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エッセイ集『じたばたするもの』の「はじめに」(大阿久佳乃)


中学の後半くらいから本を読みはじめた、と思う。いわゆる文学作品を読むようになったのがその時点で、それまでぼんやりとしか感じなかった言葉の重さや、その不思議、美しさが意識されるようになった。はじめは日本のものが多かったと思う。日本の近現代詩を読んで、エッセイと戯曲も少し読んで、あまり小説は読んでいなかった。

シェイクスピアやギリシャ悲劇が覚えているかぎり最初の、大きな海外文学体験だ。不登校のとき、市立図書館で全集を読んだ。中学から高校の前半の海外文学は戯曲が中心で、のちにフランス詩に惹かれていった。日本の詩がその影響を大きく受けているからか、警句的、あるいはまとまりがよすぎる(と少なくとも当時は思われた)イギリスやドイツのものよりとっつきやすかった。アメリカ詩に目が向かなかったのはたぶん持っていたアンソロジーであまり取り上げられていなかったからだろう。そこからしばらくフランス詩とチェーホフ中心の時期があって、新型コロナウイルスがまだ得体の知れないものだったころ、京都の大学に通うため一人暮らしを始めた。

しばらくのちに、何がきっかけだったのか思い出せないがアメリカ文学に惹かれるようになった。それも今までとは違って小説を中心に。

アメリカ文学は、私が当時抱きはじめた「苛立ち」に応えてくれるものだった。外出自粛。未曽有の事態に直面し、社会の悪いところがどんどん露呈していくこと。はじめて地元以外の場所に住んだこと。一人で生活を始めたこと。部屋の狭さ。それらについて気軽に話せる相手もいないこと。つねに地団駄を踏みたいくらい苛々していた。しかしその苛立ちの輪郭―いや、苛立ちを抱えた自分の輪郭は妙にぼんやりしていた。あとからわかったことだが、それはあまりにも一人でいすぎたからだった。人と隔てられた時間が長すぎると、より一般的な、人々と過ごす中で感じる孤独とは異なった孤独に陥る。ぼんやり、のっぺりとした―孤独というより、生気の抜けた状態、という方が正しいかもしれない。

この苛立ちと生気のなさという一見相反したようなものを同時に抱え込んでいるとき、本はまるで暖簾に腕押し状態というか、読んでも読んだ気がしない。苛立ちは文字が頭に入るのを阻害し、やっと読めてもそこに描かれているのは一枚何かを隔てた世界のような気がして、みんな「あ、そう」で済ませられるものになった。そしてその「救ってくれなさ」はさらなる苛立ちにつながった。

でも夏のはじめ、何が最初だったかは忘れたがアメリカ文学にあたった。それは私のやり場のない苛立ちをかわしたり、やわらかく包み込んだり、寄り添って理解しているようなふりをしたりせず、私が「この野郎」と叫ぶまま、正面切ってぶつからせてくれた。それはぶつかったという感触、衝撃、痛み、そして自分に感覚があること、生の実感をもたらしてくれた。

そしてその後一度地元に帰り、再び一人暮らしをするようになった今に至るまで読み続けている。

なんでアメリカなのだろう、と改めて考えてみる。アメリカ文学のどの要素が先述の感覚を与えてくれたのだろう?

アメリカ文学は、じたばたしているものが多いと思う。私をもっとも引き寄せた要素はそれだ。では「じたばた」とは具体的にはどういうことか。

小説を例にする。まず主人公は問題に対処するというより抵抗している。かつ、その問題が具体性に欠けている。そしてその抵抗の戦いは内面的かつ一人で行われる。表面的には個人的だが、実際は普遍的な問いのもと成り立っている。主人公が対峙しているのは、世界そのものといっていい。彼らはその喚きを世界中に響かせようとしている。

例えば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン。彼は学校を退学処分になり、ニューヨークの街をうろつく。いろんな人に会ってはささいなところに目くじらを立てて嫌気がさす(妹のフィービーはさまざまなことに文句を言う彼に、「なんでもかんでも気に入らないのよ」と言う)。しかし彼が嫌になっているそれらは実は別々の問題ではなく、ひとつひとつそれ自体で解決されうるものではない。

言うなれば、ホールデンの苛立ちの対象は彼らがそのように存在しうる、その成り立ちのきっかけとなったシステムすべて―つまり世界の回り方だ。個別のものはその末梢的な表象だ。それらはそのシステムのもとで恩恵を享受しながら、同時に消費されながら生存している。あまりにも確固としたシステムになっているので人々は気づかないか、気づいても一人あるいは少人数の力では崩すことができないと知り、早々にあきらめてしまう。

不満を覚えるものは目の前にあるにはある。しかしその表面の奥深いところに遍在するものに対し抵抗しようとしている。けれど「現実の」問題は家族の中で、友人の中で、このニューヨークという限られた街の中で現れ彼はその内側でしかあがくことができない。

このように私の好きな小説の主人公に共通しているのは欺瞞やごまかし、半端な妥協に溢れているにもかかわらず平気な顔をして回り続ける世界への苛立ちを持っていることだ。苛立つのはそれが変わるのをどこかであきらめきれていないからだ。そしてこの間違った回り方をしている世界に馴染むまいとし、じたばたする。

二年前の夏、その「じたばた」が私の淀んだ生気を刺激したのだと思う。「じたばた」の感じは、小説よりも抽象的なことの多い詩でも現れる。抵抗が表立って出ていない詩も多い。ただ、概して感じられるのは、一人の自分と世界そのものを対等においていることだ。

もうひとつ重要なのは、「逃避」の要素だ。これはアメリカ文学のみならず、海外文学全般、ひいては創作されたものを読むときに現れる。

文学は現実を忘れたり、それから逃避したりするためのものではなく、それをよく見るためのものだ、というのは、私が本を「意識的に」読みはじめたときからつねに感じていることである。ゆえに長らくこの逃避という要素はあまり認めたくないものだった。しかしその要素はあまりにも大きく否定しがたい。このごろになってまた現実を忘れることと逃避することは必ずしも一致することではないのではないか、逃避と「よく見ること」は必ずしも相反するものではないのではないか、と思うようになった。

日常からの逃避。こことは違う風景。制度。食べ物。気候。これらを文章の中で体験し、現実の時間から抜け出る。しばらくのあいだ別の世界を楽しみ、しかしそれだけではなくその上で現実、目の前の事物を違った視点やより細かい視点から眺められるようになること。

あまりにも近い視点、近い風景、同じ制度のもとにいる人々ばかりを眺めていると息苦しさを覚える。コロナの中で、私は自分の考えの中だけでは酸素不足になって生きていけないということを知った。視界はなるべく広い場所まで広げられるべきだ。

遠いものが必要だ。それは今自分がいる場所の拒否ではない。広い世界の遠いところに、別の言語でじたばたしている人がいると知り、それが決して無意味な空しい試みではなく重要なものだと理解すること。そのことが、私が今ここにいる大地とその上に立つ脚を強くしてくれる。

二〇二二年二月四日


出典 大阿久佳乃『じたばたするもの』(サウダージ・ブックス、2023年)


著者プロフィール

大阿久佳乃(おおあく・よしの)

2000年、三重県鈴鹿市生まれ。文筆家。2017年より詩に関するフリーペーパー『詩ぃちゃん』(不定期)を発行。著書に『のどがかわいた』(岬書店)、『じたばたするもの』(サウダージ・ブックス)、月刊『パンの耳』1〜10号、『パイナップル・シューズ』1号など。https://twitter.com/YoshinoOaku


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