見出し画像

植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(4)(2004)

4 日本近代文学における過去形と現在形の混在
 ロシア文化はフランス文化から強い影響を受けている。フランスの近代小説が単純過去で統一されている慣習に従い、ロシアの近代小説も過去形で時制が統一されている。ロシア語の動詞では、不定形から派生する変化形は過去形とそれ以外にわけられ、時制の点ではフランス語に比べると単純で、過去形と現在形・未来形である。しかし、フランス語や日本語と違い、体の点では、完了体と不完了体があり、スラブ語のネイティヴ・スピーカー以外には、この区別が難しい。

 中澤英彦は、『はじめてのロシア語』の中で、ロシア語における完了体と不完了体の違いについて次のように説明している。

 完了体というのは「読んでしまった、読み終えた、読んでしまう、読み終える」のように、動作を完了・終了し目的・結果を達成した、あるいはするものとして積極的に示そうとする形です。
 それに対して不完了体は、完了・終了以外の場合、つまり「読んだ、読んだことがある、読んでいた、何度も読んだ」などのように、経験、進行中・過程、状態(反復)として示そうとする形です。

 二葉亭はロシア語における体の時制に対する優先性を認識し、完了体と不完了体のニュアンスの違いを日本語に訳す目的で、現在形と過去形が混在する文体を選択した結果、体と時制が混在してしまう。ところが、この翻訳が日本文学に別の効果をもたらすことになる。過去形が原則であり、そこに現在形を挿入したため、現在形に作者の主観的な認識が帯びるようになってしまう。

 中澤英彦は、『はじめてのロシア語』の中で、ロシア語における時制と体について次のように述べている。

 時制とは、話したり書いたりして時点、あるいは、たとえば「それは二日前のことであった」などのように、ある基準の時点より前か(過去)、同時か(現在)、後か(未来)によって区別されるものです。いわば、物理的・客観的な区別といえるでしょう。
 それに対して体は、動作を話し手や書き手がどう見えるか、どう見たいかによって区別される、いわば心理的主観的な区別です。
 程度の差こそあれ、体的見方というものはどのような言語にもありますが、ロシア語の場合、まず体の枠組があり、次に時制というものが考えられます。時間を表現するのに、時制よりも体の方が比重が高いのです。

 ロシアの近代小説は完了体と不完了体が混在していても、時制においては統一されている。他方、近代文学の日本語は、聖書ヘブライ語などと同様、時制の一致に関してそれほど厳しくない。けれども、過去形が中心であり、現在形で表現されると、そこに「動作を話し手や書き手がどう見えるか、どう見たいか」が顕在化する。

 英語を例に説明すると、日本語の過去形は英語のそれに必ずしも対応しない。英語の単純過去はその情報の状態が現在に継続していないことが前提である。他方、日本語の過去形には、英語の現在完了形のニュアンスがある。日本語で「カモメが富んだ」と言う時、それは今まさにカモメが飛び立ったという意味がある。また、現在形は概して近い未来を表わす。「カモメが飛ぶ」と言う時、それはカモメが飛びそうだという意味がある。

 単純過去に時制を統一する近代小説は日本語で書かれる際に、文法上の制約により修正を余儀なくされる。日本近代文学は時制を過去形に統一することができない。現在形と過去形が混在する。前者は不完了形、後者は完了形のニュアンスを持つ。現在形は体的な見方、過去形は時勢的見方である。日本近代文学の文体はこのように理解される必要がある。

 1910年(明治43年)に発表された志賀直哉の『網走まで』にそれを典型的に表わしている次のような記述がある。

 男の子は不承々々うなづく。母は又それを出して子の手へ四粒ばかり、それをのせた。「もつと」と男の子が云ふ。母は更に二粒足した。

 日本語では体は概して強くない。日本の作家は、その代わりに、時制的な見方と体的な見方を時制によって区別して表現するようにしている。志賀直哉は母親の動作に対して過去形を用い、即物的に記し、子には現在形を使い、「不承々々」が示している通り、「動作を話し手や書き手がどう見えるか」が描写されている。過去形は時制的な見方、現在形は体的な見方を具現化している。

 近代ロシア小説はロシア貴族を父に、エチオピア貴族を母に持つアレクサンドル・セルゲイヴィチ・プーシキンによって始まる。近代ロシア語は、プーシキンによって、近代文学の用語として確立される。ロシアは17世紀までヨーロッパとの交流に乏しかったが、1682年に即位したピョートル大帝が行政組織から生活様式に至るまでヨーロッパ化を促進した結果、18世紀末にはヨーロッパでも有数の強国に成長している。その間に、文学は市民書体として確立し、ヨーロッパ式の書物の印刷が始まっている。

 さらに、ロシアはナポレオン戦争を通じて覚醒する。ロシア軍ではなく、冬将軍に敗退したナポレオン軍を追走して、パリに入った青年将校は資本主義化するヨーロッパの市民社会の現状に直面し、ロシアの後進性にショックを受ける。彼らは「12月党(デカプリスト)」を結成し、ツァーリズムの打倒、すなわち農奴制の廃止、議会政治の実現、憲法に基づく立憲制国家の樹立を掲げ、官僚による専制政治を強行するニコライ1世の即位に反対して、1825年12月、武装蜂起するが、一日で鎮圧されてしまう。プーシキンはこのデカプリストに共感している。

 当時のロシアの上流階級では、普段はフランス語を使い、召使と話す時に、ロシア語を用いるというのが常識である。ロシア語による小説の執筆は好ましくないと考えられている。プーシキンは、それに対し、ヨーロッパの言語と民衆の言葉、教会の古語を統合し、ロシア語による本格的な近代小説を提案する。彼は古典や同時代のヨーロッパ文学を巧みにロシア文学に置き換えている。ロシアの近代小説は国民国家体制ではなく、資本主義の勃興を背景に、ロシアの後進性をまず文化によって克服している。

 プーシキンが近代ロシア語を作ったとすれば、近代日本語の基礎は二葉亭が築いている。けれども、二葉亭は、『あひゞき』の両方の訳とも、人称代名詞を使っていない。人称代名詞の使用は身分制廃止に伴う資本主義化に不可欠である。近代化によって、地縁・血縁によって構成された「世間(Gemeinschaft: Community)」ではなく、「社会(Geselschaft: Society)」が到来しつつあるが、二葉亭にはまだ完全に浸透していない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?