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ハッチポッチチャンネル翻訳篇(3)(2023)

5 五七五と季語
「以上です。この後は日本で俳句集を出す話などが続くのですが、翻訳がテーマなので、後ろは割愛します」。
「全文を知りたい方は、『NHK・ニュース・ウクライナ・俳句』で検索すると、そのページがヒットすると思いますので、検索してみてください。いろいろ思うことはありますが、今回は翻訳がテーマなので、そこに絞っていきましょう」。
「確かに、ちょっと複雑ですね。日本語の俳句を他の言語に翻訳するって話なんてのはまあわかりやすいんですけど、これは外国語で俳句を作ってそれを日本語に翻訳するって話ですよね?」
「そうです。例えば、松尾芭蕉の俳句を英語に訳すっていうのは、翻訳者の裁量権だけで行けるんです。つまり、その俳句の意味を理解した上で、日本語の五七五を英語のリズムを生かして詩として訳せばいいんです」。
「まあそうですね」。
「でも、英語で俳句を作るとなると、日本語に依存している決まり事を英語と言う言語の特徴を生かしてそれに相当する約束を、俳句を理解する人たちの間で共有されないといけないわけです」。
「なるほど~。逆を考えてみればわかるよね。英語の約束事のある定型詩を日本語で新たに作るってなると、結構、骨が折れるよね」。
「そうなんです。しかも、英語だけでなく、フランス語やロシア語といった多言語間でコンセンサスを形成してるんです。その上で、このニュースでは、ロシア語で作った俳句を日本語に翻訳するんですよね」。
「そうなると?」
「そうなると、日本語と違う言語で作られてますから、日本語と違う言語的味わいがあると思うんですよね。それをこなれた日本語の俳句に訳してしまうのはどうなのかなって思うんです」。
「なるほど。考えてみれば、日本の近代文学の文体はもともとロシア語からの翻訳で生まれたわけですもんね。ツルゲーネフを訳した二葉亭四迷の『あひびき』。二葉亭は『浮雲』を言文一致体で書き始めたけど、あれは近代文学じゃないもんね。江戸の戯作を言文一致体に翻訳した感じで。しょうがないんで、途中から一旦ロシア語で書いてから言文一致体の日本語に翻訳したっていうんでしょう?」
「もし二葉亭四迷がロシア文学を江戸時代の言葉で訳したら、近代文学がそこから生まれることはなかった」。
「異言語で作った俳句は、日本語のそれにはないザラッとしたところがあるんじゃない?それって新しい俳句だよな。異言語で書かれた俳句が日本語の俳句に新鮮さを与えるように思えるけどね」。
「俳句と言うと、季語のある五七五の定型詩ですよね」。
「ないのが川柳。こっちは狂歌や現在の落語につながる流れなんだけどね」。
「日本語は三音や四音の単語が多いわけでしょ?だから、外来語は長いと三音や四音に短縮するでしょ?スマートフォンがスマホ、パーソナルコンピュータがパソコン。あれ、日本語は三音や四音の単語が多いから。だから、助詞がついたり、単語が組み合わさったりすると、五音や七音になる」。
「そのため、定型詩は一つの句を五や七にすることに落ち着いたんでしょうね」。
「だから、日本の定型詩は日本語に依存してるのよ」。
「英語だと、単語が長いと、頭文字で短縮する」。
「そうですね。その際、三文字まではアルファベット読み、三文字でもないことはないけど、四文字以上でアルファベットとしてでなく、単語として読むように思えますね」。
「『NASA』は『ナサ』だけど、『FBI』は『エフビーアイ』か。でも、『CIA』は母音が二つも入ってるのに、『シーアイエー』だよ?」
「三文字はだいたいアルファベットなんですけど、既存の単語と同じ場合は単語として読みますね。例えば、頭文字がT・A・Cの場合は『タック』とかね」。
「ウルトラマン・シリーズの科学特捜隊みたいな組織そうだったな」。
「話を戻しましょう」。
「この記事の外国語による俳句は五七五を『音節』で示すようになってますね。単純に言うと、母音の数が五七五であればいいってことですよね?」
「その部分を拡大して映しますね。

例えば、ウラジスラバさんが詠んだ句。
「地下壕に 紙飛行機や 子らの春」
英語では、
Children are playing
Flying their paper airplanes
In the bomb shelter.
この句を音節に分けると、
Chil/dren/ are/ play/ing(5)
Fly/ing/ their/ pa/per/ air/planes(7)
In/ the/ bomb/ shel/ter.(5)
必ずしも「季語」を含まなくても、季節を感じさせる言葉があればいいともされるほか、5-7-5でなくても、近い形で韻を踏んでいればよいとする人もいるということです。
ウクライナでは子どもたちに俳句を教えている学校もあるということで、世界でファンを増やしています。

「このルール、アラビア語だときつくない?”kataba”一つで母音三つあるでしょ?」
「アラビア語なら、別の決まり事が必要だと思うけどね」。
「訳してみる?」
「なんぼ出す?」
「あー、また金銭づくですか?」
「当たり前じゃないですか。仕事でやってるんですから」。
「あー、やっぱりカネなんだ!カネの亡者!あー嫌だ嫌だ!もうさ『馬喰一代記』の志村喬だもんね。『おらよ、ジェニっ子好ぎだおんや。ジェニっ子、ジェニっ子まんずいいおんど、なんぼあっても飽ぎねおんや』」。
「ま、欧米の言語による俳句の音節ルールは妥当だと思えますね」。
「季語の方のルールだけど、厳密な季語でなくても、季節を感じさせるものならいいって、そりゃそうでしょう」。
「四季は中東にもあるんですよ。ただ、3か月ごとに分けられるものではなくて、夏と冬が長くて春と秋が短いって感じで」。
「そうそう、黒澤明監督が『デルス・ウザーラ』をシベリアで撮影した時、秋のシーンを撮ったんだけど、フィルムが不良品でパーになった。それで撮り直そうとしたんだけど、秋が一週間くらいしかなくて、しょうがないから記念写真のショットで済ませたって」。
「天皇も天候には勝てません」。
「季語はさ、日本でもね、実際には怪しいものもあるよね。実感とずれててさ、なんでこれがこの季節なのと思うことがある。『五月雨』って『梅雨』のことでしょ、俳句では」。
「季語はもともと旧暦を前提にしているんだけど、近代日本は新暦を採用したんで、ズレてるものもあるんですよ。しかも、『ナイター』や『コレラ』とか近代に入ってから加わったものもあるんですよ」。
「『コレラ』って季語なの?」
「そう、晩夏」。
「市らなかったな~。じゃあ、『新型コロナ』は?」
「わかりませーん。だいたいこれって、結局、一年中だったじゃない」。
「季語を用いることで、俳句はそれがいつの出来事であるのか作者度読者の間で共通認識を形成しやすくなるよな。でも、すべての事象が自然と結びついて理解されるわけでもない。用いずとも創作と鑑賞の共通認識が構築できるんであればさ、季語にこだわる必要はないと思うよ」。
「宇宙ステーションで俳句を詠む時が来るかもしれないしね」。
「そう言えばさ、宇宙にイスラム教徒が要った時、メッカ時間に合わせて礼拝とかするんでしょ?」
「北極圏にいるイスラム教徒はそうしてますから、多分メッカ時間に合わせるでしょうね」。
「そういう時代だもんね」。
「季語についてもう一つ言うと、場合によっては季語を使うことでその事象があたかも自然現象のごとく取り扱ってしまう危うさもありますね。一例を挙げると、今回のように、戦争は台風と違って人間が引き起こす出来事ですよね。もっとも、その台風であっても、規模や発生数など地球温暖化による気候変動の影響が指摘されたりしてますけど。自然を季節の移り変わりとする暗黙の前提が必ずしも成り立たない状況もあるわけですよ。季語を無批判的に使用することは、社会の中の文学という認知行動が希薄だと言わざるを得ないですね」。
「ただまあ、日本語の定型詩は五や七の繰り返しなので、日常性のスナップショットに向いているんだよね。日常生活は繰り返しですから。日常性回復の希求として俳句が読まれるってことはわかるよね。3・11の時もそうだったし」。
「そうだったよね。実際、記事で紹介されているウクライナの俳句はそういう感じでしたね。戦争の真っただ中でこういう俳句を作ってるんだなあって伝わってくるものがあるよね」。
「ただね、戦争は日常性では枚から、その辺りを織り込んで描こうとすれば、五七五を崩す方法もあるよな。五や七で区切る必要はなくて、句またがりや語われを使ったりね。きれいに音として読めない俳句や自由俳句とカネ。写実の方が異文化の間では共感されやすいと思うけれど、そこを崩すとか」。
「あー、もうこんな時間!」
「アジャパー!」
「長いけど、カットできないね、今回は」。
「皆さん、チャンネル登録、高評価よろしくお願いしまーす!」
「図々しいけれど、皆さんよろしくお願いいたしまーす(苦笑)」。


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