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【トークイベント告知!】「創作と生活」●日時:3月19日(日)16:00~18:00

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障害者支援施設、友愛学園の展覧会

「+×もしくは-÷」

https://plus.yuaigakuen.or.jp/topics/914/
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【会場1】Dining&Gallery繭蔵2階 
日時:2023年3月11日~21日11:00~17:00
(13日休廊・19日15時まで)
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【会場2】SAKURAファクトリーNORTH SIDE
日時:2023年3月18日~21日11:00~17:00
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この展覧会内のトークイベントに参加させていただきます。


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●タイトル:

「創作と生活」


●日時:3月19日(日)16:00~18:00
●会場:SAKURAファクトリーNORTH SIDE
●定員:30名
(※事前予約制・ホームページの「お問い合わせ」からご応募ください。)
●登壇:
〇小林瑞恵(愛成会副理事・アートディレクター・キュレーター)
〇佐塚真啓

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今回のトークに際して事前に色々とお話をお聞きし、
以下のような事を考えました。
トークでどのような事をどこまで話せるのかわからないのですが、
美術や作品、作家にとってとても本質的な問いを多く含んだ話になると思います。
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自発的に選択をする事が難しい方に、
支援員が手助けしながら生まれてくる作品。
その作品は、誰の作品なのか?
例えば、紙に真っすぐな線を沢山描く事が好きなAさんがいて、
それを見たBさんが、白い紙より、赤い紙にAさんが線を描いたら、
きっともっと素敵な作品になるんじゃないか、
そう思ってAさんに提案してみる。
通常であれば、Bさんの提案に対して、
Aさんの、「受け入れる/受け入れない」の判断があるのだが、
その判断が成されたか成されなかったのかBさんにはわからない。
そんな状態で、赤い紙に沢山の線が描かれたものが出来上がった。
Aさんにとって、白い紙の方がよかったのか、赤い紙の方がよかったのか
Bさんにはわからない。しかし、Bさんにとっては
思っていた通りの素敵な作品になった。
そして、その作品はAさんの名前で世の中に出ていく。
しかし、Bさんは、そうやって出来上がったものに、
自分の美的感覚が反映されてしまっている事に、
どこか、後ろめたさを感じている。
なぜなら、これを誰かが面白くないと言った場合、
その理由の一翼はBさんにもあるから。
そして、これを面白いと言ってもらえた時、
もしかしたらAさん以上に嬉しいと思う自分がいるから。
もちろんAさんがいなかったら生まれなかった作品。
しかし、Bさんがいなくても生まれなかった作品。
その作品は、誰の作品なのか?
そもそもの「作品」という言葉もやっかいだ。
作品という言葉を使う事で、
描いた絵や、作った物が、特別な物に思えてくる。
ただの物を、特別な物にするのはいったい誰なのか?
その昔、作品は作品を作ろうとしなければ生まれなかった。
だから、作品を作品たらしめられるのは作者だけだった。
しかし、ある時、身の回りのあらゆる物が作品になる可能性を秘めていて、
作品にするためには「これは作品です」と言えば良い、
という事にマルセル・デュシャンが気が付いてしまった。
そのデュシャンの発見の上に今の現代美術がある。
だから、ただの物と作品の境目が定まらない世界に今の僕らはいる。
現代における「ただの物/作品」や「作者」の定義は、
常に可塑性を持って漂っている。
「これは作品です」と誰がどのタイミングで宣言するのか。
Aさんが、どのように、どのタイミングで作品である事を宣言するのか?
宣言しようと思っているのか?宣言する必要があるのか?
Aさんの様な方々から生まれてくる物を、尊いと思う。
その尊い物が生まれる過程には、Bさんの様な方々が存在していて、
その関係性の交わった所から作品は生まれてくる。
(佐塚)

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