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第9話: 「砂の日」

【連載】新月前夜、窓、そして君の事。/ 文・イラスト: セキヒロタカ

「私がどんな気持ちで待っていたかわかる?ポストに入っていた合鍵を見て、どんな気持ちになったかわかる?」

「ごめん。もっと早く戻ってこようと思ってたんだよ。不安にさせたり心配させたりしたのは、本当に悪いと思う。ごめん。」

彼女は、俯いたまま左手で僕の右手の指先をぎゅっと握った。

「公園、行こうか。暖かいものでも飲みながら、少しお話しよう。」

彼女は握った僕の手を見ながらだまっていた。

僕たちは公園の入り口にある自動販売機でコーヒーを買い、手をつないだまま公園を横切ってベンチに腰掛け、暖かい缶コーヒーを分け合った。日は少し長くなり、公園では花も少し咲き始めていた。
僕たちは、ベンチに腰掛けたまま、野良猫の毛並みの差や公園の木の枝ぶりについて、ぽつぽつと話をした。
僕は前田から聞いたことを話さなかったし彼女も訊かなかった。多分、二人ともそんなことを話すのは何か違うような気がしていたのだと思う。

僕はずっとくだらない冗談を言っていた。

「あなたって、そういうこと言わない感じなのにね。そういうくだらないところも好きよ。」

彼女は少し笑って、いつものようにそろえた膝に手を当て、ちょっと立てたつま先を見ながらそう言った。
僕は暮れてきた空を見上げた。
さっきまで真っ青だった空は濃い群青になり、少し筋雲が掛かっていた。

  ・・・

公園から戻った僕たちは夕食も取らず、お互いの中にできた大きな空洞を埋めるようにセックスした。お互いを食べ尽くすように。

途中、オートロックのインターホンが一度鳴った。
彼女は、小さな声で「やめないで」と言って、僕の両頬を引き寄せて深いキスをした。

彼女は何度も達し、僕も果てた。

  ・・・

僕は彼女に今日前田から聞いたことをゆっくりと話した。
すでにあのビルの周りは当局から監視されていること、彼女が見たビルから運び出されたダンボール箱は SPring-8 へ運ばれた後、理研の和光本所に送られたこと。

僕が話し終わっても、彼女は僕の胸に顔を付けたままでじっとしていた。
しばらくして、少しずつ今日あったことを話してくれた。

「“あの”部屋にいた人たちは私たちからは感じられないところに行ってしまったと思うの。もうこの世界にはいない。この世界のどこにもいないの。」

彼女はそう言って、僕のうなじに鼻先を軽く当てた。
それは嗅覚で僕との記憶を固定しようとしているように思えた。
彼女は話を続けるのを少しためらっているようだった。

「今日、お昼前に部屋に帰ったらあなたがいなかったから部屋で待っていたのね。でも、なかなか帰ってこないので、きっとあのビルのところに行ったんだ、と思って自転車でビルのところに行ったの。今日もやっぱりあの“変な感じ”はしなかったわ。少しビルを見上げていたら、視線を感じたの。外国人の男の人と多分日本人の男の人がこちらをじっと見てた。私、少し怖くなって急ぎの用事があるフリをして自転車で急いで帰ってきたの。」

彼女はそういってから、僕のうなじから顔を離した。
やはり、当局の監視が厳しくなっているようだった。彼女もマークされかねない、と僕は心配になった。

「職場が近いから難しいだろうけど、もうあのビルに近づくのはやめた方がいいよ。君が危ない目に遭うのは耐えられないよ。」

「うん。わかったよ。」

彼女はそう言って僕の胸元に顔を戻し、それから、身体を少し起こして首の後ろに手を回してネックレスを外した。僕は彼女がそのネックレスを外したのを初めて見た。そのシルバーのトップの付いたネックレス (正確に言うとペンダント、だ) はいつも彼女の胸元にあった。シャワーのときも、眠るときも。僕と抱き合うときも僕と彼女の間にネックレスがあった。だからそれは僕にとってずっと彼女の一部であったし、僕らの“一員”だった。
彼女はまたゆっくりと身体を僕の方に倒し、僕の首に優しく手を回してネックレスを着けた。それから彼女は僕の右の頬に唇を静かに付け、目を閉じてしばらくそのままにしていた。その間、彼女の柔らかな乳房がずっと僕の腕に触れていた。彼女は目を開けると、「そのネックレス、あげる。いつか、そのネックレスがあなたに必要になるときが来ると思うから。」と言った。

僕には彼女の言っている意味が分かった。彼女には見えるのだ。
そのとき僕は身体の中の心がある場所をはっきりと知覚した。その場所が強く締め付けられて湧き出た感情が僕の身体をいっぱいにした。僕は彼女を両腕で抱きしめた。僕の中からこぼれた感情は海岸の砂のようにサラサラと彼女の頬の上を流れた。

「あなたは大丈夫よ。」

彼女はそう言った。

  ・・・

僕は夢を見ていた。

僕たちは砂の惑星にいた。
砂でできた部屋に住み、砂色のベッドで寝ていた。
世界はすべて砂色の濃淡でできていた。

「次の新月の夜は、砂の日ね。」

と彼女は言った。

(つづく)

BICYCLE-[更新済み]


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