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アイデンティティを考える

結婚について考える上で切り離せない問題が氏名変更です。

夫婦別姓

男女間にも、年代にも関係なくそれぞれの主義主張があり、進展しない問題の一つにもなっています。

夫婦別姓、賛成派の主な意見としては、名乗る氏名を変えたくないというものでしょう。

そして、反対派は同じ名前を名乗る覚悟をしてこそ結婚であり、その覚悟と責任のないまま結婚をすること自体おかしいし、社会生活においては旧姓も使えるのだから問題ないではないかと。

この論点だけを聞いていると一見、賛成派のわがままのようにも聞こえてきます。


旧姓を名乗れる今の社会の中で、何を他に望むのかと。
そして、結婚を甘く見ているのではないかと。


でも、本当にそうでしょうか。


日本の文化において、
協調性同族意識一体感は良い部分として機能する一方、
出る杭は打たれる、多様性の欠如といった、現代社会、国際社会での課題点に繋がっている部分があります。


結婚も日本では一体感を感じてこその幸せを求められているような気がしています。


では、私たちの”アイデンティティ”は誰が守るのでしょうか。



そんな“アイデンティティ”について今回は私の考えを話してみようと思います。


このアイデンティティの問題がSNS問題や夫婦別姓問題に繋がっていったので長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。


アイデンティティとは

私が、“アイデンティティ”について初めて意識をするようになったのは小学生のときでした。


国語の授業で論説文を読んでいたときです。


遠い記憶なのでなんの書籍からの引用なのか、正確な内容などについては忘れてしまいましたが、その論説文では


「日本家屋はプライバシーがなく、例え襖などで区切られていても鍵もなければ薄くて声も聞こえてしまうような作りになっている。

一方海外の家屋はプライバシーの確保が可能な作りで音も漏れにくい。一つの空間の共有はストレスを伴うものという認識がある」
というような内容が書かれていたと思います。


最初読んだとき、正直意味がわかりませんでした。


小学生で日本の文化しか知らない当時の私は、日本の家屋の作りはプライバシーがないと言われても、

「そうなの?襖だってドアだって仕切りがあるんだからプライバシーもあるんじゃない?」

としか思えなかったのです。


ただ、大きくなるにつれ分かったのは、同じ家に気配を感じることができるということは反対にプライバシーも確保はされていないに等しいという主張だったんだということでした。


仕切りを挟んで着替えも睡眠も全て行うと考えたとき、その瞬間をどれだけ共有するのかということです。


信頼をしていなければできないし、信頼をしている相手でも他人ならば落ち着かない場合もあります。



そして音や気配で他の人の生活音がする、日本の家屋の作りはプライバシーが確保されていない空間なのだと…。


論説文という形で、問題文として引用された一部の主張しか読んでいないため、全体のまとめはわからないのですが、当時の私にプライバシーの概念とアイデンティティについて考えさせるのには、十分衝撃的な文章でした。


なぜなら、私の家では洋式で鍵付きのドアがあるにもかかわらず、開けて過ごすのが普通だったからです。


マンションのワンフロアに住む私たち家族はお風呂とトイレ以外、部屋には分かれていますが、一つの空間を共有しているのです。


本来、このプライバシーを大切にした中で育つのが“アイデンティティ”。“個性”です。


大人になって思い返すと、この文章を読んでから日本人に個性がないと言われる所以がわかるようになった気がします。



“協調性”があり、“みんな同じ”でないと空間を共有できませんから。


時が経ち、今この現代において多様性を主張し、認め合う世の中を実現することが求められています。


私もそれはとても大切なことだと思います。


そしてその為にも、私たち日本人はアイデンティティの概念を考え直す必要があるのかもしれないと思うようになりました。


そのきっかけは冒頭に話した夫婦別姓の問題です。


私たち日本人において一体感をもって同族意識を感じることのできる存在はとても安心できるものです。


それは、いわば襖一枚のしきりさえあれば生活を共にできる関係性ということ。


その存在がいることこそ幸せという
日本ならではの価値観です。


でもそれは現代社会において共通の幸せなのでしょうか。


現代では別居婚を始め、様々な夫婦のカタチがあります。


それは夫婦にとってのアイデンティティを守る為の工夫なのだと思えば、私たち他者は否定をできません。


夫婦別姓も同様です。


確かに社会生活の中で旧姓を使える場面や場所は増えています。
ですが、それはあくまで使用する名前に関しての話。


この問題はどの苗字を使用するかではないのです。


どの苗字を”名乗るのか”



これはアイデンティティの問題であるように思います。


そして、アイデンティティを作るプライバシー。
この環境も今や昔とは状況が異なっているのです。



SNS問題

ネット社会でSNSが広がる今、プライバシーを簡単に覗ける社会になっています。


それは、しきりの向こうに世界中の大勢の人が一緒に生活をしているようなもの。


だからこそ、私たちは“心の中に” 襖ではなく鍵付きのドアが必要なのかもしれない。
と思うのです。


それは、簡単に開け閉めすることができる上に必要に応じて相手を締め出すことも可能です。


アカウントに鍵をつけるなんてそんな物理的な話ではありません。


自分とは考えの異なる相手、自分とは価値観の違う人、間違ったことをしている人。


色々な人が望まなくても見えてしまうこの世の中では、私たちは襖のしきりではストレスを強く感じてしまいます。

だからこそ、その人たちを自分のテリトリーから追い出したくなって攻撃的になっているのだろうなと…。

でも、それは鍵付きのドアのように自分から意識的に締め出すようにすれば追い出さずとも共存は可能だと思うのです。
(犯罪者はもちろん別ですが)


つまり、必要なのは攻撃することではなく自分自身が自分のテリトリーを確保し、意思や考えを確立すること。


攻撃することではないと思うのです。

心のドアを襖から鍵付きの木製ドアにアップデートしなければ私たちは国際社会のなかで生きていけないのかもしれない。



独自の文化を築いているからこそ大切にしたいものがある一方で、古いものではうまくいかないものもあります。

自分のプライバシーを守ることに加え、相手のプライバシーを確保することは最終的にアイデンティティを育てることに繋がり、多様性溢れる世界になると思います。

それは、一見寂しい表現に聞こえるかもしれません。
日本家屋より、洋式の住居に全員が住み替えるというような感覚にも近いのかもしれません。

ただ、住み替えなくとも洋式の住居を知り、理解を示すことはできると思います。

「日本の価値観が絶対」という感覚だけでは、もう生きにくい世の中だなと。



そしてその思考や価値観は
目に見えない“当たり前”と考えられているものにほど存在しているんですよね。

夫婦別姓問題

アイデンティティについて話してきましたが、最後に夫婦別姓の問題についても考えてみたいと思います。


日本では夫婦別姓を希望する場合、事実婚という形を取らなければいけません。

しかし、事実婚では現在、“正式な” 家族として認められず収入や保険問題から入院したときの手続きなどにおいて支障が出てきてしまうという問題があります。

だからこそ、夫婦別姓を希望するカップルも最終的にはどちらかの苗字を名乗るという結果に落ち着くということが多くなっています。

私も今、婚約している相手がいます。
そしてこの名前についても話し合っている段階です。


可能であるなら夫婦別姓がいい。だけど、今の段階では無理、なら話し合うしかないというところです。

先日、会議さながら、Excelを開いてお互いの苗字にしたときのメリットデメリット、気持ちや考えを洗い出す作業を二人でしてみました。

すると最終的に出た重要ポイントは
・職場で旧姓を使えるか否か
・世間体
そして“アイデンティティ”でした。

職場で旧姓を使える職場は増えてきていますが、都合上使えない職場もあります。
私もその一人。



「職場で旧姓を使えるならいいじゃないか」の主張を通すなら、私たちの場合彼が私の苗字にすることになります。



ただ一方で、やはり妻の苗字を名乗る例が周りに少ない今、私たちは心のどこかで世間体が気になってしまっているのも正直なところ。

(ちなみに幸いにもお互い、親は特に反対はしていません。)



そして最後に葛藤している点として共通で出たのは、何よりアイデンティティでした。


彼も私も自分の苗字への愛着があります。

たかが名前と思うかもしれません。


相手の名前を名乗ることで結婚した実感を得ることもあるのかもしれません。


ですが、それは最初に話した日本的な一体感ゆえの価値観であると思うのです。

私たちは自分達の苗字にそれぞれ思い入れがあり、名前にもアイデンティティを感じているからこそ、
お互い、相手に名前を変更してもらうことに申し訳なさを感じています。

(たかが名前と言うなら変えなくても別に名前は何でもいいんじゃないのかな?なんて思ったりもしてしまいますが、、)


最後に

私が夫婦別姓について考えるようになったのは周りに数人、外国籍を持つ友人がいること、そして国際結婚をした知人の話を聞いたことが影響しています。

日本は今、特定のものや人、事柄に対して「認める」という作業を頑張っています。

多様性を受け入れるというけれど、一つひとつ「これは認める対象なのね」と認識している段階なのだと思うのです。

ただ、それって外国籍だから認めるの?国際結婚だから特例?

ネット社会が広がり、国際化の進んでいる今、追いつかないほどの多くの考えが日本にも入ってきています。

もちろん全てをいきなり認めるなんて難しい話…


だけどその全てを “受け入れる” ことはできると思うのです。

だから、「意味わからない」と
「社会生活で使えるんだから必要ないじゃないか」と切り捨てられるのはやはり悲しく思うのです。

そして今後の社会で多様性を心理的に受け入れるにはアイデンティティを考える必要があります。

私は今回、夫婦別姓の制度について主張をしたいわけではありません。
ですが、こんな考え方もあるんだなということを知っていただけたら嬉しく思います。



この“アイデンティティ”の問題は全ての問題に繋がっていると思うからこそ、改めて考えるきっかけになっていただけたら嬉しいと思い、おこがましいと思いつつ、勇気を出して記事をあげました。


そして最後に “アイデンティティ” を大切にする

ということは

自立した1人の人間である自分を大切にする

ということ。

私はいつも自分を大切にしたいと言っていますが、このような考え方にも繋がっているのかもしれません。


自分を大切にできれば、より他人を大切にできます。


他人にも自分と同じように大切にしているアイデンティティがあるということを知っているから。


夫婦別姓問題から壮大すぎるテーマになってしまい、私自身、戸惑っています…。


ただ、尊敬と尊重、愛の溢れる世の中になればいいなあと思うのです。


長い文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


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