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人は自然の一部?

たまたま聞いていたラジオの会話でこんな会話があった。

質問です。
a. 人間は自然の一部である。
b. 人間と自然は別々だ。
あなたはどっち?

* * * *

a. 人間は自然の一部である。と答えた人は、東洋的な思想で、
b. 人間と自然は別々だ。と答えた人は、西洋的思想だそうだ。

西洋的思想では、一番上に神がいて、神は人を作り、世界を作ったという思想。絶対的な存在の神を崇拝する人がいて、その順列は、はっきりしている。
っと、女性のDJの話は続く。。。

そもそも自然という言葉自体が日本に入ってきたのは、明治20年代頃、福沢諭吉が西洋の言葉を翻訳し、その中に自然という言葉も紹介された。
それまでは、日本には自然という定義はなく、海や山も自然という感覚はなかった。日本では、一つの神が全てを作ったのではなく、あらゆる神、つまり、八百万の神があらゆる場所、海、山、湖、滝、岩、、、に宿るという考え方。
古来から日本人はこのあらゆる自然に宿る八百万の神々を崇拝してきた。女性DJは言う、自然を敬い共存して生きるという事をつい最近まで、何千年もの間してきた日本人には「人は自然の一部である」と言う感覚があるはずなのだと。しかし、戦後の近代化や高度経済成長、西洋化、都市集中、、、などで、その感覚が忘れられている様に感じている。

目は芽、鼻は花

これも、ラジオの中で言っていた話。
日本人の「人も自然の一部」という感覚は、私たちの話す言葉の中にもある。
大陸から漢語が入ってくる前から使われている、日本古来の「やまとことば」は、文字が導入される前から話し言葉として使われてきた。女性DJは、面白い例を挙げてくれる。

め目=芽 
はな鼻=花 
からだ体=幹 

日本古来のやまと言葉で、目、鼻、体の言葉の由来を探ると、草木の名前から来ているそうだ。目は草木の芽から、鼻は草木の花から、そして人を支える体は、幹が由来だそう。体幹タイカンという言葉があるくらいだから、なんとなく想像できる。日本語の表現の中にも、日本人にとって、いかに自然が身近であったかが伺える。

そう言えば、古来の人々の和歌や俳句の表現においても、自然を表す美しい表現は無数にあり、それは日本語特有なものなのだろう。

女性DJの話は続く、、、残念ながら、近代化とともに西洋文化の波が日本にも来て、大きな街がぼこぼこと出来るたびに、現代人にとって自然の一部という感覚も薄れて来ている様に感じる。

このラジオを聞いて、里山暮らしをする私自身が感じたこと。。。

里山の古民家で林業を生業とする夫と暮らす様になってから、8年ほど経つ。
里山の暮らしでは、里山の住人たちは裏山を整備しながら、季節の恵みをもらいながら暮らす。
春には、山菜や筍を採り、お茶を詰み、夏にはベリーを収穫し夏野菜を堪能し、日中はミツバチが忙しく働き夕方にはホタルが幻想的に舞う。秋には柿や栗、椎茸などの恵みをもらう。真冬のカラッと乾いた青空には、ビタミンカラーの柑橘類がよく映える。
里山の集落では、みんな「あるものを食べる」。
あるものは、全てが裏山や畑からもらうもの。私達住人は里山の管理人でありながら、里山を循環させ里山の自然と共存していく暮らしである。
春先に大きな一枚岩のお稲荷さんを囲み、みんなでお参りしながら春の訪れを喜ぶ。梅雨の時期には、水無月の祓いでけがれを払いこれから来る夏が厳しくない様に地元の神社で願う。
どれもこれも、自然を敬い、共に生きると言う暮らし。これは、日本人が昔から脈々として来ている暮らしである。

だから私は、このラジオの質問に迷わず答えた。

「人間は自然の一部である。」

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