界と可能性を明らかにする。

 太宰に最も否定的な評価をくだしている作家の一人である三島由紀夫は、『私の遍歴時代』において、『斜陽』を次のように批判している。

 私も早速目をとおしたが、第1章でつまづいてしまった。作中の貴族とはもちろん作者の寓意で、リアルな貴族でなくてもよいわけであるが、小説である以上、そこには多少の「まことらしさ」は必要なわけで、言葉づかいといい、生活習慣といい、私の見聞していた戦前の旧華族階級とこれほどちがった描写を見せられては、それだけでイヤ気がさしてしまった。貴族の娘が、台所を「お勝手」などという。「お母さまのお食事のいただき方」などという。これは当然「お母さまの食事の召上り方」でなければならぬ。その母親自身が、何でも敬語さえつければいいと思って、自分にも敬語をつけ、
 「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
などという。それがしかも、庭で立ち小便をしているのである。

 この敬語の問題は『斜陽』の発表当時からかなり議論の的になっている。奇妙な敬語が、印象的な食事のシーンから始まる『斜陽』の出来を損ねていることは、否定できない。「戦前の旧華族階級」をよく見聞してきた平岡公威こと三島由紀夫が言うように、『斜陽』において尊敬語と謙譲語、丁寧語が混乱して用いられている。また、美化語の一般的用法以上にやたらと「お」を接頭している。

 ただし、「旧華族階級」ではなく、杉山画伯の娘と一緒に疎開していたある女性によれば、戦前の山の手の住人の中には、「ございます」言葉を用いたり、「お御飯」というように、何にでも「お」をつけたりする女性がいなかったわけではない。このことから津軽の大地主の子である津島修治こと太宰治が敬語を知らないと思われても仕方がないだろう。

 だが、逆に、あまりに稚拙すぎるにもかかわらず、このまま直すことなく発表させているのも解せない。そのため、「テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ」と登場人物に語らせていることから、作者は意図的に間違えたのではないかと推測させてしまうほどである。

 一方、『斜陽』を太宰の「その死に近きころの作品」の中では「最もすぐれている」と評価しつつも、坂口安吾は、『不良少年とキリスト』において、その敬語に関して次のように述べている。

「斜陽」には、変な敬語が多すぎる。お弁当をお座敷に広げて御持参のウイスキーをお飲みになり、といったグアイに、そうかと思うと、和田叔父が汽車にのると上キゲンに謡をうなる、というように、いかにも貴族の月並みな紋切り型で、作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気なはずなのに、実に、フツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。
 まったく、こんな赤面は無意味で、文学にとって、とるにも足らぬことだ。
 ところが、志賀直哉という人物が、これを採りあげて、やっつける。つまり、志賀直哉なる人物が、いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかなのであるが、ところが、これがまた、フツカヨイ的に最も急所をついたもので、太宰を赤面混乱させ、逆上させたに相違ない。
 もともと太宰は調子にのると、フツカヨイ的にすべってしまう男で、彼自身が、志賀直哉の「お殺し」という敬語が、体をなさんと言って、やっつける。
 いったいに、こういうところには、太宰のいちばんかくしたい秘密があった、と私は思う。
 彼の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。
 そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中でみずから名門の子弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そう言ったが、なぜ、名門がおかしいのか、つまり太宰が、それにコダワッているのだ。名門のおかしさが、すぐ響くのだ。志賀直哉のお殺しも、それが彼に響く意味があったのだろう。
 フロイドに「誤謬の訂正」ということがある。我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとするものだ。
 フツカヨイ的な衰弱的な心理には、特にこれがひどくなり、赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起こるものである。
 太宰は、これを、文学の上でやった。

 敬語の正誤は文学の問題ではなく、作文の問題であり、文学者たるものが論ずるべきではない。作文は文法や用法、意味などが適切であることを基準とする文の作り方である。誤用や誤字脱字が内容以前に文の評価とされる。「文学にとって、とるにも足らぬこと」である敬語の問題にこだわる三島も、志賀直哉と同様、そのことによって「いかに文学者でないか、単なる文章家にすぎん、ということが、これによって明らかなのである」。

3 太宰と三島
 実際、三島の作品にも、太宰の作品と同じように、「良家の出であることが、書かれすぎている」。三島の一連のパフォーマンスも──ボディ・ビルにしろ、楯の会にしろ、あの自決にしろ──「文学の上で」やられた──表面的には、太宰のそれとまったく逆であるとしても、構造上は同一の──「誤謬の訂正的発狂状態」である。自分のやろうとしたことをやられてしまったという口惜しさが三島の太宰嫌いの原因の一つになったと言ってさしつかえないだろう。三島自身も、『私の遍歴時代』において、「もちろん、私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反応を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛蔵の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない」と告げている。

 太宰は、自分自身が周囲のものとどれだけ異質であるかということを悟られないようにするために、躍起になる。彼の自己劇化は防衛手段である。彼はほんとうの自分が実はこうなのだと告白したい誘惑にかられることがあるけれども、結局、それに踏み切ることはない。彼には、カミング・アウトによって、傷ついてしまうことを何にもまして恐れるからである。太宰は、むしろ、最後まで素顔を隠し続けることを選ぶ。

 自己激化はもともと太宰の本質であったわけではないが、始めてしまうと、彼には欠くべからざる要素になってしまう。その仮面の身振りは周囲のものをいらつかせる。しかし、太宰は自己劇化をやめない。彼にとって、仮面は素顔を隠すための演技である。一方、三島の仮面は作家になろうと思うものに何にでもなれる力を与えてくれるものだ。彼は太宰であれば、仮面の裏に隠そうとするものを押しつぶす。隠すものなど何もないと仮面の三島は言い放つ。

 三島は素顔そのものなどというものはなく、ただあるのは仮面だけであり、それこそが素顔なのだと考えている。素顔にとらわれすぎると、自分自身の可能性を限定してしまうことになる。三島にとっての仮面は素顔にするためのものである。つまり、太宰には仮面は盾であるのに対して、三島の仮面は矛だ。彼らは矛盾の関係にある。

 三島は後に天皇制賞賛と戦後民主主義批判へと向かう。だが、太宰は三島が彼を嫌悪していた時点にすでにそのことを書いている。

 天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
(『苦悩の年鑑』)

 日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想かなら、今こそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。……天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ。
(『パンドラの匣』)

一、十年一日の如き不変の政治思想などは迷夢にすぎない。二十年目にシャバに出て、この新現実に号令しようたって、そりゃ無理だ。(略)
いまのジャーナリズム、大醜態なり、新型便乗というものなり。(略)
一、戦時の苦労を全部否定するな。
一、いま叫ばれている何々主義、何々主義は、すべて一時の間に合せものなるゆえを以て、次にまったく新しい思潮の擡頭を待望せよ。
一、保守派になれ。保守は反動に非ず、現実派なり。チェホフを思え。「桜の園」を思い出せ。
一、若し文献があったら、アナキズムの研究をはじめよ。(略)
一、天皇は倫理の儀表として之を支持せよ。恋いしたう対象なければ、倫理は宙に迷うおそれあり。
(『一九四六年一月二十五日堤重久宛書簡』)

 これらはいわゆる「太宰の天皇万歳発言」と呼ばれている。太宰は時代通念に異議を唱えているのではなく、社会の共同性への同調に対する違和感を訴えている。これらの主張は錯綜し、それどころか、目茶苦茶でさえある。完成は主観的であるため、整合性がしばしば欠ける。政治的アピールと言うよりも、審美的イデオロギーである。太宰にとって「自由思想」はそうした違和感を投影するヴィジョンを意味している。その感覚は、自らの存在の持続性を外界が危うくするものとして、太宰には感じられる。彼は一貫性・連属性が損なわれることに対して憤りを覚える。つまり、太宰は自分自身における持続性を天皇制に求めている。

 感性的判断にアイデンティティを見出すものはタブー破りをしたがる。状況に同調しない逆張りにより自分と他者の感性の違いを確認できるからだ。太宰において天皇制は状況に対するアイロニーであっても、政治思想的問題ではない。近代は政教分離により価値観の選択が個人に委ねられているが、太宰はモラリズムを持ち出す。実は、三島もそうである。天皇を「倫理の儀表として」支持するという太宰の考えは、三島の『文化防衛論』における「文化の全体性」を代表する「究極の価値自体」としての天皇を想起させる。作品に登場する男性にこそ違いが見られるが、女性は極めて似ている。二人はコインの表裏であり、三島の太宰嫌いはむしろ近親憎悪である。

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