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雷雨の翌日にわたしは生まれた(仮)<38>


とうとう大橋に迷惑を掛けてしまった。前から掛けていたけれど。帰りのホームルームの後、掃除が終わったら話があると言われて、一体なんだろうか、いつもバカなことをしでかしても大橋は大目に見てくれていたのにと困惑した。いつもは掃除なんて適当にサボっていたが、不安で仕方なくてマジメに床を拭いた。そんなことしてもなにも意味がないのに。掃除が終わり、大橋がじゃぁ行こうかと連れてったのは1、2年生の頃にエロ村に幾度も呼び出された相談室じゃなく校長室の隣にある、なんの部屋かも書かれていない部屋だった。長机が4つくらい置かれた小さな会議室のような部屋。席に着くなり大橋が
「何でお前が今日呼ばれたか、大体分かってるか?」と訊くので全く心当たりがないわけではなかったが
「分かりません」と答えると
「単刀直入に訊くけど、近頃お前がナイフを持ち歩いてるって話が先生方の間であってな。それは本当なのか?そうなら今、ここで出しなさい」と言ったので驚いた。私は諦めて、バッグから缶ペンを取り出して、中に入れていた黄色のカッターナイフを出した。大橋は
「え、これ?これなのか?」とちょっと面食らった顔しながら言い、私が「はい」と答えると「そうか」と言った。なんだかよく分からなかったが、大橋の口ぶり、面持ちからすると私がブレザーのポケットにすごいナイフを仕込んでいるとでも考えていたのだと思う。
「最近、1年1組の中村とトラブルになったそうだな?」と続けた。トラブルなんていっても、私がガンを飛ばしたとかなんだのとか、非常に下らないことだったし、そもそも中村という子とは口も利いたことがないのになにをどう説明していいか分からずに黙っていたら
「中村の担任の伊藤先生から聞いたんだけども、中村はお前に脅されたって言ってるそうだぞ」と。私は驚き「え、いつ私が」と思わず口に出してしまった。中村って子とは話したこともないし、脅した覚えもないと本当のことを言った。大橋は神妙そうな表情で「ナイフで脅したりしてないか?」と。私は全く覚えがないことで疑われていることにさすがに腹が立って、脅していないです、カッターなんか見せてもいないし、第一、本当に中村って子とはクラブが一緒というだけで喋ったこともないと声を荒げると
「そうか、そうなんだな?」と言いながらノートに「ナイフで脅してない」と例の汚い字で書きつけていた。
私は混乱した。カッターなんて学校じゃ授業か作業以外で誰の前でも出してなどいなかった。自傷行為の傷だって必死に隠していたのに。誰かがデタラメを言いふらしているのかと思うとふざけるなという気分を通り越して死にたくなった。消えたくなった。誰も信じられないと思った。
そしてさらにびっくりしたことに大橋はこう続けた。
「あとな、言いにくいんだけども、はっきり言うぞ?お前には彼氏がいて、妊娠してるって話も生活指導の先生が耳にしてるんだが」
完全に私は訳が分からなくなって
「誰ですか、そんなこと言ってるのは?」と大橋に詰め寄ったけれど、それはちょっと言えないと濁されてますます不信感を募らせた。
そして、ナイフを持ち歩いているとか、下級生を脅したとか、妊娠とかそういうデタラメは噂になるのに、自傷行為はバレていないんだと思うと、何か悲しいような、ホッとしたような、その両方がぐちゃぐちゃになって苦しかった。本当は大橋に言いたかった。打ち明けたかった。中村とかいう子のことなんかより、学校のことなんかより、親から虐待を受けていること、家にいるのがたまらなく怖いのだと打ち明けたかった。けれど出来なかった。あれ以上迷惑を掛けたくはなかったし、自分の行いが恥ずかしくてたまらなかったから。大橋が私に怒らないのも、言い分をまるで疑ってないらしかったのも却って、妙に辛かった。怒り狂われたならば面と向かって反抗出来たのに。そんなの知らねぇよって。話が終わって
「お前の話はよく分かった。今日訊きたかったのはこれだけだ。このカッターは俺が預かっておくな。また話聞くかもしれないけど、そのときはまたな。気を付けて帰れよ」と悲しそうな顔をしながら見送ってくれたので涙が出そうになった。
ああ、新しいカッター買わなきゃなぁ。乏しい小遣いから300円を出すのは嫌だったが、仕方ない。自分が悪いんだもの、自分が......。もう悪いことは控えよう。もうすぐ高校受験なのだから少しでもマジメに授業を受けよう。
暗く冷え込む、晩秋の夕暮れの通学路。あちこちの家から、包丁をトントンとする音と、みそ汁の匂いがしていた。