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Lost Samurai─新渡戸稲造の『武士道』(2)(1993)

2 東アジア文化圏の宗教観
 この執筆動機から伝わってくるのは、新渡戸の東アジア人の宗教観に関する認識の欠如である。新渡戸は東アジア文化圏の中で日本を把握せず、まるで自立した地域であるかのように考えている。神の死において、学校の道徳教育に宗教が不可欠であるという認識は反時代的だとしても、ヨーロッパの伝統的な大学には神学部が設置しているのに対して、東京帝国大学は神学部を持たずに、創立されている。これは日本の近代化の特徴と言うよりも、中華文化圏の宗教観から当然の帰結である。

 中国は、二階堂善弘の『中国の神さま』によると、日本よりも宗教がもっと混在している。中国では、自分がどこの宗派に属しているのか知らない人も少なくない。仏教寺院に関羽、道教でそれに相当する道観に、インド伝来の神が祀ってあったりする。中国において、神は「廟」に祀られるが、この廟が至るところに見られる。横浜の中華街がそうであるように、中国文化圏では、小さな路地裏にさえ、廟がある。祀られてあるのも、インド系の神々にとどまらず、皇帝や軍人、政治家、官僚、学者、芸術家、宗教家、盗賊といった人間から、仙人、動物、妖怪と多岐に渡る。人々が廟を信仰する目的は「御利益」である。商売繁盛・家内安全・子孫繁栄という極めて現世利益のために、祀られている。来世や最後の審判、救済、解脱、悟りはあまりにも抽象的すぎる。宗教は、中国人にとって、信じるものではなく、使うものである。宗教が混合しているとか現世利益を目的にしているといった日本人の宗教観と言われている傾向は、東アジア文化圏に共通である。

 日本と中国の違いも、当然ながら、存在する。日本の仏教寺院には墓があるのに対して、中国ではない。また、遺体に関する認識も、興味深いほどに、異なっている。

 1988年の夏、中国のある地方政府の門前に初老の男の遺体が放置されている。旱魃により、収穫が例年の半分に落ちこんだにもかかわらず、地方政府は徴収する税金を変えなかったため、六八歳の男性が農民の窮状を訴えたのだが、逆に、役人に殴られ、追い返されてしまい、それに抗議して、首をくくってしまう。真相を知った遺族は激怒し、埋葬をせず、棺を乗せたトラクターを政府の建物の門の中に乗り入れ、タイヤをパンクさせ、そのままにして帰ってしまう。これは遺体を武器にした抗議である。旱魃の夏の暑さによる遺体の放つ悪臭は相当なものだったと想像するに難くない。

 中国では、「図頼」と呼ばれる葬儀ストライキが伝統的に見られる。明の時代の書物にも記録されている。小作人が病気の親に自殺を勧め、その遺体で地主への小作料の支払いを拒否するというのは初歩的なことである。行き倒れの遺体があると、どこからともなく、遺族と称するものが現われ、その遺体を金持ちや役人の家の前に行き、それを放置するということもある。もっとも、同情できる場合だけでなく、総会屋さながらのケースも多々あったようである。

 中国では、遺体は邪気を放つ恐ろしいものと考えられている。遺体を安全な存在にするには、正しい手順に則った葬儀が必要である。ところが、この葬儀には、遺族の役割が極めて重要になっている。中国人は父系の血縁を継承し、その祖先を敬う人たちである。そこが家の存続のために養子を認める日本人と違う。遺族が葬儀を拒めば、いつまで経っても、遺体はそのままでとどまることになってしまい、邪気を放ち続け、社会を非常に危険な状態に陥らせてしまう。そこで、周囲の人々は当事者に働きかけて、和解させようとする。このようにして遺体を放置した人の目的が達成される。

 1989年冬、事件を知った中国共産党の省委員会の幹部が現地に赴き、遺族の説得にあたり、問題の役人を処罰し、それに納得した遺族は事件発生から二六〇日後にようやく埋葬している。“Funny how gentle people get with you once you're dead”(Billy Wilder “Sunset Boulevard”).

 遺体が邪気を放つ存在だったり、葬儀に遺族の果たす役割が大きかったりするなどは日本も同じである。ただ、歴史的に、葬儀ストライキは決してよく行われたわけではない。もともと、未余地のない行き倒れを葬ったことをきっかけに、日本のお寺が葬儀を執り行うようになったとされている。東アジア文化圏を認知した上で、こうした小さいけれども決定的な差異を考察することが肝要であろう。

 日本の仏教は、経典が漢文で記述されているように、中国から伝来、その後、中国に留学した知識人や大陸から来訪した高僧を通じて普及・変容されてきたが、大陸の世俗的な信仰が伝わってきたわけではないとしても、巣鴨のとげぬき地蔵が示している通り、日本の民衆の宗教に対する認識はそれと共通している。宗教は御利益であるという認識には、たとえ知識人を通じてであっても、仏教の中国化が大きな影響を与えている。

 中国人の理論と実践の関係に関する認識は、数学を例にとって見ると理解しやすくなる。中国人は数学を実践に応用することに精力を費やし、ユークリッド原論のような理論的な体系を構築する研究の対象とは考えていない。また、中国人は、インド人と違い、形式論理学にほとんど関心を示していない。と同時に、ギリシア人とも違い、無理数をタブー視もしていない。彼らは数学を実用性から評価する。

 森毅は、『分数の発想・小数の発想』において、「中国文化は、もともと分・厘・毛の小数文化」だと指摘している。「小数の発想は一本調子だ。まず単位で測って、余りがあると、別の小さな補助単位で測っていく。測られるべき量は、測る者の現前に存在し続ける。その客体性はゆらぐことがない。こうしたことをおもいあわせると、近代ヨーロッパが小数を主調音にしていることも、なんとなくもっともである。目標を定めて、目的合理性にしたがって、ともあれ数量化する。その残余は、新しい単位を手段に、さらに細密化する。こうして、成果を蓄積しながら、目標へ向けて上昇していく」。「視線を定めることなく、関係性の相互規定のなかで数量化していく分数の発想は、互除法を原型として、逐次近似の手法となってコンピュータのループとなる。案外に、分数の発想も現代的と言えなくもない。考えてみれば、現代にあっては、関係性が相対化され、相互の規定が社会の構造を作っている。古典的な、一本調子の小数の発想が、だんだん有効性を失っている」。

 代数の表記に記号を使わず、概念を言葉で記している特徴が見られ、中国人の計算能力は、そろばんのため、非常に正確である。5世紀に、羅針盤の研究でも知られる祖沖之が弾き出したπの値の精度にヨーロッパ人が到達するのは一七世紀まで待たなければならない。また、一二世紀以前に、一般に「パスカルの三角形」と呼ばれる二項定理を導き出している。パスカルの三角形に最初に言及しているのは11世紀の賈憲であり、12世紀の楊輝と朱世傑が完璧に描き出している。中国人は、歴史的に、このように実用性において理論と実践の一致を捉えている。

3 近世の教育
 こうした東アジアの実用性重視は日本における教育機関の成立にも影響を与えている。近代以前の中国では、科挙の合格を頂点として教育施設が形成されている。学校は科挙に合格するための知識や技術を習得する実用的な場であり、そこには宗教による道徳教育は入りこむ余地がない。日本には、科挙のような官吏登用のシステムがないので、学校の最終目標は中国とは異なっているが、実用性重視は似ている。日本の教育機関は、江戸時代から、実用性に根拠を置いており、道徳教育が学校の範疇に必ずしも属していない。江戸時代の代表的な教育機関として藩校と私塾、寺子屋があげられる。

 藩校は諸藩が主に藩士の子弟のために設立した教育機関であり、藩学・藩学校・藩黌(こう)とも呼ばれる。内容や規模はさまざまだが、藩士の子弟はすべて強制的に入学させ、庶民は原則的に入学できない。これには医学校・洋学校・皇学校・郷学校・女学校など藩が設立したあらゆる教育機関を含まれる。藩校では「文武兼備」を掲げ、7、8歳で入学し、まず読み書きを習った後、武芸を学び、14、5歳から20歳くらいで卒業するというのが通常のコースである。

 教育内容は四書五経といった儒学書の素読と習字を中心とし、江戸後期になると、蘭学や武芸──剣・槍・柔・射・砲・馬術──が加わっている。これらの教育を通じて、藩特有の士風を教育し、真の藩士を育成することを目標にしている。代表的な藩校には、米沢藩の興譲館(1697)、会津藩の日新館(1799)、水戸藩の弘道館(1841)、岡山藩の花畠教場(1641)、長州藩の明倫館(1719)、熊本藩の時習館(1755)、薩摩藩の造士館(1773)などがある。

 私塾は、ほぼ同時期に、主として、塾主の学識や徳に共鳴して集まった人々に対し、古代ギリシアのアカデメイア同様、自宅を開放して学習の場とした私的な教育機関である。江戸期の私塾は、藩校と寺子屋との中間的施設であり、武士と庶民が共に学ぶ「士庶同学」をスローガンにしている。幕府や藩から公認されていたものを「家塾」と呼んで区別する場合もある。

 著名な私塾には、漢学塾では、中江藤樹の藤樹書院、伊藤仁斎の堀川塾(古義堂)、荻生徂徠の蘐(けん)園(えん)塾、広瀬淡窓の咸宜(かんき)園、洋学塾として、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの鳴滝塾、緒方洪庵の適々斎塾(適塾)、大槻玄沢の芝(し)蘭(らん)堂、国学塾は、本居宣長の鈴屋(すずのや)などがあげられる。また、幕末期には、大塩平八郎の洗(せん)心(しん)堂や吉田松陰の松下村塾など政治的運動の拠点となっていく塾も生まれている。さらに、福沢諭吉の慶応義塾や津田梅子の女子英学塾などは後に大学へと発展していく。

 内容は、学問や武芸、芸事──三味線や琴、俳諧、裁縫、書道──と多岐に渡り、塾生の学識や能力によってそのレベルにも幅がある。幕末には、自分の勉学目的に沿って全国の私塾で修養を積み歩く遊学が盛んになり、私塾内に宿泊施設が設けられ、アフガニスタンのタリバーンがパキスタンのマドラサで生まれたように、維新の志士もこうした環境の中で育っている。

 寺子屋は、江戸時代に普及した庶民の教育機関であり、手習所(てならいじょ)とも呼ばれる。寺子屋の起源は戦国期に遡るが、天保年間(1830~44)、貨幣経済の発展を背景にして、一大ブームを迎える。寺子屋は幕府や藩の保護統制を受けることはほとんどない。教師は僧侶や神官、医師、浪人、教養のある農民であり、寺子もしくは筆子(ふでこ)と呼ばれた生徒の年齢は6から13歳、1クラスに2、30人程度の規模である。教育内容は読み書きとそろばんを中心に、授業時間の大半が手習い(習字)に費やされている。

 教科書には、『庭訓往来』や『商売往来』など書簡を手本とした往来物、『実語教』といった道徳的な書物が使われている。都市部においては、その他、茶道や華道、漢学、国学も教授する寺子屋も畝委されている。また、農村部でも、商品生産の盛んな地域では、就学率が五割近くに達している。欧米と比べて、当時の日本の識字率は、そのため、高かったと見られている。

 明治期以後は小学校教育の普及により衰退したが、現在でも、私塾や寺子屋のスタイルは、いわゆるお稽古事に引き継がれ、武道や芸術活動において重要に意義を持っている反面、音楽大学に入学するには、学校教育だけでは不可能という文教政策の矛盾さえ生じている。
 
Young teacher the subject
Of schoolgirl fantasy
She wants him so badly
Knows what she wants to be
Inside her there's longing
This girl's an open page
Book marking - she's so close now
This girl is half his age
 
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
 
Her friends are so jealous
You know how bad girls get
Sometimes it's not so easy
To be the teacher's pet
Temptation, frustration
So bad it makes him cry
Wet bus stop, she's waiting
His car is warm and dry
 
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
 
Loose talk in the classroom
To hurt they try and try
Strong words in the staff room
The accusations fly
It's no use, he sees her
He starts to shake and cough
Just like the old man in
That book by Nabokov
 
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
(The Police “Don't Stand So Close To Me”)

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