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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<1>

「あんたが生まれる前の日はすごい大雨でね、雷が鳴ってた。けどあんたが生まれた日は晴れだった」

私は45年前の3月の末に、素性の知れない私生児の母と、チンピラまがいのことをしていた父の間に生まれたーーいわゆるデキ婚の子として。

私の一番古い記憶はトマトの絵が描いてある、染料で汚れた、父が勤めていた工場に置いてあった大きな缶。あれはまだ私が2歳の頃。母は私の手を引きアパートから徒歩5分の父のいる工場まで連れて行ってから隣の駅にあるスナックへ仕事に行っていた。仕事が終わる父を待つ間、じっと眺めていたのがそのトマトの缶だった。

トマトの缶のお姫様

あの頃は母は父のことを「貞夫ちゃん」と、父は母のことを「和代」と呼んでいたのを覚えている。まだ妹は生まれていなくて、その後家族4人で暮らすことになるアパートの2階に住んでいた。2階は風呂がない部屋で、記憶にないが3人で銭湯に行っていたのだろう。母がマジックペンで私の名前を書いたピンクレディーの写真が付いた子供用の風呂椅子は私が家を出るまで風呂場に置いてあった。6畳一間に小さな台所のある、古くて汚いアパート。そこで私は22歳まで暮らした。

当時の写真を見ると、部屋にはおもちゃがいっぱい。父がパチンコで取ってきた景品もあったようだが、貧しい家の子供にしてはかなりの数だ。ボロボロの畳の上で三輪車に乗った私。当時人気だったキャラクターのビニール人形、ブロック、大きなぬいぐるみ、電池で走る音楽が流れる車などが狭い部屋に散乱している。母と一緒に笛を吹いている写真もある。

襖には私のいたずら書き、家具には沢山のシール。写真を見ると段々それらが増えてくるーーこれがどういうことか分かるだけに悲しいのだ。親に「そんなことするな!」と怒られたならば落書きもシールも増えているわけがないからだ。きっと、好きにさせていたのだろう。

父が母に暴力をふるっていたのを既にあの頃の私は知っていた。バカ野郎、この野郎と叫ぶ父の声が私の耳の奥に残っている。バカ野郎という言葉の意味は分からなかったが「ばかやろう」と覚えたてのひらがなでおもちゃのラケットにクレヨンで書き、それを見た父に「なんだこれ。お前、変なこと書いちゃだめだよ」と言われたこともはっきりと覚えている。

それでも彼らなりに私を育てようとしていたのが分かるだけに思い出すと辛いのだ。母はなんと、私を身ごもって8か月経つまで妊娠に気づかなかったらしいのだが、父は一応責任を取ったのだろう、それまでまともに働かなかった人間が仕事を始めたのだ。以後、父は年に数度サボる程度できちんと仕事をしていた。よく「結婚したらまともになる」「子供が出来たらちゃんとする」などと言っていたにもかかわらず約束を果たさない男の話を見聞きするが、よりによってあの、私の父がその例外だとは......。

母がスナックに行かない日には毎晩、父の帰りをアパートの階段から母と二人で待っていた。
「あといくつ、車が通ったらお父さん帰ってくる?」と母の手を握りながら言った。

寒い寒い、クリスマスの日。母は私を台所に連れて行き、窓を開けた。冷たい風が入ってくる。
「あ、サンタさんが来たよ」と母が空を指さした。
母に手を繋がれたまま6畳の部屋に戻るときれいな包み紙に入ったプレゼントがちゃぶ台の上に置かれていた。
「うわぁ、ドラえもんのご本だ!」

お父さん、お母さん、あのドラえもんのご本やこえだちゃんの木のおうちやパンダのぬいぐるみ、どこに行ったんでしょうね......?

今は便利な時代で、私が生まれた日の天気だって簡単に調べることが出来るーー本当だ、私の生まれた日の前日の横浜は雨だった。

桜は前日の雨で散ってしまっていましたか、お母さん?