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第6話: 「耳たぶ」

【連載】新月前夜、窓、そして君の事。/ 文・イラスト: セキヒロタカ 
 
僕らはまた自転車を押して、線路と反対側の道を渡ったところにあるスーパーマーケットにおでんの具を買出しに行った。

「暖めるだけのおでんパックでいいんじゃない?」という僕の提案はあっけなく彼女に却下され、厚揚げやちくわ麩、がんもどきといった具材と、ピノ・ノワールのミディアム・ボディの手頃なワインを買って、彼女の部屋に行った。

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部屋はマンションの上層階にあった。バルコニーからはさっき僕らがいた公園が見えた。

僕がバルコニーからの景色を眺めている間に、彼女は手際よくおでんの支度をし、ロー・テーブルにランチョン・マットを敷いて食卓をしつらえた。僕は彼女から渡されたワイン・オープナーでコルクを抜き、グラスに注いだ。

「おでん委員会に乾杯。」

テーブルの上のおでん鍋を突付きながら他愛のない話をしていた僕たちだったが、やはり最後は「あの」部屋の話になった。

「あのビルの壁面工事の始まった日を境に「変な感じ」がなくなった、と言ったけど、正確に言うとちょっと違うの。」

彼女はそう言って、続けた。

「あの日は、私は掃除当番で早出だったので、いつもより早くここを出て、会社に行ったのね。」

彼女は少し下を向いて、おでん鍋の乗っているロー・テーブルの一角をじっと見つめた。

「あの線路沿いの道を歩いていると、とても胸騒ぎがしたの。私、そういうことよくあるのよ。そういうときはきまって何かある。だから、私は少し気を付けていたわ。すると、救急車がサイレンを鳴らしながら横を通り抜けていった。予感がしたので早歩きで向かったの。」

「どこに?」僕が言うと、ちょっと驚いた顔になって彼女は言った。

「もちろん「あの」ビルよ。予感がしたとおりだったわ。「あの」ビルの前に救急車が停まってた。少し時間に余裕があったので、しばらくそこで見てたの。でも、5分位して救急車は誰も乗せずに、サイレンも鳴らさずに行ってしまったの。」

僕は何も言わずに彼女の顔を見ていた。彼女はそれに促されるように、続きを話し始めた。

「それから私は会社に行って、あ、そう、言ってなかったけど、私の会社の事務所はあの店舗の上の階にあるのね、そこのロッカールームに荷物を置いて制服に着替えて、掃除をしに店舗に降りたの。店舗からは高架の下の通る道越しにビルの入り口がちょうど見えるのよ。掃除をしながらビルの前を見ると、今度はパトカーと地味なワゴンが停まってた。気になって仕方なかったので、掃除は後から超特急でやることにしてしばらく見ていたら、1人の男の人がダンボールを重そうに抱えてビルから出てきて、その箱をワゴンに積んで、パトカーと一緒にどこかに行ったの。そのすぐ後、とてもたくさんの工事車両が来たのね。あんな狭い道だからほとんど道路封鎖状態よ。たくさんの作業員の人も来て、あっという間に足場を組んで行ったわ。」

彼女は一気にそこまで話すと、ふぅと息をした。

「それから、「変な感じ」がしなくなった、ってことだね?」

と僕が言うと、彼女は「そう」と短く答えた。

「あの「変な感じ」が救急車やパトカーと関係があるかどうかはわからないけど、ただ、それを境に「変な感じ」はしなくなったの。消えてなくなるみたいに。」

「でも、不思議だな。」僕はそう言って続けた。

「僕もあの日のことが気になって、新聞記事とか警察発表とか色々調べたんだけど、「あの」ビルに関係するような記事や発表は一切なかったんだよ。ひょっとしたら何らかの公安事案だったのかもしれないね。もう少し調べてみる。きっとなにかあるはずだよね。だって、実際に警察が動いているんだから。」

僕はそこまで言ってから、グラスに少しだけ残っていたワインを最後まで飲んだ。

「ごめん、遅くなっちゃったね。帰らなきゃ。君は明日は仕事だよね。」

僕がそういうと、彼女は「明日はお休みなの」と言った。

「こんな遅いし、寒いし、今から自転車は危ないわ。それに、」

彼女は言葉を切って、僕の顔、正確に言うと目の下あたり、をしばらくじっと見つめてから、「耳たぶ。」と言った。

「耳たぶ?」

「うん。耳たぶ。触ってもいい?・・・ですか?」

「うん、いいけど。どうして?」

「これね、ある種の契約なの。」

そう言って彼女は人差し指と中指と親指で僕の耳たぶをそっと挟んだ。

(つづく)


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