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第13話: 「声」

【連載】新月前夜、窓、そして君の事。/ 文・イラスト: セキヒロタカ

気付くと、いつの間にか夏も終わろうとしていた。

僕は半年の間、毎日彼女と繋がる糸の端を探し続けた。新たに入ってくる仕事はすべて断った。とても仕事ができる精神状態ではなかったから、受けてもできなかっただろう。

  ・・・

夏の湿度を含んだ空気が、秋の乾いた空気に入れ替わったころ、例の SPring-8 に送られた検体の件で米 DHS のテロ対が日本に入り警視庁公安部の NBC テロ対応専門部隊と連携していたという噂が聞こえてきた。前田が手を引くのも理解できた。予防検束まがいのこともあり得る、と考えたのだろう。

僕は、彼女がいなくなる前日に「あの」ビルの前で「外国人と日本人と思われる二人組から見られていた」と言っていたことを思い出した。彼女は、あのビルの様子を毎日(日によっては何度も)観察しに行ってくれていたから彼らにとっては明らかに不審人物だ。

予想されていたことだが、すでに彼女は自己都合で退職したことになっていた。彼女の職場に実家の連絡先を訊いたが、もちろん答えてくれるはずもなかった。
前田の推測が正しければ、僕一人でなんとかできる問題ではなかった。

  ・・・

そして、彼女が居なくなって2度目の冬が来た。

彼女と時間を共有していた季節。

彼女と最初におでんを食べた曜日には、僕は必ず、テーブルの上にポトスの鉢を置いて、おでんを作り、ピノノワール種のワインを買い、一人で飲んだ。

ある日、僕の部屋のオートロックのインターホンが鳴った。
インターホンのカメラの向こうには、特徴のないビジネススーツを着た、特徴のない顔立ちの三十歳前後の男がいた。その男は、僕の名前を知っていた。
僕はとても警戒していたが、その男は自分の名前を名乗り、彼女の弟だと言い、姉からの預かり物を持ってきた、と言った。
僕は驚き、オートロックを開け、彼を玄関まで招き入れた。

彼女からの預かり物とは、僕宛の手紙だった。
手紙には、「一緒に朝ご飯食べられなくてごめんなさい。あなたとまた一緒に朝ご飯を食べたかった」と書かれていた。
間違いなく彼女の筆跡だった。僕は毎日彼女の2通の置手紙を読んでいるから、間違えるはずもなかった。

「この手紙は、姉から生前、あなたに渡して欲しいと、預かったものです。」

と彼女の弟は言った。

精神を患った末の自殺死だった。
訊きたいことが山ほどあったが、感情が溢れてきてとてもそんな精神状態ではなかった。あの時に何か話したなら、多分発狂していただろう。

彼女の弟が帰って、一人になった僕は、声を上げて泣いた。
声を抑えようと思ったが、無理だった。
僕はベッドにもぐりこみ、枕を口に押し付けて、大声で泣いた。

  ・・・

そして、僕は、うつになった。

それは中途覚醒から始まり、そのうち、平衡感覚が保てなくなった。三半規管から入ってくる膨大な情報量に、うつで傷んだ脳が耐えられなくなったのだ。
次に、テレビなどの動く情報を受け入れることができなくなり、音楽も聴けなくなった。観たり聴いたりするだけで、脳が処理できずにパンクして、頭がぐらぐらし吐き気がするようになった。
わけもなく一人で突然号泣してしまうことがあり、外出はほぼ不可能になった。階段の上り下りでさえ安全に遂行できなかったので、いずれにせよ外出は難しかった。

知人の精神科医から、すぐに専門医に見せた方が良い、僕でも良いができれば個人的な知り合いじゃない方が良いだろう、と言われ、彼と留学先が同じで信用できる精神科医を紹介してもらった。
比較的有効性が高いと言われていた SSRI と SNRI を何種類も試し、承認されたばかりの NaSSA も試した。前世代の三環系、四環系の抗うつ剤も試した。しかし、どれも焦燥感を高めたりするばかりで何の効果もなかった。

僕は毎日、朝早く、というより夜中に目を覚ました。
意識がはっきりすると、とにかく自分の真中あたりがものすごい力で締め付けられるように強烈に痛んだ。肉体の苦痛とまったく同様に、精神の苦痛も「痛覚刺激」を伴うということを初めて知った。僕はその痛覚を麻痺させ、苦痛を和らげるため、毎日大量の安定剤を飲んだ。そして、一日をぼんやりと過ごし、夜、ベッドに入ってから意識を失う程度の量の眠剤を飲むこと以外、毎日ほとんど何もせずに過ごした。

体重は激減し、預金口座の残高は確実に減って行った。
 
あまりの苦痛に(実際に「痛む」のだ)、僕はそれから解放される一番簡単な方法を選ぶことにした。ホームセンターに行ってロープを買い、枝ぶりの良い木を探しに長い距離をふらふらと歩いて(車を運転できる状態ではなかったから歩くしかなかったのだ)山に入った。

僕は夜の山の中をふらふらと歩きまわり、疲れたら木の根元に座って、森の声を聴いた。

夜中の森の中では、自分の体と森との境目がとても曖昧になる感じがする。いや、実際に曖昧になるのかもしれない。僕は月明かりの中、目を凝らして、森との境目が曖昧になった僕の両手を眺めた。その行為自体、特に意味を持つものではなかったが、僕はそうしながら、僕の意思に付随して動くものがこの世にあることの不思議さを考えていた。

一晩中、森の声は止まなかった。その声は、限りなく透明でおぞましい声だったが、僕は恐怖を感じなかった。恐怖とは自分から何かを奪われることに対する感情だが、僕には奪われて困るものは残念ながらなかった。

僕はその声を聞きながら目を閉じた。

そして、僕はまた“砂の日”の夢を見た。

  ・・・

砂の惑星に住む僕たちは“砂の日”にその街に出かけることになった。

途中の街で、僕たちはコーヒーショップに入って、アイスのブレンドとラテのショートサイズを注文し、いつものように、通りに面した窓際のバーに並んで座った。

「あなたは“砂の日”が嫌い、って言っていたけど、」

彼女はそう言って、アイスラテの氷をストローでぐるぐるとかき混ぜた。

「私はそれほど嫌いじゃないわ。」

「『分かるよ』なんて軽々しく言えないけど、分かる気がする。“砂の日”なんかにあの街に行くなんて、誰とでもできるものじゃない。でも、僕たちは二人でこうして“砂の日”にあの街に行こうとしている。そういうことだよね。」

僕も、彼女と同じように氷をかき混ぜながら言った。

彼女は、ラテのストローを手に持ったまま、猫がそうするように、僕を見たまま黙っていた。僕たちはお互いに何か言おうとしたけど、結局あきらめて、窓の外のアンバーグレーにかすんだ空を眺めることにした。

僕の左手の小指に何かが触れた。見ると、彼女が人差し指を僕の小指の上に乗せていた。

「幸せというのとは違うけど、」

彼女は、僕の左手を見つめて言った。

「あなたといられて良かったと思う。」

僕は「僕もだよ」と言おうとしたけどやめた。そんなことはとっくに君は知っているだろうから。

外では相変わらず強い風が吹き、世界は砂の色の濃淡だけで構成されていた。

僕たちは、砂の惑星の知らない街のコーヒー屋の窓際で、人差し指と小指でつながっていた。

  ・・・
 
 
彼女がいなくなる前の夜に見た夢の続きだった。
目が覚めても、まだ森は暗かった。

僕は彼女がくれたシルバーのペンダントのトップを壊れやすいものを扱うように握っていることに気付いた。
手のひらをそっと開くと、シルバーのトップが淡い緑色に光った気がした。森の木の間から差し込んでくる仄かな月明かりが反射したのかもしれない。ただ、僕にはそれ自身が光を放っているように見えた。
僕は、精神の痛覚刺激が少し和らいでいることに気付いた。
そのシルバーのトップは、まだその時ではないよ、という彼女からのメッセージを送っているようにも感じられた。

ぼんやりしているうちに、空の色が急に変わった。森の夜は唐突に終わり、朝がやってきた。
もう、森の声は聞こえなかった。

僕は、山を下り、ふらふらと来た道を歩いて、部屋に戻った。

  ・・・

部屋に戻った僕は、彼女の部屋から持って帰ってきたポトスの鉢を落とさないように大事に抱えて、ベッドに腰掛けた。僕は目を閉じてポトスの鉢を両手で包み、そこにかすかに残っている彼女の体温を感じ取ろうとしていた。

彼女がくれたペンダントのトップがポトスの鉢に触れて「チン」と鳴った。
彼女のからっぽの部屋で、この鉢を手のひらで包んでいたときのように。

その時、朦朧とした頭の中で、ずっとモヤモヤしていた二つの情報が繋がった。

僕は二重になっている鉢の内側の鉢を静かに外側の鉢から抜いた。

(つづく)

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