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カフェ・ド・クリエで野生の犬になる

隠れ家的店のマスターほどチェーン店によく行く、という法則をご存知だろうか。
ここでいう隠れ家的な店、というのは”隠れ家風♪”とか”レトロな雰囲気”とか自分で言わないレベルの、いわゆるシブイ店である。
チェーン店ダメ!ゼッタイ!だった20代のころ、その事実は私を奈落の底へと落とし込んだ。

ありし日の深夜1時すぎ、わたしは大好きなバーの扉を開けた。
このお店は行くたびに好き!!と虚空に叫びたくなるぐらい素敵な店で、わたしは眠れない夜に度々ここを訪れては愛を満タンにチャージしていた。

看板はなく、小さな豆電球が灯っていたらOPENの合図、
耳に心地よく流れるレコードのジャズ、
使い込まれた雰囲気のカウンターはよく磨いてあり、
おっ来たね、と微笑むマスターは70歳か、もしかしたらもうちょっとお年を召している。ハンチング帽がこんなに似合う人を今まで見たことがない。ゆるりと着こなす麻素材のシャツ。ぽっぽっとパイプをふかしながら、わたしに自家製のコーヒーウイスキーをいれてくれる。

何から何まで気が利いていて、もう本当に大好きシブイと私はゾッコン惚れていた。

当時20代完全に青くイキっていたわたしは口を開く、
最近サークルの飲み会あったんですけど店予約してるよ!っつって和民ですよ、ありえなくないですか、あーもう笑笑だの養老乃瀧だの、昼だったらドトールだマクドだと芸がない、もっと自分の行きつけを探したりとか、そういうのしないんですかね、つまんなくないですか、などと鼻息荒く持論を展開し”通やねん私”感を撒き散らしていた。

「行きつけねえ…」

ほほえみをたたえ、パイプをすーと吸い込んだマスターは一言、こう言った。

「僕の行きつけは、カフェ・ド・クリエだよ」

CAFÉ de CRIÉ?

なんておしゃれな響きのお店なんだろう。
さぞかし素敵なお店なんだろう。
フランス人の店主が、なんかでっかい湯気のでる機械でコーヒー淹れるんだろうか。マスターはそこのカウンターでゆっくり会話を楽しみながら、小さい焼き菓子なんかをつまんで……

ん?

私は我に帰った。

「それって、チェーン店の…?」
「そうだよ」

カフェドクリエ。全国195店舗。コーヒー(R)260円。

私は愕然とした。

「そこの、二階のね、入って右側が僕の定位置。まぁ、結構座れないこともあるけど」
と笑うマスター。

暗黙の了解で「あ、その席は○○さんがいつも…」とキープされない席。
もちろんだよ、そんなもの存在しないよ、カフェ・ドクリエだもの皆平等だもの、容赦無く誰でも座っちゃうよ。

私はハア…と力なく返事をして、そのままこの話題はするりと流れた。

それから度々、
数ある素敵なお店のマスターが松家の牛丼をいつも帰りに食べてる、とか和民のえびマヨサラダは結構いけるとか、セブンのコーヒーをなめるなとかそういう話を耳にはしていたがスルーしてアンチチェーン店道を突き通し、

「小田さんってなんでこんなお店知ってるんですか?」
「すごい、こんなところにこんなお店あったんだ」

を最高の褒め言葉として生き続けて来た。
のだけど。
近頃、ふときづいた。
ここ最近の私の足はためらいもなく、カフェ・ド・クリエに向かっているのである。
マクド、ベローチェ、ドトール、サンマルクetc..もしかり。
飲み会なんかでも、
ま、ここでいっかとか言って鳥貴族や和民なんて余裕である。
20代のわたしが見たら悲鳴を挙げるであろう。

なんで!青山で!ここまできて!和民なわけ?!
もっとあるじゃん色々ほらそこの裏路地なんか!

と騒ぐ過去のわたしに現在のわたしはこういうだろう、

うるせえ店なんかどこだっていいんだよ店選びごときでアイデンティティを誇示しようとするな!

そうなのだ、
若りし頃のあの”個人経営の素敵なあんまり誰も知らない店”への異様なまでのこだわりは、
揺れっぱなしで確立しないアイデンティティを抱えもがいていた私を、
つかのまでも安心させてくれる魔法だったのである。
“こんな素敵なお店を知っているわたし”を糧にして、
わたしはなんとか何者でもない自分を補完しようとしていたのだろう。

あー
午後の柔らかな日差しの下、
住宅街のすみにひっそりと佇むカフェーのテラスで、シュワーっとした飲み物にトーストなんかをかじって読書を愉しむ……それが、休日の定番の過ごし方かな?
なんてそんなことを小首傾げていう、
そういうのが素敵な大人ってもんだと思っていた。

しかし現実のわたしはカフェ・ド・クリエで居眠り中のサラリーマンとサンドイッチぽろぽろこぼすばあちゃんに挟まれぬるいコーヒー片手にDr.GRIPシャカシャカ机を揺らしている。

ずっと背伸びしていただけで、
本当のところわたしは"こだわり抜いた素敵な空間"で、おとなしくゆったりすることができない性質なのだろう。
そのこだわった人の思念をなんとか受け取ろうとして、脳内のチャンネルをガチャガチャ回し疲れてしまうほど野暮な人間なのである。
さあどうぞ、存分におくつろぎくださいませとふかふかのソファーなんかに案内された日には、なんだかドッグランに放たれた犬のような気分になる。
ああ整備された芝生、他の犬なんかもキレーにトリミングされちゃって、ニコニコ飼い主がこっちを見ている……。

いまならなんとなく、
マスターがカフェ・ド・クリエに通っていた理由がわかる。

チェーン店は、ニュートラルな場所なのである。

個人の名前もあだ名も職業も何にもない、ただのコーヒー飲みにきた客その1として、誰になんの興味も示されないまま大量生産されたイスにもたれかかっているとき、
すーっとじぶんがまわりの空間と一体となり、
ひとつの風景になっていくような、
座禅くんでるときってこんなかんじなのかしらという瞬間が訪れる。
精神のギアがNに入って、なんの主義もないいち肉塊になれるのだ。

もちろん、わたしは今でも個人経営の素敵なお店は大好きだし、よく行く。
でも昔のようにアンチチェーン店主義を振りかざすのはもうやめた、
それはなんだかオーガニック至上主義や最近の音楽聞かないから俺主義に似た、なんだか窮屈なもののような気がする。
チェーンだって個人経営だっていいものはいいのだ、自分が好きならなんだっていいじゃない。

よっしゃ!となんてことない店でどうでもいいコーヒーを心ゆくまですすっているとき、
わたしは真に自由なのである。

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