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「凪のように穏やかに」(1巻)|<創作大賞2024参加>

あらすじ


2011年、未曽有の災害となった東日本大震災。石巻の漁師・織部治一は妻・京子と娘・未来を津波で奪われた過去を持つ。石巻の記憶を振り払うように、東京で魚屋を営む先輩・杉浦友蔵、典子夫妻を頼り移り住み10年が過ぎていた。心のどこかで妻と娘が生きているかもしれないと思いながらも〝彼女たちを見捨てた”自分を責める日々を過ごす治一。そんな治一の背中を見て育った友蔵の息子・カケルは、自分の生きる意味や夢を持つことができずもがいている。未来が生きていればカケルと同じ年頃だ。魚屋の客・雨宮キヨコと孫の真子はそんな彼らを温かく、時に厳しく見守る。そして京子と未来もまた・・・。ある日、妻娘を見捨てたという気持ちに整理をつけるため治一は10年ぶりに石巻へ向かい、耳を疑うような事実と向き合うことになる。治一が行く末に見た幸福とは。




(1)

 太陽から降ってくる光のひと筋は、水平線から鏡のようにまっすぐこの真新しい船に向かって射していた。沖合いに出ても波一つ立っていないベタ凪のこんな日は、漁に出てもロクに魚は獲れない。織部治一がエンジンを切ると静寂の中にAMラジオのパーソナリティの声が響いた。ここは海のド真ん中。鏡の上を走ってきたこの船以外何もない、誰もいない世界。

「ハルちゃん!すっごくきれいだよ。見て見て!」甲板の上にいた京子の嬉しそうな声が聞こえる。「お、お、おう!」声が裏返ってしまったが、京子は気付いていないようだ。治一は操縦室から急いで出て、京子の隣に立った。小学校の頃からの幼馴染みの二人、付き合ったこともない二人だが、治一は今日、京子にプロポーズすると決めていた。船を持つということは一人前の漁師になることだ。30歳になった治一は、ローンを組んでついに船を買った。そして今度は一人前の男になるために治一はずっとずっと隠していた恋心を告白すると決めていたのだ。

 無邪気に風に吹かれている京子を見ることもできず、治一はただただ海を見つめていた。「船に乗せてくれてありがとね」と京子は治一に振り返ると、緊張感でガチガチの治一が海の一点を見つめている。京子は治一がプロポーズするのでは、と感じ取ってしまい緊張が移ってしまった。告白するチャンスを見出せない治一。しばらくの間、誰もいない海の上で二人はガチガチになって黙りこくっていた。ラジオの音。パーソナリティの紹介で古いスコットランド民謡のアニー・ローリーが流れてきた。
「京子ちゃん!」意を決して治一が振り向きざまに言うと、京子は「は、はいっ!」想像以上に大きな声が出た。アニー・ローリーの美しい調べと美しい景色。二人が急に動いた分だけ船が小さく揺れた。

 懐かし川辺に 露はあれど いとしのアニー・ローリー 今やいずこ
 君に会いし 時は行けど いとしのアニー・ローリー 夢 忘れじ

〇治一


 「・・・ハル!・・・ハル!ハル!お客さんだ!お客さんだ!」
友さんの無駄にでかい声に起こされた。あれ?寝た覚えはないのに起こされるとはどういうことだ?ふぁーと欠伸をかみ殺して店前を見るとブリッブリのナイスバディの人妻風の女性がうちの店の魚を物色している。去年駅前にイオンができてからというもの、この店のある商店街はすっかり寂れてしまっていた。さらに商店街の奥にあるこの店に新規のお客さんが来てくれるなんて奇跡的なチャンスだ!それなのに友さんは「いやあどうぞどうぞ。全然、見るだけでもいいんで寄ってみてくだだい。ええ見るだけで全然いいんで・・・」おい、見るだけじゃダメでしょ。買ってもらわなくちゃ。ブリッブリのナイスバディは「はい・・・」と友さんに愛想笑いをしている。いかん!友さんの下手な接客に任せてはおけない。お客さん帰っちゃいそうだ。俺は急ぎ店前に出る。

「お姉さん、流石にお目が高い。そのブリはさっき石巻から届いたばっかり 
 のブリッブリのピンピンのピンだよ!今朝揚がって来たばっかりの獲れた
 て!」
「え、石巻から直送!」

振りむいたブリッブリのお姉さんは俺を見ると驚いたような顔をした。いつものことだ。俺の顔は東京のこの町では怖い部類に入るらしい。10年前まで俺は石巻の漁師だったので、海の男らしい爽やかな顔のはずなのだが、初対面の人からすると少々刺激が強いようだ。

「ええ、俺が昔石巻で漁師やってたんで、先輩から安く仕入れさせてもらっ
 てるんですよ。こんなブリ、駅前のイオンじゃ絶対に手に入らないよ。焼
 いて良し、刺身で良しってね」
「じゃあ、今晩はお刺身にしちゃおうかな。ブリいただきます」
「どうもありがとうございまっす!じゃあこっちで刺身にしちゃいましょう
 か?」
「あら嬉しい。お願いします」
「はい。友さんお会計の方お願いしますー」
「あいよ」

俺がブリの柵を刺身にしている間、友さんは嬉しそうにお会計をしている。ブリッブリの姉さんと友さんはどうやら俺の話をしているようだ。チラチラとこっちを見てくる。俺はそのたびに小さく会釈をする。
「ありがとうございましたー」とブリッブリのお客さんを見送ると「また来ますね。SNSでも宣伝しといてあげる」と嬉しいことを言ってくれる。

 さて、と一息つき二人並んで店の丸椅子に座る。友さんは読みかけのパチスロ攻略本を読み始めた。基本的にはヒマな店だ。常連さんがくるのは夕方になるちょっと前くらいだからまだ余裕だ。俺はどうしたらイオンからお客さんたちが戻ってきてくれるのかを考えることに時間を充てる。

 「ただいま」と、友さんの奥さん・典ちゃんが帰ってきた。友さんと典ちゃんは仲がいい。そんな二人を見ていると家族っていいもんだな、と改めて思ってしまう。典ちゃんは小さな花を買ってきた。「はい。お供えしてきて」と俺に花を渡した。そうか今日は3月11日だ。

「すいません、気を遣わしちゃって」
「全然!イオン行ったついでだから」
「イオン?」

思わず友さんとハモってしまった。典ちゃんは悪びれることもなく「いいからお供えしなさい!花瓶、下駄箱の横のパタンパタンにあるから」と俺を追いやる。友さんも「いいから!今すぐ行ってこい!」とうるさくいうので、俺は花を仏壇に供えに行く。

 仏壇は友さんの家で俺が借りている小さな部屋の奥の小さなテーブルにある。安い仏様の木像と線香立てとチーン。そして俺の家族写真を飾っただけの言わば自称仏壇である。店の方から友さんの声がする。「おい、時間だぞ!」時計を見ると14時46分になっていた。・・・あの日からあっという間に10年が経っていた。俺は線香に火を点けて、チーンと鳴らし、京子ちゃんと娘・未来の幸せを願った。

 あのとき俺は船の上にいた。船が大きく揺れたかと思うと、その波が見る見るうちに10メートル堤防を越えて行くのが見えた。石巻が誇る高い高い堤防だ。その堤防を越える波が来るなんて、そんなことが現実に起こること自体信じられないことだった。係留していた船が港に投げ出され波に飲み込まれていく。家が、車が、人が流されていくのが小さく見えた。船上にいた俺は、石巻の町が破壊されていくその光景をただ茫然と見つめることしかできなかった。とにかく京子ちゃんと未来だけは無事でいてくれ、それだけを祈り続けていた。


 俺は緊急避難場所になった総合体育館にいた。どれくらいの時間が経ったのか思い出せない。津波が引いたあと、石巻の町は泥の更地になってしまった。昨日まで通っていたはずの道がどこだか分からない。海沿いにあった漁協はおろか内陸でもほとんどの建物が消え去ってしまった。誰かが使っていたであろうジャンパーや靴や習字の道具が泥に埋もれていた。京子と未来の消息を確かめるために、俺は市内の避難所を回ったが何の情報も得られなかった。それどころか何故か誰一人として知人に会うことすらできなかった。

 外のベンチでボーっとしていたら見覚えのある白い軽トラから見覚えのある人が「ヒロ!ヒロ!」と手を振って俺を大きな声で呼んだ。東京から友さんが駆けつけてきてくれたのだ。友さんの軽トラの荷台には缶詰とペットボトルの水がパンパンに積まれていた。友さんは俺をみるや否や「ヒロ、大丈夫か?」と聞いてきた。大丈夫なわけはないが「大丈夫です」と答えた。俺だけが大変なわけじゃない。この町の人たちはみんな大変なことになっているんだ。テレビ局のヘリコプターが低いところを大きな音を立てて旋回を続けている。友さんは俺に京子ちゃんと未来のことを聞いているようだったがヘリの音でよく聞き取れなかった。とにかく一刻も早く京子ちゃんと未来を探し出さなくちゃいけない。

 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ・・・。5月だというのに太陽が照り付けてくる。暑い・・・。俺は市内の泥を掘り返していた。自衛隊の救援の甲斐もあって多くの泥に埋まっていた人たちは掘り返されていったが、その中には京子も未来もいなかった。見つかっていないならば二人は生きている可能性がある。生きているなら一刻も早く会いに来てほしい。そう願いながら俺は自衛隊の作業が終わった場所をさらに掘り返していた。まだ誰かいるのかもしれない。もしかしたら俺の知り合いが埋まっているかもしれない・・・。乾いた泥が空気に舞って埃っぽい。門脇小学校では多くの子供たちの命が奪われた。あのとき誰があんな大きな津波が押し寄せることを想像していただろう。小学校の屋上に避難した児童たちと先生たちは、誰もが安全だと思っていた場所にいながら命を落とした。その無念さは計り知れない。数羽のカラスが廃墟となった誰かの家の中を物色している。俺は黙々と泥を掘り返し、埋まっている箪笥の下敷きになっている人がいないか、冷蔵庫の下に誰かいないか、確認しながら掘り進める。

「少しは休憩しろよ」友さんが給水場から持ってきた水を俺に手渡した。「しかし暑ちーな、あんまり無理すんなよ。お前がぶっ倒れても俺は面倒見
 ないからな」と言い座り込んで水を飲んだ。俺も座って水を飲む。空を見上げるとウソみたいに晴れ渡っている。あの震災さえなければ気持ちのいい初夏の日和だ。

「すいません。何かしてないと落ち着かないっつーか」
「そうか」
「俺なんかより大変な人がいっぱいいますから。俺ががんばらないと」
「そうか」

 友さんは震災から2週間後にこの石巻に駆けつけてくれた。俺と京子ちゃ
んと未来を東京に避難させるために。京子ちゃんと未来が見つかっていないことを知った友さんは、それから今日まで何も言わず俺に付き合ってくれている。本当に感謝してもし尽せないが、素直にありがとうと言えないのが俺と友さんの関係だ。「友さん、これ引っ張り出すの手伝ってもらっていいすか」俺は水を一気に飲み干すと友さんにそう言った。「ああ」と言って友さんは腰を上げたが、俺が引っ張り出そうとしていたのは泥の詰まった浴槽だった。友さんはそれを見て唖然とした。「これは二人じゃ無理だろうが!」そう言いながらも手を貸してくれる。浴槽の中にある泥をスコップで掻き出し、せーの!で浴槽を泥から引き剥がそうとしたが泥と浴槽はなかなか剝がれない。男二人で渾身の力を込めて浴槽を引っ張り出していたとき、懐かしいハーモニカの音が聞こえたような気がした。未来が練習していた下手くそなアニー・ローリー。俺は手を止め、辺りを見回した。しかしそこには誰もいない。

「はは、何やってんですかね俺」
「え?」
「俺、この泥の中に京子と未来がいるかもしれないって思ってるんです。だ
 から助けなくちゃって。でもこの中に埋まってたらもうダメですよね。死 
 んじゃってるってことですよね。まったく何してんですかね。友さんまで
 付き合わせて。はははバカみたいですね、俺」

本当はうすうす思っていた。京子ちゃんも未来ももうこの世にはいないんじゃないかって。その気持ちを打ち消したくて俺は泥を掘っている。完全に矛盾している。俺はただこの現実を信じたくないだけ。それだけで友さんを付き合わせてしまっていた。

「いいんだよバカで。お前はお前がやりたいようにしたらいい。俺はお前に
 付き合うって決めたんだ」

そうだった。友さんも俺と同じくらいバカだった。俺はそんなバカな先輩にこんな風に思われることにありがたい気持ちでいっぱいになった。
 友さんにも奥さんと息子がいる。息子のカケルくんは確か未来と同じ小学五年生だった。東京で魚屋をやっている友さんは、店を奥さんに任せて2カ月も俺のそばにいてくれている。でもこのままじゃダメだ。友さんには東京に帰ってもらわなくちゃいけない。京子と未来が見つかるまでだ。二人が見つかったら友さんの言ってくれた通り、家族三人で友さんの家に避難させてもらおう。友さんから声がかかる。「もう一回、本気で引っ張るぞ」せーの!と俺たちは浴槽を泥から引き剥がす。

(2)

〇典子


 お父さんが石巻に行って2か月が過ぎてしまった。ニュースで電源すら取れない状態だと言っている通り、お父さんからの連絡はまったくない。ちゃんとご飯はあるのか、病気はしていないだろうか、そもそも友達の治一さんとは会えたのだろうか。まさか浮気なんて・・・いやいや浮気はない。それにしても連絡すら取れないというのは淋しいな。いや、淋しがってるような状況じゃない。お父さんは被災地で大変な思いをしているんだから。ま、そのうち帰ってくるでしょ。よし、店の掃除しよ。

 トロ箱をきれいに流して冷蔵庫のガラスを拭いていると「ただいま!」とカケルが学校から帰ってきた。おかえり!と言う間もなく「お父さんから連絡あった?」と聞かれる。「ないよ。携帯の充電もできない状況だってテレビでやってたでしょ」「そっか」・・・と、ここまでの会話が最近の母と子のルーティン。「店ももう閉めるよ。すぐ品切れになっちゃうからねえ」震災が起きてから、石巻からはもちろん、築地にも魚はほどんど入ってこなくなった。まだ販路が上手く機能していないのと、海水汚染がどうのこうのが理由らしい。カケルは店の片づけを手伝いながらいきなり聞いてきた。「お母さん・・・お父さんの友達生きてるよね?」「生きてる。大丈夫!」私は自分に言い聞かせるようにそう答える。

 治一さんは石巻の漁師さんだ。お父さんが若かったころからの後輩で、ひょんなことでお父さんは治一さんに恩を売ったことから、治一さんは石巻で獲れた魚をこの店に直送してくれるようになった。お父さんにとっては大事な友達であり仕事仲間でもある。震災からずっと連絡が取れなくなってしまった治一さんが心配で、お父さんは石巻に行くことにしたのだ。あれから2カ月も音信不通のまま。ニュースを見れば余震もまだ続いているらしいし、福島の原発が爆発した影響がどれくらいあるのかは誰にも分からない。治一さんも心配だけど、私はお父さんの安否が心配だ。不安な気持ちを煽るようにニュースは被災地の大変さばかりを取り上げる。まるでそれが日常のことであるかのように。カケルは学校から帰るといつもニュースを食い入るように見ていた。

 あるとき「友達は福島の放射能のせいでもう東北の魚は食べられないって言うんだけど、そしたらうちの店は大丈夫かな」と聞かれた。私は「大丈夫だよ」と答えることしかできない。先のことは分からないが、もし何かあったとしても国がなんとかしてくれるはずだ。こういう時のために税金を払ってるんだから、してくれないと困る。「でもさ、偉い人たちはみんな想定外だって言ってるよ」カケルは追い打ちをかけるように私に聞いてきた。私はカケルにかける言葉が浮かばなかった。確かに政府はこの震災の被害を想定外という言葉で押さえ込もうとしているように聞こえた。芸能人や大会社は膨大な寄付金を出したり現地にボランティアに行っていた。日本中が被災地に優しい気持ちを持たなくてはならない空気になっている。みんな想定外という政府や企業の言葉に頷くしかない空気が醸成されている気がした。私は政府に被災地が見捨てられているような気がしていたが、そんなことを考えていることがおかしいようにも思えて、カケルの問いかけには答えず「そっか。カケルも大人になったねえ。もう5年生だもんね」と、冗談ぽくごまかした。私には連日ニュースで流れている被災地の映像が、どこか遠くの国で起きていることのように思えて今一つピンと来ていない。カケルがニュースにかじりついているのも、お父さんが友達を心配して石巻に行ってしまったことも、死者何千人・行方不明者何万人という事実すら、テレビという箱の中の出来事としか感じられない。コンビニにある募金箱にお釣りを入れることも流行に後れないためにしているようなものだった。何故なら私の日常はそんなに変わっていないように感じていたから。

 ブルルルル・・・ガタン。裏の駐車場に車が停まる音が聞こえた。カケルは「うちの車だ!」と外へ行こうとすると、お父さんが帰ってきた。東北に行ったのに日焼けで真っ黒になったお父さん。ワークマンで買った新しい作業服は泥だらけになっていた。「ただいま」と言うが早いかカケルは泥だらけのお父さんの胸に「おかえり」と飛び込んでいった。お父さんが「悪かったな。全然連絡できなくて」と言うので「電話の充電ができなかったんでしょ。でも心配したんだからね」と拗ねてみせた。「で、治一さんたちは?」と尋ねると、お父さんは「ああ」とちょっと目を伏せたあと、外に「おい」と声をかけた。

 入ってきたのは治一さん一人だけだった。「こんにちは!典子さん、大変ご無沙汰して申し訳ありません!」そう言うと治一さんは無理して私に笑顔を作った。「いえとんでもない!」と私も思わず愛想笑いをして目を合わせてびっくりした。元気そうな声とは裏腹に治一さんには生気を一切感じられず、まるで死んでしまったような目をしていた。治一さんの家族・京子さんと未来ちゃんがどうなったのかはそれだけで理解できた。カケルはそんな治一さんを見るなり「怖い」と泣き出した。一瞬困ったような顔をした治一さんは、カケルに笑顔で近づき「大きくなったねカケルくん。俺のこと覚えてる?」とカケルの頭を撫でた。カケルは「お、覚えてません」と言いながら後ずさった。治一さんは悪びれもせずにハハハと声を出して笑って「そうだよねえ。カケルくんが赤ちゃんのときに会ったきりだもんな」とお父さんに笑顔を見せた。「そうそう、未来ちゃんも同じ年に生まれたからってうちに連れてきたとき以来だ」お父さんはそう言うと、しまった!という顔をして口をつぐんでしまった。今、治一さんの家族の話をするのは治一さんにとってはつらいはずだ。治一さんは笑顔のまま固まって黙ってしまった。沈黙の時間に耐えられなくなった私は「それにしても大変なことでしたね」と口に出すと、治一さんは「いえいえ、俺なんか全然・・・石巻にはもっと大変な目に遭っている人がいるんですから」と返してきた。こういう類の質問は何百回とされていて、治一さんは何百回となくこういう風に答えているのだろう。「お疲れでしょうから、まずはゆっくりとしていって下さいね」と労いの言葉をかけた。

 「カケル!奥に使ってない部屋があるだろ。ハルが暮らせるようにちょっと片付けてやってくれるか?」とお父さんが言うと、カケルはすぐにでもこの場を離れたかったらしく「分かった」と言って、奥の部屋に行ってしまった。「え、暮らすって?」驚いてお父さんに聞くと「ああ、石巻が落ち着くまでの間な」私は一瞬、そんなの無理!と言いそうになったが、ぐっとこらえて「わかった!治一さん、ここにいる間はここを自分の部屋だと思ってね!」と胸をドンと叩いた。治一さんは「あざーす」と答えた。そうそう、治一さんは今大変な状況に置かれているんだ。奥さんと娘さんに先立たれてしまって帰る家もない。こんなときだからこそ人のために考えてあげなくては。それに相手はお父さんの親友なんだから。そう思い直していると、「カケルくんしっかりしてますね」と治一さんが話を変えてくれた。

「そうですか?まだまだ子供ですよ」
「そういえば未来の背丈ってどれくらいだったのかな・・・ダメですねえ、 
 普段ちゃんと見てなかったことがすぐバレちゃう」

言葉が見つからず、大変でしたねと言おうとしたら、お父さんが「仕方ないよ。男親なんてそんなもんだって」とフォローしてくれた。しかしここでまた沈黙が訪れてしまったので、言葉を知らない私はまた同じことを口にしてしまった。

「でも本当に大変でしたね」
「ええ・・・」
「何しろ町ごと全部流されちまったからな」
「テレビで見ました」
「そうですか」
「ホント、何て言ってあげたらいいのか」
「そんな、気ぃ遣わないでください」
「ごめんなさいね」

完全に当たり障りのない会話をしてしまったことに後悔した。なぜ私はこんなことしか言えないのだろう。気の利いたことを言ってあげられないんだろう。テレビで大変だ、大変だとなっている被災地からお父さんの親友が頼ってきてくれたのに。私は自分のことを嫌いになりそうだ。

「しかしハルがこっちに来たら石巻の魚が来なくなっちまうなあ」とお父さんが愚痴るように言った。「そうですね」と治一さんはちょっと考えてから「漁港が再開したら俺が戻るんで大丈夫っす」と平然と答えた。お父さんは「無理すんな。お前が戻りたくなったら戻ればいいんだ。それまではこの店 
で住み込みでバイトしろ」と言った。え?石巻が落ち着くまでじゃないの?と思ったが、そのことは顔にも出さなかった。「石巻が落ち着いたらすぐ帰りますんで」治一さんが私の頭の中を見透かすように笑って言ったのでちょっとあせった私は思わず話題を変えた。

「何を獲ってたんですか」
「今の季節だとメジですかね」
「ネ、ネジ?ネジってこのネジ?」
「典子!ネジじゃない。メジマグロ、クロマグロのことだよ」
「ああ、マグロ。すごい!」
「三陸は世界でも有数のいい漁場ですからね」
「ああ、オギノ式海岸ですね!」
「リアス式海岸です」

そういうと治一さんとお父さんが同時に笑い出した。わ、間違った。恥ずかしい。でもオギノ式海岸ってなんだっけ?小学校のときに学んだ気がするんだけど。笑いながらお父さんは私に「ナイスボケ」と褒めてくれたが何となく納得はいかない。「お父さん!片づけたよ!」と奥からカケルの声が聞こえた。

「どうぞ入ってください。本当に狭い部屋で申し訳ないんだけど」
「とんでもない。ありがたいです。お邪魔します」
私が治一さんを案内するため家に入ろうとするとお父さんは「ちょっと石巻に電話しとくわ」と治一さんに聞こえない声で言い、メモを見ながら店の電話のダイヤルを回した。


(3)

〇治一


 薄曇りの肌寒い朝だった。3月11日。今日は金華銀鮭の水揚げをする手伝いをする予定なので、漁協で大将たちと待ち合わせてから金華山沖の養殖場に行くことになっている。いつものように一家三人で朝ご飯の準備をしていると、未来が買ったばかりのハーモニカを食卓にまで持ってきているのに気づいた。「行儀が悪いからごはんの時間くらいはハーモニカは置いておけ」と注意しながら納豆を混ぜた。未来は「だって卒業式に間に合わせなくちゃいけないんだよ」と口を尖らせながら自分の正当性を主張してくる。小さい頃は俺にベッタリだった未来も春から5年生だ。生意気にもなるはずだ。俺は仕事ばかりして未来のことは京子ちゃんに任せっぱなしにしてたことをちょっと後悔した。京子ちゃんが「納豆を食べた口でハーモニカ吹いたらハーモニカが納豆臭くなっちゃうわよ」と未来をたしなめると「今日は納豆食べない」とヘソを曲げた。未来の機嫌は治ってなかったが、もう出なくてはいけない時間になってしまった。「やばい。先に出るわ」と納豆ご飯を味噌汁で流し込んだ。

 「今日は大将と一緒だから遅くなるかもしれねえから、先に寝てて」と玄関で靴を履きながら京子ちゃんに言うと「待って!」と未来が走ってきた。「これ」とノートが手渡された。中を見ると未来の字でアニー・ローリーの歌詞が書いてある。そうだ、未来が練習するのが楽しくなるようにと俺と京子ちゃんは歌詞を覚えるって約束してたんだった。アニー・ローリーは何となく知っているが歌詞は知らなかったので、そんな約束するんじゃなかったと後悔したが、未来に「明日までに絶対に覚えて!」と念を押されてしまった。船が養殖場に向かってる間にでも覚えるしかない。「私がなだめておくから」と京子ちゃんに助けられ「いってらっしゃい」と送り出される。未来がいってらっしゃいと言ってくれないのは気になるが「行ってきます!」と家を出た。

 あれから10年、俺は二人に会えていない。また春になった。いい風が吹いてくる。見上げると、空の向こうに京子ちゃんと未来がいるような、次の瞬間にはすぐそこに京子ちゃんと未来がいるような気がしてくる。耳を澄ませば二人の声が聞こえてくるようだ。

「うーん!いい天気だねお父ちゃん」
「風が気持ちいいね。こんな日は父ちゃん休みなのに船を出してた」
「釣り日和だもんね」
「釣り日和じゃないよ」
「え?」
「曇ってるほうが魚はよく獲れるんだよ。ね、父ちゃん」
「知らなかった。お父ちゃんは本当に海が好きだったんだね」
「そうだね」
「あれから10年も経ったのに・・・」
「お父ちゃんも私たちと一緒にいたいんだよ」

二人の会話を想像しながら、俺は小さく「京子ちゃん、未来」と口に出してみる。当たり前だが返事はない。その事実が俺の胸にぽっかりとできた穴をジンジンと締め付けてくる。この10年ずっとこんなことを繰り返しているかと思うと自分でも呆れる。今日は石巻も晴れているらしい。恐らく二度と戻らない、戻れない石巻・・・。

「お父ちゃん、船はどうするの?ずっとあのまんま?」
「父ちゃんに好きにしてくれたらいいんだけどね」
「うん。でも一度くらい乗ってみたかったな。お父ちゃんの船」
「そっか。未来は乗ったことないもんね」
「お母ちゃんはあるの?」
「あるよ。一度だけ。プロポーズのときにね」
「プロポーズ?どんなプロポーズだったの?」
「そうだなあ。その日も今日みたいによく晴れてて、風が全然なくて」
「ベタ凪だ」
「今日は釣りは休みだから船に乗せてやるって言われたの。それで石巻湾の 
 沖合いまで連れてってくれて。きれいだったなあ、波ひとつない海に太陽
 の光が船に向かって一直線に射してきて・・・父ちゃんが言ったの」
「なんて?」
「この凪のように穏やかに、一生俺と一緒に過ごしてくださいって」
「わっ恥ずかし。お母ちゃんは何て返事したの?」
「もしも嵐が来たときはどうするの?って」
「もっと恥ずかしい。で、お父ちゃんは何て?」
「これから先、何があっても俺が絶対に京子ちゃんを守る!そう言って王子
 様みたいに指輪を出したの・・・キャー!ロマンチック!」
「お父ちゃんならやりかねないな・・・優しいよねお父ちゃん」

 俺は約束を守れなかった。俺は京子ちゃんを守ると約束した。未来のことだって生まれたときに絶対に守るって誓ったのに。だが、俺だけが生き残ってしまった。あの津波の中で京子ちゃんと未来が俺に助けを求めていたときに、俺は沖から石巻が崩壊していくところを見ていることしかできなかった。悔やんでも悔やみきれない。許しを乞うても決して許されることはない。俺は石巻から逃げて、あの日の現実から逃げて、そして自分の未来からも逃げてきた。せめて一生ここで二人のことを想い続けることだけが、俺にできるせめてもの償いかもしれない。それだけを考えていた10年だった。

 想いを振り切るよう、大きなため息をついて顔を上げると、目の前に見知らぬおばあちゃんが立っていた。ナイトキャップを被りネグリジェに上着を羽織っただけのそのおばあちゃんは、まん丸い目をして真っすぐに俺を見ていた。一瞬驚いたがその怪しげな姿に、おばあちゃんは認知症を患った迷子だとピンと来た。おばあちゃんはさらに俺に顔を近づけてきて「じ、じーさん!じーさんじゃないか!」と言って俺の肩に掴みかかってきた。俺のことを自分のじーさんと間違えているようだ。「探したんだよ。良かったよじーさんに会えて」と愛おしそうな目で俺を見るので「違いますよ。人違いですよ」と伝えた。おばあちゃんは怪訝な目で俺の顔をじっと見たかと思うと「あんた!じーさんじゃないじゃないか!」と言ったかと思うと俺の肩をグッと押す。思いのほかその力が強かったので俺は突き飛ばされてしまった。挙句「あんた何なんだい!気安く触わるんじゃないよ!」と痴漢にでも遭ったかのような態度で叫んだ。いやいや触られてたのはこっちのほうだ。とんだとばっちりだが年寄り相手にムキになるのもどうかと思い直した。それより認知症のおばあちゃんは心配だ。俺は話を聞くことにした。

「おばあちゃんこの辺の人?」
「あ?なんだって?」
「おばあちゃん、どこに住んでるの?」
「どこに住んでるかって?女川だよ」
「女川!俺石巻だよ」
「なんだ隣町じゃないか」

女川町は石巻の東にある。東日本大震災のときに石巻と同じように甚大な津波被害に遭った場所だ。このおばあちゃんも被災を機に東京の親戚と住んでいるのかもしれない。今も女川に住んでいたことが忘れられないのかもしれない。そう思うとちょっとシンパシーが湧いてくる。

「おばあちゃん、女川から誰と来たの?」
「孫がね、いなくなっちまったんだ」
「ああ、迷子になっちゃったんだね」
「あんた迷子になっちゃったのかい」
「俺じゃねーよ」
「よしよし。じゃあ一緒にお巡りさんとこ行こうか」
「俺は大丈夫。ちょっとここに座って」
「あら、あんた優しいとこあるじゃないか」
「俺、優しいんだよ」

俺はおばあちゃんを丸椅子に腰かけさせた。ここは俺一人じゃ無理だ。とりあえず友さんに店番代わってもらっておばあちゃんを警察に連れて行こう。

「じゃ、ここに座っててね」
「ここにいればいいのかい?」
「そうそう、すぐ戻るから。いいね、どっか行っちゃだめだからね」
「はいはい。分かりましたよ」
「絶対だよ。いいね・・・そのままよ、いいね」
そういい置いて俺は友さんのいる店の奥にある冷凍庫に走った。

〇キヨコバーサン


 はて?アタシとさっきまで話していたのはジーサンだったかな。じゃあ何でアタシは魚屋の椅子に座ってるんだろう。ああ、さっきのはジーサンじゃなかったんだっけ。改めてさっきの男のことを思い出すと「いい男だねえ、アタシの旦那と瓜二つだ」と大きな声で呟いていたようだ。アタシのすぐ横から「私のお父ちゃんだよ」と声が聞こえてきた。見ると私より若いお母さんとその娘らしき親子がいた。

「そうかい。あんたのお父ちゃんか」
「うん」
「なかなか優しそうな男じゃないか」

見るとお母さんが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。認知症のバーサンが旦那に惚れて不倫するとでも思ってるような目だ。そんなことするわけないじゃないか。私はジーサン一筋なんだ。こんないい歳をしてあんたの旦那を奪うなんてことはしない。「安心をし。アタシは棺桶に片足突っ込んでるようなバーサンだ」そういうと娘の方が「そうなんだ。おばあちゃんすごいね」と言った。お母さんのほうも妙に納得したようだ。まあジーサンに会えるまでは棺桶に入る気はないが。それにしてもさっきの男、アタシに近寄ってきたときの目が何だか淋しそうだったね。

「あんたのお父ちゃんは迷子みたいだね」
「そう迷子。お私たちがいないと全然ダメみたい。ね、お母ちゃん」
「ええ、一人になるのが怖いのかもしれません」
「一人になるのが怖い、か。その気持ちはアタシもよく分かるよ」
「おばあちゃんも分かるの?」
「ああ、アタシにだってジーサンに抱かれたくなる夜がある」
「抱かれたくなる夜?」
「未来は知らなくていいの」

慌ててお母さんは娘を諭した。そんなこと言っちゃって。あんただって抱かれたい夜はあるだろう、と言いたかったがやめた。そんな話はどうでもよくてアタシは誰かに会うと必ずする質問をした。

「あんたたちアタシのジーサンを知らないかい?」
「ジーサンですか?」
「あんたの旦那にそっくりなんだけどね」
「おばあちゃんのジーサンはどこいるの?」
「さあな。ここにいるんだか、女川にいるんだか」
「え?」
「大きな地震があってな。ジーサンはアタシの目の前で津波に呑みこまれて
 しまってね。それきり会ってないんだ。あれはいつだったかねえ」
「そうだったんですか」

アタシはあの時のことはあまり覚えていない。ただジーサンがアタシの目を見つめながら波に呑まれて遠くへ行ってしまったことだけは忘れない。その時のことを思うと胸の奥がザワザワしてたまらなくなる。「会えるよ!」と娘のほうが言った。

「おばあちゃん、棺桶に片足突っ込んでるんでしょ。だったら会えるって」「未来!あんたって子は!」

お母さんはアタシに謝ってきたが、そんなことを言われたのは初めてだった。アタシは嬉しくなって年甲斐もなく涙が流れそうになった。ありがとうを伝えようとすると「そうだ、おばあちゃん!」と素っ頓狂な声で娘が言うので涙は引っ込んでしまった。

「なんだい?」
「お父ちゃんに伝えて欲しいの。ハーモニカ吹けるようになったって」
「そんなのいつだって伝えればいいじゃないか」
そういうと娘は困った顔をした。お母さんが意を決したように言った。
「私たちの声はお父ちゃんに届かないんです」
「届かないのかい?そりゃあ不思議だね」
「ええ。だから伝えてください。私たちは大丈夫だって」
「分かったよ。冥途の土産に一肌脱ごうじゃないか。そういえばあんたたち 
 名前は何だったかね」
「聞かれてません。私は京子、娘は未来と言います」
「キヨコさんと未来ちゃんか」
「いえ、京子です。京子と未来」
「分かってるよ。アタシはキヨコだ」
「キヨコさんありがとうございます」
「おばあちゃん、絶対忘れないでね」
「忘れるはずないじゃないか。絶対に伝えてやるよ」

〇治一


 それにしても何でこんなタイミングで友さんトイレに籠もっちゃうかなあ、冷凍庫にいたからって。おばあちゃんはまだちゃんと座って待ってるだろうか。そんな後悔もしながらドタバタと店に戻ると、おばあちゃんは一人で丸椅子に座っていた。良かった。あんな危なっかしいおばあちゃんを助けられなかったら、俺が良心の呵責に苛まれるところだ。友さんはおばあちゃんを見るや俺と同じく何かを察したらしく、二階に向かって「典子ー!」と呼んだ。なんだ典ちゃんもいたのか。典ちゃんがいるんなら最初から典ちゃんにお願いすればよかった。俺は下りてきた典ちゃんに説明した。

「女川から来たって言ってるんですけどこんな格好じゃないですか。やっぱ 
 り交番にお願いしたほうがいいですかね」
「いや、警察に連れて行く前にもう少し話を聞いてみてもいいんじゃないか
 な。なあ典子・・・」
「そうね。もう少し話をしてからでもいいんじゃない?」
「でもお孫さんとはぐれたって言ってるし。俺、行ってきますよ」
「ちょっと待て。だったら俺が行く!」
「いいっすよ。友さんは典ちゃんとおばあちゃんを見ててください」
「いや俺が行く。お前身分を証明するもの何も持ってないだろ」
「そんなもん人助けに必要なんですか」
「いいから」
「あ、そうだ!」
「わ!なんですか典ちゃん?」
「三丁目にあるじゃない。ひまわりホーム。老人介護施設でたしかデイケ
 アもやってるとこ。ねえお父さん」
「そういやあったな。俺、パパっと行ってくるわ」

 言うが早いか、友さんはひまわりホームに走っていった。友さんと典ちゃんは俺を外に行かせたがらないことがよくある。俺は居候の身なので二人の言うことは聞くことにしているし、俺自身も人に会いたいと思うことはないので問題はないのだが、ちょいちょい気になる。典ちゃんがおばあちゃんの横にすっと座り込んで話しかけた。

「おばあちゃん、お孫さんとご一緒だったんですか」
「ああ、気付いたら勝手にどっか行っちゃったんだ」
「そうだったんですね。それでここまではどうやって来たんですか?」
「歩いて来たに決まってるだろ」
「ひまわりホームからですか?」
「何言ってんだい。女川からだよ」
「女川から東京まで歩いて来たんですか?」

おばあちゃんは典ちゃんの言葉にちょっと困惑した顔をして「忘れた」と小さな声で言った。おばあちゃんは自分の考えていることと言っていることの辻褄が合わないことに気付いたようだ。俺は可哀想な気がして「おばあちゃん!一人でウロウロしてたら危ないんだよ」とわざと大きな声で言った。

「おいあんた!」
「俺?」
「さっきからどこ見てんだい。やらしいね」

俺はカウンターパンチを喰らった。おいおいどうしたおばあちゃん、と言う間も与えてもらえず、キッと典ちゃんが俺に振り向いた。

「治一さん!おばあちゃんをそんな目で見てたの?」
「そうなんだよ。さっきも急に抱きついてきたんだ」
「治一さん!」
「何だよ典ちゃんまで。抱きついていないし、いやらしい目で見てない。何
 で俺がおばあちゃんにエッチな感情を抱くと思うかな。俺はただおばあち
 ゃんを心配してるだけなの」
「何であんたに心配されにゃいかんのだ。あんたアタシの何なのさ」
「突っかかってくるなあ」
「ほらまた!やらしい目で見てるじゃないか!」
「だから見てないって!」
「いくらあんたが熟女好きだからってね、アタシは誰にでもホイホイついて
 いくような尻軽じゃないんだよ」
「なんなんだこの人」

そういうと典ちゃんが耳打ちしてきた。

「甘えたいんじゃないですか。治一さんに」
「甘えたい?」
「そうそう。だから優しく接してあげて」

考えてみれば、このおばあちゃんは震災でつらい思いをしていたのかもしれない。それから今まで甘えられる場所がなかったのかもしれない。そう思うとおばあちゃんの多少の暴言は許してあげたくなった。

「おばあちゃん、ヨチヨチ。俺に甘えたいのかい?」
「こんなエロい目をした男に甘えるほどアタシは落ちぶれとりゃせんわ」
このババア付け上がりやがって!と喉まで出かかったが俺は引きつった笑みを浮かべながら言った。
「おばあちゃんはお孫さんを探してるんですよね」
「何言ってんだい。アタシはねジーサンを探してるんだ」
「ジーサン?」
「そうだよ。ジーサンだよ。あんたによく似てる」
「俺に?」

いきなり話が変わったぞ。いやまて。俺がジーサンに似てるってことは、このババアは俺を同年代のジジイだと思ってるってことか?それは年齢的に考えても無理があるだろ。俺が頭の中を整理していると、遠くから友さんが介護士さんらしき人と若い女の子を連れて戻ってきたのが見えた。

 友さんが連れてきたのはババアのお孫さんだった。ひまわりホームに着いたときに、半泣き状態でババアを探していたお孫さんにちょうど出くわしたらしい。お孫さんはババアを見るなり「キヨコちゃん!」とババアを呼ぶとババアの肩を抱きしめながらも「もうキヨコちゃんたら!」と言いながらバシバシと叩いた。ババアの名前はキヨコちゃんと言うらしい。キヨコちゃんはデイケアでひまわりホームにいたのだが、ちょっとしたスキにいなくなってしまったらしい。介護士さんは平謝りだったが何事もなかったことで心からホッとしたようだった。

 キヨコちゃんは平然と「真子!あんたどこに行ってたんだい!勝手にフラフラして!まったく心配させんじゃないよ!」とお孫さんに怒っている。真子と呼ばれているお孫さんはそんな様子に臆することなく「すいません。ご迷惑をおかけしました」と頭を下げ俺と目が合うと、ドキッとしたような表情になった。よくあることなので俺が会釈すると真子ちゃんはごまかすように「本当に油断もスキもないんだから!」と大きな声で愚痴をこぼした。キヨコちゃんはそんな真子ちゃんに対してブツブツ文句を言っていたが、真子ちゃんは慣れた感じで「はいはい、ありがとありがと、じゃあ行こうキヨコちゃん」とキヨコちゃんを促した。典ちゃんが優しく「またいつでも来てくださいね」と声をかけると「ああ、また魚を買いに来るから」とキヨコちゃんが平然と答えたので、「おばあちゃん、魚、買ってないじゃねーか。もう一人では来ないでね」とニッコリ笑って言ってやった。キヨコちゃんはパッと俺に振り返った。

「あんた、名前は?」
「俺?治一だよ」
「じゃあ・・・ハルだな」
「お、気安いなキヨコ」
「あんたに言いたいことがある!」
「え?なんだよ」
「キヨコは・・・えーと、アレを吹けるようになったんだ」
「は?」
「キヨコちゃん何言ってるの?すいませんちょっとココがコレなんで」

確かにキヨコは年齢が年齢だからココがコレなのは仕方ない。俺が「キヨコ良かったな」と言うとキヨコはウンウンと頷いてひまわりホームの方角へ戻っていった。二人を見送っているとニヤニヤした典ちゃんが俺の横にスッと寄ってきた。

「治一さん、おばあちゃんに相当気に入られてたわね。コノコノー」
「え?キヨコにですか?」
「おじいさんに似てるって言ってたじゃない」
「だから何ですか?」
「治一さんのこと好きになっちゃったのかも」
「ウソでしょ」
「だって好きな子にイジワル言ったりするじゃない」
「いやいや小学生じゃないんだから」
「あら治一さん、女心を全然分かってないのね」
「女ったって、バーサンじゃないすか」
「何言ってるの。女ってのはいくつになっても女なの。ね、お父さん」
「はい。さすが海の男はモテるねえ」
「モテてないっつーの!つーかキヨコはダメでしょ!キヨコは年上とかのレ
 ベルじゃないから」
「またまたー。いよっ!熟女キラー!スケコマシ!」

などとおちゃらけ夫婦にはやし立てられていると「ただいま」と機嫌の悪そうな声でカケルが帰ってきた。俺がここに居候してから10年。カケルは専門学校生になっている。「おかえり!どこ行ってたの?」と典ちゃんは腫れ物に触るように言うと、カケルはそれには答えず「これからオンラインで授業だから」と言うとそのまま家に入っていってしまった。典ちゃんは気まずそうに笑うと「あ、私イオンに行かなくちゃ!」と思い出したように言う。俺と友さんが「え?イオン!!」とハモって聞くと「スタバよ!オリジンコーヒージェリーキャラメルフラペチーノ!」典ちゃんは呪文のようなチーノの名前を言いながら去っていった。

 つむじ風のようなキヨコが去ったこの場所に俺と友さんだけが残された。大きく伸びをして丸椅子に座った。昼下がりの風が心地よい。逃げるように石巻を離れてからも、幾度となく季節は巡り容赦なく時は過ぎていく。また春が終わろうとしている。

 店の前でぽかんとした沈黙が続いたあとで友さんが「おまえ、震災が起きてから今日まで泣いたことあるか?」と、ピンッと鼻くそを飛ばしながらポツリと聞いてきた。

「友さん、まさか俺のこと鬼だと思ってるんじゃないですよね」
「思ってるよ。おまえ、ここに来てから泣いたことないだろ」
「・・・ええ、多分」
「ほらみろ、やっぱり鬼じゃねーか」

この10年、友さんは何も言わずにずっと俺に寄り添ってくれていた。震災の話も京子ちゃんや未来の話も、俺から切り出さない限り何も聞かないでいてくれた。そんな友さんからこんな風に震災の話を切り出されたのは初めてのことだ。俺は平静を装いながら話をした。

「いや・・・泣かなかったっていうか、それどころじゃなかったっていう  
 か、タイミングがなかったって言うか・・・でも、もし俺が泣けばあの震
 災がなかったことになるんなら、俺、いくらでも泣きますよ。目が潰れる
 まで泣いたら、それで時間が巻き戻って石巻が元に戻るっていうんなら、 
 俺は自分の目から血が溢れて、何も見えなくなっても泣き続けますよ。で
 も、戻らないんす・・・どうやったって。戻らないんだったら茫然として
 いるなんてできない。結局は自分たちで何とかしなくちゃならない、立ち
 上がるしかない、みんな自分で乗り越えるしかないって分かってるんで
 す。泣いてる場合じゃなかった。がんばるしかなかったんす」

弱音を吐きたいなんて微塵も思ってもいなかったのに、気が付くと俺の口から言葉が次々に溢れ出てきてしまった。友さんは空の彼方を見つめながら、俺の言葉の一つ一つに頷いてくれ「・・・そうだな」と言うと、穏やかな顔で俺の目を見た。俺はそんな友さんに救われている。甘やかされている。そう気付いて気まずくなった。「だーかーら!俺なんかよりもっと辛い人たちがいっぱいいるのに泣いてる場合じゃなかったじゃないすか。で、気が付いたら俺、泣き損なっちゃったまんま今に至る、です」とおどけてニカっと笑った。友さんはフッと一息ついて「俺には分かんねえからなー。悪かったな変なこと言って」と言うとまた目線を空に向けた。ヘンな空気にしてしまったのは俺のほうだ。「なんかすんません」と言って俺は立ち上がって軒先に出た。スカイツリーが遠くに見える。あの無機質な高い塔を見るたびに、ここが東京だと改めて気付かされる。2021年。花の都大東京だ。

「友さん、俺のことなんかより今はカケルが心配っす」
「カケルか・・・まあな」
「ずっと話してないですよね、カケルと」
「遅れてきた反抗期ってやつだな」
「今、就職活動中ですよね」
「ああ」
「俺、カケルがウジウジイライラしてるのムカつくんすよね。ここんとこ典
 ちゃんに当たってるみたいだし」
「まったく何やってんだか。かといって俺が何か言っても火に油注ぐような
 もんだからな」
「だいたいカケルは将来何になりたいんですかね」
「さあな、そういえば聞いたことないな。お前知ってる?」
「知ってるはずないじゃないすか」
「だよなあ」
「・・・俺がカケルとざっくばらんに話してみましょうか」
「何がざっくばらんだ。おまえただの居候じゃねえか」
「居候だからですよ。カケルの年頃だと親には言いたくないことがあるかも
 しれないじゃないすか。俺らがカケルくらいの頃、思い出してみてくださ
 い」
「まあ、確かにな」
「ね!」
「じゃあ頼むわ」
「うっす」
「じゃあ・・・ちょっと店の方も頼むわ」

そういうと友さんは前掛けを外してパチンコ屋の方向へ消えて行った。あ、そういうことね。まあヒマだから仕方ねえか。もう一度空を眺めると風船がひとつ浮かんでいる。風船は強い風に煽られたのか、まるで遠くのスカイツリーに当たったかのように割れた。その光景を見て、俺はある日のことを思い出した。その日は未来が急に突拍子もないことを言いだしたんだ。

「お父ちゃん。私、芸人になりたい」
「どうしたいきなり。芸人?未来が?」
「そう。森三中みたいな体を張ったお笑い芸人」
「いや。やりたいことがあるのはいいことだけど、芸人は大変だぞ」
「大丈夫。私、頑張り屋だから」
「確かに未来は頑張り屋だけど芸人って。ああいう世界には才能がないと」
「私、お父ちゃんの娘だよ。才能はあると思う」
「何言ってんだお前」
「お母ちゃん!アレ持ってきて!」

未来がそういうと、奥から京子ちゃんが申し訳なさそうに吹き矢セットを持ってきた。俺は今から何を見せられるんだ?未来が意気揚々と京子ちゃんに向かってグイッとお尻を突き出した。

「お父ちゃん!面白いかどうか見てて」
「あ、ああ・・・」
「お母ちゃんお願い!」

そう言い切る間もなく京子ちゃんは吹き矢を未来のお尻に向けてプッと吹いた。吹き矢は気持ちいいくらい見事に未来のお尻に突き刺さった。

「痛い痛い痛い痛い痛ーーーい!」

叫びながら未来はリビングを駆けずり回った。吹き矢を吹いた京子ちゃんは困惑しながら「これ・・・面白いの?」と俺に聞いてきた。その二人のコンビネーションが妙に可笑しくて、俺は大爆笑してしまった。

 考えてみたらバカみたいなことばっかりしてた家族だったな。俺は今、東京の魚屋の軒下で一人、思い出し笑いをしていた。優しい風が吹く昼下がり。きっとまた一日が過ぎていく。


「凪のように穏やかに」1巻 おわり

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