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プラハの幻影

私の大好きなチェコの作家、ミラン・クンデラの訃報……
それを受けて以前に掲載した記事を加筆訂正して再掲載します。

チェコ生まれの作家、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」は私の好きな小説10選に入ります(初めて読んだ22歳の頃から不動の地位なので、多分死ぬまで変わらないと思います)。この小説及び小説をもとにした映画の解説や解釈などは出尽くしていると思いますので書きませんが(正直言うと書くのがかったるいのもあります。難解な小説は本来私の好みではないですし)。
まずなによりも特筆すべきは千野栄一氏の訳が素晴らしいこと!私は残念ながらチェコ語は読めませんので、原書と読み比べることは不可能ですが、洋魂洋才の結晶みたいなあの作品を見事なよどみのない日本語で訳すなんて、ただただ感嘆です(ちなみに英訳版も持っています)。以下、作品を読んだ方、観た方にしか分からないかも知れない内容かと思います。もし気になった方は是非手に取ってもらえれば......。

まず俗っぽい感想ですが、ヒロインのテレザみたいな女は私はどうしても好きになれません。控え目そうに見えてしたたかな、それでいて弱く、何か(往々にして恋愛)にすがらないと生きられないような女が。
私は登場人物の中ではサビナが断トツに好きなのですが、多分彼女を好きだという人は多いかと思います。ある時仏人の男性とチャットをしていたらこの小説の話になって、登場人物の中で誰が好きかと訊かれ
「もちろんサビナだ」と答えると
「俺も。だって彼女、とても自由じゃないか」と。

<自由>が重いか軽いか?というのはこの作品のテーマの1つでもあるのですがーー画家であるサビナは国を捨て、亡命先のスイスでフランクという愛人が出来、2人でヨーロッパ中を旅し、フランクが彼女と一緒になるために妻と別れようとすると彼の前から消え、やがてはアメリカにひとり移り住みます。彼女は生きたいようにしか生きられない女。彼女の生き方は本当に憧れます。真似しようと思っても出来ないですけど。

プレイボーイで有能な外科医のトマシュ(彼はサビナとは長年の自由恋愛のパートナーであり、彼を理解する唯一の人間)はひょんなことからテレザと結婚したけれども、プラハにソ連軍が侵攻したために、サビナを頼って2人でスイスへと亡命を試みるもテレザはトマシュの女癖の悪さや人生に対する態度に悩まされて1人でプラハに戻り(トマシュが追ってきてくれることを分かった上での行い)、トマシュは共産党を非難する投書をしたために当局から目をつけられて職を捨てることになり、窓拭き清掃人になったのち、2人はプラハから離れ農村で生活することになります。

「お前は帰るとこがない だからここにいる
俺は行くべきとこがない だからここにいる」

これは伝説的なパンクバンド、ザ・スターリンの「STOP GIRL」という曲の歌詞の一部です(作詞 遠藤ミチロウ)。
※法的に引用と認められる要件を満たしているかと思いますので著作権侵害には当たらないと判断し掲載していますが問題があればご指摘下さい。
どうでもいいですが(?)、スターリンという名のバンドの歌詞とソ連に侵攻されたプラハが舞台の小説......最高に皮肉が効いていませんかね?まぁ勝手に私が結び付けたんですけれども。

物語のはじめには「帰るとこがない」テレサ、「行くべきとこがない」トマシュでしたが、いつの間にかトマシュも「帰るところがなく」なっていきます。その対比と流れが実に見事に描かれています。共に「ここにいる」のに「ここ」にいる理由ーー「帰るとこがない」「行くべきとこがない」の違いの何たる大きなことでしょうか。

映画を先に観てから小説を読んだ方はトマシュとテレザの死をわずか3分の1ほど読んだところで知らされ面食らうかも知れません。小説の方ではパリにいるサビナに2人の死を知らせる手紙が届く場面があっさりと描かれていますが、映画の方では随分ドラマチックに描かれています。サビナはどこか、夕日が広々としている大地に沈んでいくところのアトリエで絵を描いていてーーそこがアメリカであろうことの推測は郵便配達人の言葉で確証に変わります。
「ヨーロッパから手紙です」。それを読み、呆然としながら親友2人の死を知らせる手紙だったことをアトリエの大家の老夫婦に伝えたときの彼らの優しさ……
「よければ夕食にいらっしゃい」この場面は涙を禁じえません。
「よければ」ってところがとても沁みます。

まぁ、しかし2人の死はなんだか羨ましいです。少なくともテレザは幸せだったでしょう。幾度も何人もの女と情事を繰り返して彼女を苦しませたトマシュがついに永遠に自分のものになったのですから。

以前私が開設していたHPがあるのですが、そのゲストブックに嬉しい書き込みを頂いたことがあります。偶然に私のHPを見つけたという方で、文章に引き込まれて隅々まで読んでいるうちに「映画の役を演じるならどの映画の誰がいいですか?」という質問に「存在の耐えられない軽さ」のサビナだと私が答えているのを見て、たまらなくなってつい書き込みをしてしまった、とのことでした。

ヘッダー画像は私がプラハに行ったときに撮ったものです。下の手書きの文字が書かれた青い板、写りが悪くてよく見えないかも知れませんがロシア語、キリル文字であることは分かりますでしょうか。ソ連が侵攻してきたとき、プラハの人々は通りの名を示す標識やらなにやらを全部取り払ったのです。ソ連軍に対するせめてもの抵抗として、彼らが容易に進んで入ってこれないようにと。けれどもそれは無残な結果になってしまいました。この看板こそがその痕跡、ロシア軍が書いた「スミショフ(プラハの地区名)はあちら」と示した板です。

映画は上手くまとまっていて、とても良いのですが(小説のあの独特な難解さも見られませんし)、やはり小説の方が私は好きです。テレザがどんな幼少期を過ごしたか、特に母親との異様とも言える関係性については映画では一切触れられていませんし、トマシュに子供がいるということも描かれていません。ああ、でもやはり映画もいいですね......。私は先に小説から入ったクチなのですが、手に取ったきっかけはミレニアム直前に振られたことです。振られた直後は何だか猛烈に書物を読み漁りたい気分になり、哲学や思想の本や重たいテーマの小説ばかり読んでいました。書店で見かけて、タイトルが気になってすぐにレジへと持って行ったのを覚えています。あれからもう24年............。

私は賞とかあまり関心がないのですが、ミラン・クンデラはその内ノーベル文学賞取るんじゃないかと思ってたんですよね。結局その予想は外れたわけですが。
久しぶりに『存在の耐えられない軽さ』を読み返そうかしら。プラハの石畳をゆっくりゆっくり歩いたように。