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永遠回帰から見る『正直庄作の婿入り』(2015)

永遠回帰から見る『正直庄作の婿入り』
Saven Satow
Sep. 06, 2015

「おもふこと。あゝ、けふまでのわしの一生が、そつくり欺されてゐたとしても この夕栄えのうつくしさ」。
金子光晴

 昔話には身もふたもない物語があります。どうしてこうなるのか結末の意味がわからないのです。

 もちろん、中には茶番もあります。新潟県に伝わる『三途の川の婆さん後家入り』が一例です。辺りで評判の仲睦まじい老夫婦がいたのですが、爺さんが病気で急死してしまいます。婆さんは爺さんがあの世で一人さびしくしているのだろうと心配でなりません。そこで、巫女に呼び出してもらいます。すると、爺さんは、自分は三途の川の婆さんと再婚して楽しく暮らしているから、そっちも気楽にやってくれと言うのです。まるでドリフのコントです。

 こうした茶番とは別に、どうも結末に納得がいかない作品も確かに少なからずあります。けれども、謎は文学の魅力の一つであり、そうした不可解さはそれだと見なすのは早計です。昔話は前近代の民衆の集合記憶の表象で、暗黙の前提に基づいています。ところが、読者として想定されていない近代人はそれをわかりません。近代の読者が昔話を味わうには、歴史を知り、その暗黙の前提を理解する必要があるのです。

 そうした暗黙の前提の一つが仏教思想です。多くの昔話の舞台になっている近世において庶民は仏教思想に由来する規範に従って生きています。民話もそれを暗黙の前提にしているのです。

 身もふたもない昔話の代表の一つとして知られているのが山口県に伝わる『正直庄作の婿入り』です。これは我に執着してはいけないという仏教思想由来の規範に基づいています。それを理解して読むと、納得のいく結末です。

 昔、あるところに、全員が美しい顔立ちという村があります。ただし、それは庄作以外です。彼は村でお地蔵さんと並んで不細工な男なのです。村人はそんな庄作をバカにしています。

 この庄作は気のいい正直者で働き者です。ところが、村人は美男美女ですが、冷たい心の人ばかりです。彼らは庄作に難癖をつけてただ働きさせたり、魚を横取りしたりします。正直者がバカを見ているわけです。けれども、彼はどんな時でも嫌な顔一つ見せず、いつも笑顔で暮らしているのです。

 そんな庄作も一人身でいることにさびしさを覚えています。自分のような不細工な男のところに来てくれる嫁さんはいないものだろうかと思いを巡らせます。彼はお地蔵さんにお嫁さんが欲しいとお願いします。

 すると、お地蔵さんの背後から狐が現れます。狐が手に持った桜の枝を振ると、その場が庄作の婚礼の式場に変わります。紋付き袴姿の庄作の横には美しい嫁さまが座っています。驚く正作を前に、婚礼の儀が進んでいきます。とてもいい式です。庄作は生まれてからこれまでで一番幸せな気持ちになります。

 翌朝、村人はお地蔵さんの横で笑顔で眠る庄作を見つけます。彼らはきっと狐に化かされたのだろうとこれまで以上に正作を嘲るようになります。けれども庄作はこれまで以上に笑顔で一生懸命働いて暮らしていくのです。

 正直者が結局バカを見続けるお話です。まさに身もふたもありません。けれども、この昔話は我執の克服と読むことができます。庄作は、婿入り前、他と比較して劣等感を抱いています。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。我に固執してルサンチマンに囚われているのです。けれども、婿入り後は、他と比較するのをやめ、あるがままを受け入れて幸福感を得ています。もはや彼は我に執着しませんので、ルサンチマンから解放されています。

 他方、村人は、依然として、他と比較して優越感を味わおうとしています。あるがままを認められず、我に固執してルサンチマンに支配されています。一切皆苦、すなわちこの世は思うようにならないのですから、生き難さは人間につきものです。自分の弱さや不遇を抜け出せるとは限りません。そうなると、他を攻撃したり、嘲笑したりして、反動的に優越感を獲得しようとします。

 美男美女ぞろいの村人が庄作を見下したり、彼に意地悪したりするのは自分自身を認められないからです。自らを肯定できませんから、ちょっとしたことでも他者に過敏反応します。規範を守るには自制心が必要ですが、それが弱いので、相手を否定するような言動をしてしまいます。思いやりがなくては人間関係がうまく取り結べません。こういう人がほとんどなら、その村に温かみが亡くなるのは当然でしょう。

 これでは幸福感を覚えられず、いつまで経っても冷たい人間でしかありません。彼らは庄作をバカにしますが、認められる自分がありませんから、そうやって自らを慰めているのです。

 この教えは仏教に限りません。フリードリヒ・ニーチェの永遠回帰にも見られる認識です。ニーチェは、カール・マルクスやジクムント・フロイトと並んで、20世紀を支配した思想家です。永遠回帰説はその彼の理論において最も重要な位置を占めています。ただ、永遠回帰説は多様な内容を含んでいますので、一つに要約することはできません。今回の議論に即すと、反動的力を克服して生を肯定することがそれに当たります。

 ニーチェは、『ツアラトゥストゥラはかく語りき』において、あの永遠の回帰について次のように語っています。

 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。
 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。──
 あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ!
 ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ!
 ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは--永遠を欲するからだ。

 これが庄作の到達した心境でしょう。ルサンチマンは自分を含めすべての否定につながります。たとえ狐に化かされた夢であっても、それが生涯最高の瞬間であったとしたら、すべてを肯定できます。あるがままの自分を認め、反動的な力の誘惑に屈しません。今や彼にとって人生や世界は、よろこびに満ち溢れているのです。

 『正直庄作の婿入り』は永遠回帰を語る昔話です。身もふたもないお話に詠めてしまうのは、むしろ、近代人が反動的な力の誘惑に屈し、ルサンチマンに囚われているからだとも考えられます。この心理はしばしば権力者に利用されます。好戦的ナショナリズムやレイシズムはそうした扇動の例です。永遠回帰はこのような反動を克服するために不可欠な発想でしょう。

 『正直庄作の婿入り』は現在の日本で読まれる意義を十分に有しています。あるがままの自分を認められる心理を自尊感情、他と比較して優越感を得ようとするのが自尊心と言います。心理臨床家は、今日、前者が未発達な反面、後者が肥大化している若年層がかつてより増えていると報告しています。

 確かに、好戦的ナショナリズムやレイシズムだけでなく、各種のハラスメントや炎上、いじめなどが横行するなどルサンチマンの充満が認められます。民話という先人の知恵にもっと耳を傾ける必要があります。特に、この昔話が伝わってきた山口県を選挙地盤とする安倍晋三首相はそれが教えるものを学ぶべきでしょう。
〈了〉
参照文献
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2008年
F・ニーチェ、『ニーチェ全集』10、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫、1993年


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