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「凪のように穏やかに」(2巻)



(4)

〇カケル (夢を探せない若者)

 まさか面接がリモートで行われるなんて、去年までは想像もしていなかった。自分の将来が全然見えない。それでも来年の3月には専門学校を卒業して就職をしなくてはないらない。時代のせいにするのは簡単だ、というけれど、こんな状況で就職活動をしなくてはいけないのが時代のせいじゃなかったら何のせいなんだ。でも、きっとそういうことを考えない奴こそが面接でヤル気アピールができて、屈託のない笑顔を湛えて、就職の切符を手に入れるんだろうな、などと考えてしまう。

いつからか負のループが止まらない。俺は甘い考えから抜け出せていないのだろうか。心の成長がどこかで止まってしまっているような不安がいつもよぎっている。どうやったら面接に合格できるのだろう。いや、どこかに就職できたとしても、それで俺の人生は楽しいものになるんだろうか。

 何度読んだかわからない面接の対策本を読むのをやめてベッドに転がった。サブスクからオーイシマサヨシの「浪漫飛行」が呑気に流れてきた。この歌は親父が若い頃に流行っていた曲のカバーだ。自分がイヤで仕方ないこんな夜には似合わない前向きな曲調が、俺の気持ちを逆なでしているような気がした。

「カケル」と部屋の外からおふくろの声がした。誰とも話す気になれないときに限っておふくろはやってくる。その声を無視していたら「おつかれさま」と言いながら戸を開けて部屋に入ってきた。「勝手に入ってくんなよ」という俺の言葉を無視しておふくろは「スタバでコーヒー買ったから。休憩してるならどうぞ」と俺の机の上にコーヒーを置いた。おふくろは空気が読めない天然なところがある。あろうことかおふくろは俺の机に置いてある面接対策本やパソコンをしげしげと眺めはじめた。

「あ、この曲!浪漫飛行だよね。懐かしいなあ。誰が歌ってるの?」
「うるさいなあ。勝手に入ってきて、何やってんだよ」
「大変だよね。就職の面接がオンラインだなんて」
「いいから出てけって」
「はいはい。でもまさかこんな時代が来るなんて思わなかったよね」
「早く!」
「わかったわかった。でもカケルなら大丈夫!カケルは頑張り屋だから」

時代錯誤もいいとこだ。おふくろは何も分かってない。抑えていた怒りがふつふつと湧いてくるのを感じた。俺はガバっとベッドから立ち上がりおふくろを威嚇するように見下ろした。

「頑張り屋だったら大丈夫って何?」
「いや・・・カケルは頑張ってるから絶対に合格するって言ってるの」
「バッカじゃねえの?昭和じゃないんだよ」
「え?」
「今は頑張ったからって就職できる時代じゃないの」
「そんなことない。頑張ればカケルのいいとこ分かってくれる会社だって」「あのさ!コロナでどんどん会社がつぶれてるの。新入社員を獲る会社も減
 ってんの。頑張ればなんとかなる時代じゃないの。まったくどこまでも呑
 気な人だな!!」

おふくろは空気が読めないなりにようやく理解をしたのか、やっと黙ってくれた。こんな時代じゃなければ、もっと自由に動ければそれなりの会社に入ることだってできたと思う。おふくろが僕を応援しているのは分かっているが、だったらもう少し今の状況を勉強してくれと思う。そういうところがイライラするんだ。俺は大きなため息をついた。おふくろはようやく部屋を出て行ってくれるかと思ったらこちらを振り返った。

「あのさ、カケルは何になりたいの?」
「え?」
「私はカケルがなりたいものになってくれるなら何でもいいと思ってるよ。
 面接に合格してサラリーマンになるって言うならお母さん全力で応援す
 る。もし魚屋を継ぎたいなら私からもお父さんにお願いするし、プロバス
 ケの選手になりたいならランニング付き合う。最近流行ってるチ、チ、チ
 キチキチョッカーになりたいって言うなら」
「ティックトッカーな」
「あ、それ!」
「分かったから!ちょっと一人にしてくれるかな!」
「・・・ごめん。遅くまで頑張りすぎないで早く寝るのよ」

おふくろはそう言うとようやく部屋から出て行った。俺は大きなため息をついた。俺が何になりたいかだって?そんなの俺が一番知りたい。何になりたいか分からないから、まずはどこかの会社に勤めてそれからやりたいことを探すしかないじゃないか。そもそも自分が何がやりたいか分かっていて働くところを決められる人なんて数えるほどしかいないだろう。いや、もしかしたら分からないのは俺だけなのか。

専門学校の友達は数えるほどしかいないが、何になりたいかなんて話はしたことがない。英語学科に入ったのは特に英語に関係がある仕事がやりたかったからじゃない。英語が話せたほうが何かの役に立つと漠然と思ったからだ。結局その何かは今も見つかっていない。やりたいことを一番探したいのは俺なのに、親父もおふくろもそんな俺を責めているようにしか思えない。もしやりたいことがあったとして、やりたいことをしたとして、それが「夢が叶う」ということなら、夢が叶った後に、もしその「夢」が奪われるのだとしたら。夢のために努力することに何の意味があるんだろうか?俺はまたためいきをついた。

何かの気配に振り向くと両手を突き上げたハルさんが目の前にいた。「わーーーーー!」と驚いた俺は尻もちをつき、俺とハルさんは同時に「びっくりしたー!!」と声をあげた。ハルさんが「心臓止まるかと思った」と胸を押さえている。それはこっちのセリフだ。

「何してんだよ、こんな遅くに!」
「あ、もう寝る時間だった?ごめんごめん」
「何か用?」
「いや。用事ってほどのもんじゃねえんだけど」
「用がないなら自分の部屋に戻ってくれよ」
「カケルがさ、機嫌が悪そうだから。典ちゃんに向かって怒鳴ってる声とか
 聞こえてくるし。だから俺が話でも聞いてやろうかなーって」

就職試験にこれだけ落ちれば機嫌が悪くなるし、イライラするのは当たり前だろ。おふくろに当たってしまうのだって、おふくろがド天然なことばっかりするからだ。でも、そんな理由を口が裂けても言いたくないことぐらいハルさんだって大人なんだから分かるだろ。それにいくら10年一緒に住んでると言ったってハルさんは家族でも何でもない。余計なお世話だ。「話すことなんてないから」と言っても、ハルさんは全然出て行こうとせず俺が話すのを待っている。俺はそんなハルさんにもイラっとした。

「ハルさんには関係ねーから!出てけよ!」と俺はハルさんを突き飛ばしたのに、ハルさんはびくとも動かず俺のことをじっと見続けている。ときどきハルさんには心の中を見透かされてるように感じて怖くなることがある。今もハルさんの眼の奥には底知れない絶望と優しさが共存しているように見える。自信を持って話ができない俺は思わず目線を落とした。それを感じたからか、ハルさんはため息をついた。

「カケル、お前男らしくねえな」
「・・・・・・」
「お前、男らしくねえんだよ」
「分かってるよ。おふくろのことだろ」
「そう、典ちゃんのこと。いいか、もしも俺の嫁さんが誰かに八つ当たりさ
 れて怒鳴られてたら、俺はムチャクチャムカつく。カケルだって自分の好
 きな子が誰かに怒鳴られてたらムカつくだろ?」
「あのさ、家族のことに口を挟まないでくれる?」
「家族のことじゃねえ」
「家族のことだろ!」
「典ちゃんは俺の恩人の大切な人だ」
「俺の母親だよ!」
「そんなこと知るか!」
「は?」
「おまえの母親だか何だか知らねえけどな、俺は友さんの大切な典ちゃんを
 傷つける奴は、誰であっても許せねえんだよ!一人の男としてな!」

ハルさんの言っていることはメチャクチャだ。でも返す言葉が見つからなかった。俺は言葉が出なかった間に少し冷静になった。俺がおふくろにやり場のないイライラをぶつけてしまうのは、親子の関係を盾にしておふくろに甘えているからだ。俺は、おふくろが俺を甘やかしてくれることを知っている。だから俺はおふくろに酷いことを言ってもいいと思い込んでいた。だけどよく考えてみろ。二十歳の男が母親に甘えている姿。そんな男がいたら、こんなに見苦しい、みっともない奴はいない・・・それが今の俺だ。ハルさんが俺のみっともない部分に気付いていたと思うと恥ずかしくてたまらなくなった。俺は本当に情けない男だ。俺の中イライラがプシュっと音を立てて萎んでいった。

「やりたいことをやれって言われてるよ・・・親父からもおふくろからも」
「いい親じゃねえか、だったらやりたいことやったらいい」
「分かんないんだ。やりたいことが」
「カケルが好きなことしてみたらいいんだよ。あ、犯罪はダメだけどな」
「ないんだ」
「え?」
「ないんだよ。やりたいことも好きなことも」
「ないの?やりたいことも?好きなことも?・・・そんなことある?」
「仕方ないだろ。ないもんはないんだから」
「・・・」
「これ言うと、大体みんなハルさんみたいなリアクションになる。それも分
 かってる。だからイヤなんだ。やりたいことを聞かれるの」
「そっかあ・・・やりたいこと、ないのか」

ハルさんは残念そうに言った。俺たちくらいの年齢はやりたいことがなくちゃいけないのは万国共通のことなんだろうか。子供の頃はなりたいと思ってたことはたくさんあった。バスの運転手、警察官、学校の先生になりたいと思ってたこともあった。だけどいつからか、やりたいことも、なりたい自分も見つからなくなった。俺はハルさんにあえて意地悪な質問をしてみた。

「ハルさんは?ハルさんにはやりたいことあるの?」
「俺?俺は漁師だったな」
「違うよ。今。今のハルさんの夢は?」
「今の俺の夢?・・・俺はいいんだよ。こんなオジサンが今さら夢なんて」
「ズルいよ」
「ズルかねえよ。オジサンだぞ」

ハルさんはズルい。人生なんて意味がないと俺に教えたのはハルさんだ。あの震災に遭ったハルさんが、夢も希望も未来も一瞬で消えることを俺に教ええたんだ。ハルさんがうちに来た時の顔は今でも忘れられない。誰に言われたでもなく悲しみを隠すように陽気に振舞うハルさんをみたとき、小学生だった俺は大きな衝撃を受けた。

自分の心の傷に触れさせることを拒んだハルさんは、親父やおふくろや俺にずっと笑顔しか見せなかった。家族を失い、仲間を失い、故郷を失ったハルさんが一切の弱音を吐かないことに、僕は「失うこと」の底知れない怖ろしさを見せられたように感じていた。そのときに俺が感じた気持ちは今も断ち切ることができないままだ。そんなことを思っていたら、俺は絶対に言ってはいけないはずの言葉がポロリと出てしまった。

「俺、怖いんだ。ハルさんみたいになるのが」
「え?どういうこと?」
「やりたいことのために頑張っても、ある日突然何もかも失ってしまうかも  
 しれないだろ。ハルさんを見てたら生きてることに意味があるなんて思う
 ことのほうが間違ってるって思っちゃうんだ。だったらやりたいことなん
 て、夢なんていらないってずっと思ってた。だけどそれじゃどこも雇って
 もらえない・・・俺、どうしたらいいのかわかんねえよ」

ハルさんは怒っているだろうか。驚いているだろうか。それともいつものように笑ったふりをしているだろうか。俺は怖くてハルさんの顔を見ることができなかった。ハルさんにしてみれば何も分かってないガキが分かったようなことを言っていると思っただろう。俺はハルさんの悲しみや苦しみを1ミリも分かってあげられてないのに。しばらく沈黙があった後、ハルさんは今まで聞いたことがない、決意したような声で言った。

「カケル・・・海に行こうぜ」
「・・・・・・」
「こんなとこでウジウジ悩んでても答えなんて出てきやしねえ。海ってのは
 な、そういう時にこそ力を発揮してくれるもんなんだ」
「でもハルさん、海が嫌いだよね」
「嫌いだよ。でも行くんだよ!俺もそろそろ海と決着をつけないといけない
 と思ってたし。それに俺がいつまでも逃げてたらカケルの教育に悪いから
 な」
「結局俺のためかよ」
「そうだよ。明日は早いぞ!いますぐ寝ろ!」

どこまでも勝手なハルさんを止めることができないのは分かっている。ハルさんは俺の部屋の電気をいきなり消すと部屋を出て行った。

 次の朝早く、まだ暗い時間に俺はハルさんに叩き起こされた。親父があの時間に知り合いに連絡をして船を借りたらしい。親父はハルさんのすることは基本的に反対しない。でも俺が行かなかったらどうするつもりだったんだろうか。ハルさんにあんな話をしてしまった手前、行かないとは言えないのだが。ともあれ俺とハルさんはおふくろの作ったおむすびを持たされて、親父の車で横須賀の漁港まで向かうことになった。俺は昨夜ハルさんに余計なことを言ってしまったことをつくづく後悔して、後部座席で眠ることににした。

〇治一 (悪魔の海、大好きな海)

 朝の太陽が波に照り返して眩しい。乗船のとき友さんは「さすがに船舶免許不携帯はまずい」と何故か自分の免許を俺に手渡した。もし捕まったら全然意味はないはずだ。船の運転は久しぶりだったが身体はちゃんと覚えていた。そんな自分に何となく腹が立つ。潮の香りは良い思い出と共に、嫌いな思い出もしっかりと呼び戻す。借りた漁船は小さかったが今日の目的は釣りではないのでまったく問題はない。それにしてもどこまでも穏やかな凪だ。呑気にカモメが啼いている。俺は船を外海の少し手前で停留した。

 カケルは俺から距離を置いたところで釣り糸を垂らしていた。釣り糸が絡まないという意味で隣にいられるよりは良いのだが、どのみちこんな鏡みたいな凪じゃ賢い魚たちが船に寄ってくることはないだろう。

 俺はただただ静かな海を眺めていた。俺が大嫌いで、大好きだった海を。ベタ凪の海は京子ちゃんにプロポーズした日を思い出す。あの日と同じ静かな海。気持ちいい風が幸せな家族の日々を思い出させる。未来が生まれた日のこと、釣った魚を土産にして食べた晩ご飯、家族で夢を語り合った日のこと。未来に仕事をしているときの俺の顔を見せてみたかったなあ。お父ちゃんが海の男だってこと、未来は分かってくれてたのかなあ。

 カケルも海を眺めていた。未来もカケルと同じ歳だ。20歳の未来もカケルみたいに悩みに苦しんでいたかもしれない。そう思うとカケルのぶっきらぼう顔に未来の不機嫌な顔が重なって見えてくる。

「カケル!」
「ん?」
「海ってやっぱりでっけえよなあ」
「うん。でかい」

 昨日の辛そうな顔が少しサッパリしてるように見えた。胸の奥に溜まっていた俺への想いを吐きだせたからなのか、今見ている海の雄大さのおかげなのかは分からない。分からないけど何はともあれカケルを海に連れ出せてよかった。

 久しぶりに見た海は優しかった。だけど海はその優しさの奥に圧倒的な獰猛な牙を隠し持っている。優しく寄り添ってくれることもあれば、荒れ狂い人の命を暮らしをも奪う。人類が誕生するずっと前から存在する「海」は、俺たち人間には手に負えない地球の力そのものだ。だから海が俺の家族を奪うことも諦めるしかない。そんなこともあるだろう。

「・・・この海が石巻とつながってるなんて、信じられないな」
「・・・そうだね」
「やっぱ嫌いだわ・・・海のバッカヤロー!」

 俺は立ち上がり、力いっぱいの大声で海に向かって叫んだ。心の中に溜まった膿を吐き出すように、京子ちゃんと未来に届くようなでかい声で。いきなり俺が叫んだのでカケルはびっくりしたような顔をして俺を見た。カケルの視線に気付いて、俺は子供みたいな自分の行動にちょっと恥ずかしくなり「・・・なんてな」と付け加えた。

 カケルはしばらく俺の目線の先にある海を一緒に眺めていたが、意を決したように立ち上がり、俺の横まで来て聞いたことのない大声で叫んだ。

「バッカヤロー!!バッカヤロー!!バッカヤロー!!」

 カケルは何度も何度も叫び続けた。それが自分に対してなのか、友さんや典ちゃんに対してか、カケルを落とした会社の面接官に対してか、それとも俺に対してなのか。それとも・・・。まあ何でもいいや、カケルの心の中にある膿をこの海に全部吐きだしちまえ!

「バッキャロー!!バッキャロー!!バッキャロー!!」

 カケルは空気を吸うことも忘れたように力の限り叫んだ挙句、よろめいて倒れそうになった。俺は慌ててカケルを抱きかかえてゆっくりと座らせた。過呼吸のように息も絶え絶えにしていたカケルだが、その顔は泣き止んだ子供のよう晴れ晴れとしていた。俺はカケルに水を飲ませて、何事もなかったかのようにまた釣り糸を垂らした。少し休んだカケルは俺の横に腰をかけると、何事もなかったかのように釣り糸を垂らした。

 相変わらずゆったりと波打つ海面。時間すら止まってしまったような海の上で、俺たちは何も話さずただ遠くまで続く海を眺めていた。ただ太陽だけが少しずつ昇っていく。カケルがポツリと言った。

「俺、弱いんだ・・・自分が被害に遭ったわけでもないのに、あの震災があ
 ってから生きる意味がよく分からなくなって」

 東日本大震災はカケルが小学生のときに起こった。そのときのカケルは何を見たのだろう。東京でも地震の被害で交通網はストップし、コンビニから物がなくなり心配な日々を過ごしたはずだ。しかし、彼が影響を受けたものは、溢れんばかりのニュース映像、被災地の悲惨な日常の報道、大人たちの勝手な考え、政治家たちの不甲斐なさ、不透明な未来、誰が悪いかを探すように語るキャスター。

 小学生のカケルにとって、あのときに感じたのは、背負えないほどの責任感だったのではないだろうか。そしてとどめになったのが俺の存在だ。カケルは自分が被災していないことに罪悪感を感じている。

「ごめん。ハルさんは当事者なのに」

 カケルは他人の気持ちがわかる優しい奴だ。きっと自分の心を削ってまで俺の気持ちに寄り添おうとしていたのかもしれない。友さんの家に世話になり居心地がよくなかった俺に居場所を作ってくれたのはカケルだった。一緒にふざけたり、魚の捌き方を聞いてくれたり。俺を家族の一員のように扱ってくれたのはカケルだ。そんなカケルが精一杯正直な気持ちを俺にぶつけてくれている。俺にはそれに応えられる立派な言葉が見つからない。

「俺がカケルくらいのころは何にも考えてなかったな。東京に憧れてただけ
 のただのクソガキだった」
「ハルさんは東京に出てきて何になりたかったの?」
「別に。俺は東京に出たかっただけ。東京に行けば何かすごい奴になれると
 思ってた。20歳なんて今も昔もそんなもんだろ?」
「そこで親父に会ったんだよね」
「ああ、友さん自分が魚屋だから俺に漁師やれって言いだして。それで俺、
 漁師になったの」

 石巻から出たことのなかった俺は20歳になったときい思ったんだ。矢沢永吉や長渕剛のように東京に行けば何か生き甲斐が見つかるって。それで何も考えずに東京に向かう列車に飛び乗った。ただの若気の至りだな。だから全然上手くなんていかなかった。親からくすねた金はあっという間になくなり、俺は食うことにさえ窮するようになった。ある時上野の中華屋で食い逃げをしようと店から出て走って逃げたのだが、偶然店にいた友さんにあっという間に捕まった。あの頃の友さんはメチャクチャ強くて怖かった。

 友さんは俺の飯代を店に支払うと、凄みをきかせた声で「ついてこい」と言った。仕方なく俺がついていくと、友さんは自分の家に泊めてくれた。友さんの家はご存知の通り魚屋だ。二代目になったばかりの若社長の友さんは、しばらく俺を店で働かせてくれたが、ある日「お前、石巻に帰って漁師やれ。お前が獲ったその日の一番いい魚を俺の店に直接卸せ。分かったな」と言った。すっかり友さんの舎弟になっていた俺は友さんの命令に従って石巻に戻って漁師になった。

「今思うとメチャクチャ勝手な話だよな」
「それで漁師になったハルさんもすごいけど」
「でも、俺は友さんのおかげで漁師になれたんだ」
「そっか・・・親父とハルさんは二人で夢を追いかけてたんだね」
「そういえば、そうだったのかもしれないな」
「親父の若い頃の話、初めて聞いた」
「え?そうなの?」
「聞いても絶対教えてくれなかったからね」
「え!そ、そうなんだ」

 カケルに若い頃の話をしたのがバレたら友さんに殺されるかもしれない。でも待てよ、カケルの話を聞いてくれって言ったのは確か友さんだ。そうだよ、俺とカケルを二人にさせた友さんが悪いんだ。

「ハルさん、何でみんな怖がらずに夢を追いかけられるんだろう」
「何でって・・・」
「ハルさんの時代に夢を追いかけるのは分かるけど、俺たちの時代はあんな
 ことがあった後なのに・・・」

 カケルは「あんなこと」を東京で経験した。被災地の連中のように身を持って辛く悲しい経験をしたわけではない。でもカケルは被災地の若者と同じような苦しみを抱えている。人の気持ちは比べるものではなく、個人一人一人の感じ方の問題だろう。震災後、ニュースは被災地一色に染まった。テレビという箱の中で起こる出来事をどう受け止めるかは人それぞれだ。他人事としか思えない人もいれば、カケルのように真正面から受け止めてしまった人もいる。

ちょうどニューヨークで2001年に起きた「9.11」の時、俺は映画でも見ているような現実感のない感覚だった。それも全ての他人が俺と同じ感覚だったわけではないと思う。カケルのように9.11を映像で見たことで苦しんだ人だっていただろう。

 「あんなこと」があって、中年オジサンの俺は生きることを諦めたが、被災した連中には若者もたくさんいる。俺のわがままかも知れないが、若い連中には諦めて欲しくない。前へ進んで欲しいと思っている。
 東日本大震災はカケルのせいで起こったんじゃない。京子ちゃんと未来がいないことだってカケルには何の責任もない。もしカケルが俺と一緒に時計を止めてしまっているのなら、自分の未来がいいものだと信じて欲しい、もう一度時計のネジを巻き、前へ進んで欲しいと願っている。若者が夢を追いかけてはいけないなんていう枷はあってはならない。

「夢を追いかけることが生きる意味だからじゃねーかな。俺もずっとそう思
 って生きてきたし」
「ハルさんの生きる意味って何なの?」
「俺にとっては、メジ漁だな」
「ネジ?」
「違げーよ。メジ。クロマグロ」
「すごい。マグロ釣ってたんだ」
「おう、メジが引っかかった時は船がグワーッて傾くんだ。あいつら自分の
 命がかかってるって分かってんだ。だからそう簡単に人間様の思い通りに
 釣れる訳がねえ。そうなりゃこっちも命がけで釣らなくちゃいけねえっ
 て、本気になってメジと戦ってた・・・その瞬間に生きる意味ってやつを
 感じたな」

あの頃メジと戦った日々は、確かに俺にとっての生きる意味だった。きっかけは友さんのえげつないムチャ振りだったけど、仕事を覚えて、親方に怒鳴られて、それでも必死に漁師という仕事に食らいついていた日々こそが、俺の生きている証だった。

「カケル、生きがいなんて何でもいいんだよ」
「え?」
「俺はたまたま漁師になったけど、本気でやったからそれが生きがいになっ
 た。だけど、それがイタリア料理のシェフでも、サラリーマンでも、お笑
 い芸人でも・・・自分が進んだ道を必死でやってたらそれが生きがいにな
 る。やってみて全然向いてなかったら辞めるけど。カケルも何でもいいか
 らやってみたらいいんじゃねーか」
「ハルさんお笑い芸人目指してたの?」
「え?・・・め、目指してねえよ。メジ漁が生きがいだって言っただろ」
「目指してたんだ・・・」
「うるせーな!カケル、お前は今日からお笑い芸人を目指せ!」
「目指さないよ。絶対向いてないって分かってるだろ」
「まあ、確かに」

何で俺がお笑い芸人を目指したことがバレたんだ?カケルはそういう変な直感が働くのか?俺の言い方がヘンだったのか?俺が石巻でハガキ職人だったことを知ってるのか?いや、カケルがお笑い芸人を目指さないならそんなことはどうでもいい。俺は気を取り直した。

「いろいろ就職試験受けてるんだって?」
「全部落ちてるけどね」
「そうだろうな」
「ハルさん、それ結構失礼だよ」
「だってよ、カケルは前に進もうとしてないのが見えちゃってるんだよな」「・・・」
「カケルはさ、生きる意味が分からないんじゃない。将来を考えたくないん
 じゃねーか?」
「・・・」
「もしあの震災がきっかけなら、情報じゃなくちゃんと真実と向き合ってみ
 たらどうだ?」

もしカケルがあの震災で自分の時計を止めてしまったのなら、その原因は震災そのものじゃなく、カケルの中で「作り上げた」震災だと思った。もしそうなら、東日本大震災がどんなもので今の被災地がどうなっているのか、真実を知れば時計は動き出すのではないか。だが俺の言葉にカケルは思わぬ返しをした。「それってハルさんが言えること?」

「俺知ってるよ。俺よりもハルさんのほうが何も見てない。うちに来た時か
 ら10年間ずっと」

俺が10年間死んだような生き方をしていたことで、カケルは夢を見ることに無意味さを感じている。諸行無常であれば何をやっても無駄だと思うならそれは違う。俺は自分が幸せになるために、夢を叶えるために生きた時間にこそ生きる価値があると信じている。だが俺にはカケルを納得させるような言葉は出てこなかった。

「カケル、俺はあの日に死んだんだ。京子と未来と一緒に。ただ、それまで
 の日々には夢しかなかった。生き甲斐があった。そのことが大事なんだ。 
 カケルが俺と会ったときにはそれが終わっていただけだ。俺が燃えカスに
 なる前のことを見てくれよ」

カケルは何も言わなかった。それは俺のことを慮ってなのか、あの震災のことを考えていたからなのかは分からない。俺は、何故あの日にあの場所で震災が起こったのか、この10年何度も何度も考えた。でもそこに答えなんてあるはずがないことも分かっていた。

「カケル。震災は起こっちまったんだ」
「・・・」
「それでも、前に進まなくちゃいけねえんだ。本当は・・・俺もな」
「ハルさん」
「きっとそれが震災で亡くなった人たちの願いなんだよな」

カケルは「そうだよ」と俺のほうを向いて言った。だが俺はカケルを見返すことができなかった。俺は前に進む勇気なんてないし、前に進む権利すら持ち合わせていない。俺は京子ちゃんと未来を見捨てたんだから。俺はでかい海をただ眺めた。あるのは京子ちゃんと未来との優しい過去だけだ。


 その日、俺は急ぎ足で家に帰った。「ただいま」と玄関の扉を開けると、当たり前のように京子ちゃんと未来が玄関まで出迎えてくれる。未来が「父ちゃんおかえり」と言ってくれたところで、俺はジャジャーンと買ってきたプレゼントの箱を出した。普段こんなことをしていないので「ジャジャーン」と言ったがそれがいいのかどうかも分からない。

未来は「やった!開けていい?」と目を輝かせて聞いてきた。俺は数年前に買ったアディダスを脱ぎながら「おう!開けろ開けろ」と急かすと未来はさっそく箱のふたを開けた。

 箱の中には金ピカのハーモニカが入っている。「わ!カッコいい!」未来は素直に喜んでくれた。「でもこれ、高かったんじゃない?」と京子ちゃんがケチ臭いことを言うので「俺にもたまには親父らしいことをさせてよ」と鼻高々に言った。「未来は長渕にハマってるぞ」と親方から情報を得ていたので早速歌ってみせた。

「かんぱーい、今、君はじーんせーいのー」
「なにそれ?」
「え、ハーモニカと言えばナガブチだろ。未来がナガブチにハマってるって
 聞いたから買ってきた」
「なにそれ?私がハマってるのはアニー・ローリーだよ。学校で習ったの」
「アニー・ローリーだと?」

すると京子ちゃんが嬉しそうに歌い出した。

「なつかーし川辺に、つーゆーはあーれーどー」
「ああ、その曲か。どっかで聞いたことある」
「え、お父ちゃん覚えてないの?」
「知ってるよ。有名な曲だよね。もしかしてテレビでやってたんじゃな
 い?」

俺がそう言うと京子ちゃんの機嫌がみるみる悪くなっていった。

「なになに?俺、何か気に障ること言った?」
「もう知らない!」
「すいません、教えてください」
「覚えてないならもう結構です」

京子ちゃんの雷がドーンと落ちると円満な家庭がいきなり停電したように真っ暗になってしまう。そのことをよく分かってる未来は慌てて俺と京子ちゃんの間に入ってきた。

「そうだ!私がハーモニカ吹けるようになったら二人でアニー・ローリーを
 歌ってよ!ね!そうしてよ」
「おお、おお、歌おう歌おう!ね、京子ちゃん!」
「もう・・・」
「よーし、張り切って歌うぞー!」
「それまでにちゃんと歌詞を覚えてね」
「おう!覚える覚える!ね、京子ちゃん?」
「私は知ってます。覚えるのはお父ちゃんでしょ」
「おお俺だ。覚えるのは俺だった。よーしすぐに覚えちゃうぞー!!」
「まったく調子いいんだから」

そういって京子ちゃんは笑った。しかしアニー・ローリーを三人でセッションする日はとうとう来なかった。
 俺の横ではカケルがはるか遠くまで続く海をじっと眺めている。気が付くと「震災は起こっちまった」という自分の言葉がそのまま重く圧しかかっていた。俺は固まっていた顔を笑顔に変えて、カケルに「昼メシにしようぜ」と言った。

(5)

〇真子 (おじいちゃんとハルさん)

 さて、これからキヨコちゃんをひまわりホームに迎えに行って、そのまま夕飯の買い出しで駅前のイオンへ。何といっても今日は4時からスーパータイムセールがあるらしい。なんとこのセールはネットでしかゲットできないレア情報なのだ!

 キヨコちゃんを迎えに行ったまでは予定通りだったんだが、イオンに向かう途中でキヨコちゃんが駄々をこねだした。先日キヨコちゃんを保護してくれた商店街の魚屋さんと約束があると言いだしたのだ。約束なんてあるわけないし、私は店の場所を覚えていないので連れて行くこともできない。何よりもイオンのタイムセールが始まっちゃう。キヨコちゃんは私の言うことに聞く耳を持たず、勝手に道を曲がっていっちゃった。キヨコちゃんが道を覚えてるはずないのに。

 キヨコちゃんは付いてこいと言わんばかりにトコトコと行ってしまう。キヨコちゃん!と呼んでも聞いてくれない。「真子、気持ちいい風だねえ」などと呑気に言うばかりだ。知らない角を何度か曲がると、まさかの見覚えのある商店街が出てきた。たしかこの商店街の一番奥がキヨコちゃんを助けてくれた魚屋さんだ。キヨコちゃんが何故この店まで来れたのか?考えても仕方ない。ただの偶然だ。

 店の前には魚屋さんがひとり、椅子に座っている。どうやら居眠りをしているようだ。読みかけの雑誌を手にしたまま舟をこいでいる。キヨコちゃんが魚屋さんが寝ているのに気付かず声をかけようとするので、私は声を潜めて「寝てるよ」と言った。キヨコちゃんは頷いて「寝てるね」と言ったので
「また今度にしてイオンに行こう」と道を戻ろうとしたら、キヨコちゃんは店員さんの手から雑誌を奪い取り、その雑誌で店員さんの頭をはたいた。店員さんは慌てて立ち上がろうとして転んだ。

「わー!キヨコちゃん何してんの!」
「あんた!寝てんじゃないよ」
「あ痛ーーーっ!あ、こないだのおばあちゃんじゃないですか」
「すいません。先日はありがとうございました」
「いえいえとんでもない。今日は何をお探しで?」
「いえ。お魚はイオンのタイムセールで買うんで」
「あ、そう。冷やかしだったら間に合ってますんで。イオンへどうぞ」
「はい、すいません。ほらキヨコちゃん行こう!」

キヨコちゃんの手を引くと、キヨコちゃんは私の手を振りほどき「あたしゃハルに会いに来たんだよ」と店員さんに言った。

「ハルって、ハル?」
「そう、アタシを抱きたがってるハルだ」
「ハルがおばあちゃんを?」

店員さんは助けを求めるように私を見た。キヨコちゃんは認知症になってから、時々おじいちゃんとの夜の営みを思い出すらしくこういう発言をする。こういうときは否定しないほうがいい。

「とりあえず店員さんが抱いてくれれば満足すると思うんで」
「俺が?」
「あんたじゃダメだ。ハルだ」

店員さんはあっさりとキヨコちゃんに振られた。私はなんだか申し訳ない気持ちになった。そっか、こないだキヨコちゃんを助けてくれたとき、ちょっと浮世離れした感じの怖い顔の人がいた。あの人がハルだ。キヨコちゃんは相変わらず男のセンスが悪いな。店員さんは振られたくせにちょっとホッとしたような顔をした。

「それを聞いたらハルもきっと泣いて喜ぶよ」
「ハルがいくらアタシを抱きたがってもアタシは抱かせないけどな」
「あ、そうなの。でも残念ながら、今ハルいないんだ」
「いないのかい?」
「いないんだってキヨコちゃん。イオン行こ!」
「いつ帰ってくるのじゃ」
「知りませんよ。俺だって見張ってるわけじゃないんだから」
「ほら、お刺身のタイムセール間に合わなくなったら困るでしょ」
「いやじゃ」
「あ、刺身だったらうちの試食してみません?」
「今日は時間がないのでまた今度」
「ああそうですか、そうですか」
「はい。キヨコちゃん行こ!」

もう時間がない。一刻も早くイオンに行かないと。キヨコちゃんを置いていくわけにもいかない。キヨコちゃんは素早く店内の柱にしがみついて「アタシはハルに会いたいんじゃ」と聞かない。もう間に合わないかもしれない。お母さんには「今夜はお刺身だよ」ってライン打っちゃってるし。お刺身が手に入らないとなると今日のおかずはどうしたらいいんだろう。私は頭の中でいろいろなことを計算していた。

店の裏側から「ただいまー」と声がした。「あ、帰ってきたかな」と店員さんがキヨコちゃんに向かって言うと、キヨコちゃんの顔がパッと明るくなった。しかし店に入ってきたのは私よりも年下っぽい男の子だった。キヨコちゃんは男の子にグイグイと近づいて行ったが、顔を見るや「ハルじゃないじゃないか」とあからさまにガッカリした顔になった。

男の子は無愛想な声で「いらっしゃいませ」と私に言った。あれ・・・?私、この子のこと知ってるぞ?と思うと同時に懐かしさが押し寄せた。「カケル?カケルだよね?」と声をかけると男の子は私を二度見して驚いたように私に指を差した。

「え?真子さんじゃないですか。お久しぶりです」
「ここ、カケルの家だったんだ」
「あ、ええ」

店員さんは怪訝そうに「知り合い?」とカケルに聞いた。キヨコちゃんがすかさず「許嫁じゃ!」と訳の分からないことを言いだすので、店員さんとカケルは顔を見合わせた。私は笑顔を作った。

「違います。高校の先輩後輩なんです」
「いつもカケルがお世話になってます」
「親父は黙ってろよ」
「あ、カケルのお父さん?」

私が聞くと、カケルは何故かバツが悪そうに「はい」と答えた。言われてみれば似てなくもないが、身長ばかり高いカケルに比べて店員さん、いやお父さんはガタイのいいタイプだ。

お父さんは嬉しそうに「ああそうだ。刺身持っていきます?」と私に言うので、私はちょっと大げさに「えっ!タダでいただけるんですか?」と喜んで見せた。イオンのセールに間に合わなかったのでとてもありがたい。お母さんとの約束も果たせた。

お父さんは一瞬何かに逡巡していたが「ええ。持ってってください。じゃあ刺身にしてくるからちょっと待ってて」と言い、良さげな柵を持って奥へ行った。キヨコちゃんはお父さんの様子を伺いながらウロウロしている。

「カケル、今もバスケ続けてるの?」
「いえ。もう高校で辞めました」
「そうなの?勿体ない」
「これ!許嫁なんだからシャキっとせい!」

キヨコちゃんがいきなりカケルの背中をドンと叩きながら言った。カケルはビックリしてキヨコちゃんを見た。「ごめんね。これ私のおばあちゃんのキヨコちゃん。時々変なこと言うけど気にしないであげて」とキヨコちゃんを捕まえた。それを見たカケルが「じゃあ」と言って去っていこうした。

「カケル!またバスケやろ。みんなで集まるとき誘うから。ライン変わって
 ないよね」
「はい」
「オッケー!またね」

カケルは会釈するとそのまま家に入ってしまった。カケルは昔、何かを吹っ切るように誰よりもストイックにバスケに向き合っていたように見えた。バスケが好きというよりも、バスケに集中することで何かから逃げているようにも感じた、ちょっと私を心配させるような子だった。そんなカケルと久々に会った今も、もがいているように感じた。一度みんなを集めて話を聞く機会を作ってあげようと思う。

 そんなことを考えていたら「カケル!クーラーボックスちゃんと元のとこに置いとけっつたろ!」とぶつくさ文句を言いながら、強面のオジサンが来た。キヨコちゃんがその人にふらふらと近づいて行く。

「ジーサン!どこに行ってたんじゃ!」
「わ、キヨコじゃねーか。どうした?また迷子か」

キヨコちゃんはオジサンを愛おしそうに抱きしめた。ははあ、この人がハルか。キヨコちゃんはハルをおじいちゃんと間違えてるんだな。私は「ハルさん、キヨコちゃんを抱いてやってください!」と頼んだ。
ハルは「え?いやいや、すでに抱かれてるのは俺のほうだし」と言いながらもキヨコちゃんの身体に手を回した。キヨコちゃんはしばらくハルに抱かれながら恍惚の表情を浮かべていたが、ハルの顔を見るとはっとしてハルの腕を振りほどいた。

「あんたジーサンじゃない!」
「そう。ジーサンじゃないんだよ。俺はハルだって前も言ったよね」
「ジーサンはどこだ。ジーサンは?あんた知ってるだろ」
「悪いけど俺はキヨコのジーサンのことは知らないんだ。もしかしたら津波
 で流されたんじゃないのか」
「ああ、随分前にジーサンは流されていっちまった」
「やっぱりそうか・・・じゃあジーサンに会うのは難しいかもしれねえな
 あ」
「なんでじゃ?」
「あのなキヨコ。よく聞けよ。津波に流されちゃって今も会えないってこと
 はジーサンは天国に行っちゃったってことなんだ」

ハルは辛そうな顔を見せないように言った。私もお母さんもキヨコちゃんにおじいちゃんが死んだことはこれまで言えずにいたので、見ず知らずのハルに正論を言われたキヨコちゃんはあきらかに動揺していた。キヨコちゃんの顔は見る見る真っ赤になっていった。

「あんたに何が分かる。何があったってジーサンは生きてる。あんなしぶと
 い男はいない。いないんじゃあー」

そう言うと、わーっと大きな声で泣き出した。ハルは「確かにそうとは決まったわけじゃねえよな」とキヨコちゃんを今更ながら慰めはじめた。キヨコちゃんはハルの胸を何度も何度も叩いて泣いている。自分が蒔いた種とはいえハルはどうしたらいいか分からずただただ胸を叩かれている。カケルのお父さんが「ハル、今のはハルが悪いぞ」と言うと、キヨコちゃんは顔を上げてハルを見るといきなり恋する女の顔になった。

「おや、ジーサン!・・・ジーサンじゃないか」
「だから、俺はジーサンじゃ・・・」

と言いかけたとき、カケルのお父さんがハルを指さして言った。「あ、本当だ!ジーサンだ!」それを聞いたハルはカケルのお父さんに目くばせで反論したが、認知症のキヨコちゃんはますます妄想の中に入り込んでしまった。

「ああ、良かった。やっと、やっと、ジーサンに会えたよ」

カケルのお父さんはキヨコちゃんに「良かったね。良かったね」と言いながらハルに芝居をするように目で命令している。ハルは後に引けなくなってしまい、キヨコを抱き寄せた。私はどんな気持ちでこの様子を見ればいいのか分からなかったが、何故か胸が熱くなるのを感じた。

「キヨコ、ワシもずっとキヨコを探してたんじゃ」
「ジーサン!」
「キヨコ!」
「ジーサン、いつものようなとびきり熱いキッスをしておくれ」
「いやちょっと待てキヨコ。こんな人前で」
「今さら何を言うんじゃ。アタシゃ構わないよ」

キヨコちゃんは目を閉じて、ジーサンからの熱いキッスを待っている。カケルのお父さんは「キッスしてやれ!男ならやれ!」とばかりにハルに無言の圧力をかけている。私も同じ気持ちだ。キヨコちゃんがちょっとの間だけでも幸せを感じられるならキッスぐらいしてあげて欲しい。そんな中、キヨコちゃんは少女のような顔をしてキッスを待っている。ハルにもその気持ちは伝わったらしく、覚悟を決めた。

「よし!キヨコ!キッスするぞ!」
「はい・・・」

二人の唇の距離が徐々に縮まっていく。私までドキドキしてきた。だがあと一歩のところでハルは思いきれず、二人の距離が3センチのところから縮まらない。みんなが見守る中、不意にキヨコちゃんは目を開け、ハルの目を見ると、少女の顔からいつものキヨコちゃんの顔に戻っていった。キヨコちゃんはゆっくりとハルから体を離して呟いた。

「ジーサンはどこにいっちまったのかねえ・・・」

私の目から思わず涙がこぼれ出した。キヨコちゃんとおじいちゃんはケンカばかりしていたが仲良しだった。大好きなおじいちゃんを失ったキヨコちゃんの気持ちは計り知れない。私はキヨコちゃんとおじいちゃんが私を可愛がってくれた日々を思い出して泣いているのか、それとも同じ女としてキヨコちゃんの純愛に泣いているのか。ここにいる誰もがキヨコちゃんのおじいちゃんの気持ちを感じた。ハルはおじいちゃんの代わりではなく、ハルとしてキヨコちゃんをギュッと抱きしめた。

「ハル・・・」
「おう」
「あんた、ジーサンと同じニオイがする」
「マジかよ」

ハルは複雑な表情になって、自分の身体のニオイを嗅いだ。そりゃオジサンなんだから加齢臭くらいするだろう。私はおじいちゃんと同じニオイがするというハルのニオイを嗅ぎたくなったが、変な奴だと思われたくないので我慢した。キヨコちゃんはおじいちゃんのニオイに包まれて言った。

「ありがとな、ハル」

私はキヨコちゃんの人生が素晴らしいものだったのだなと感じていた。イオンのタイムセールには行けなかったけど、晩ご飯はキヨコちゃんにこの店のお刺身を一切れ多く食べさせてあげようと思う。そしてまだ開眼供養すらしていないおじいちゃんの仏前にもお刺身を供えよう。そうだ!カケルのために高校バスケ部同期のグループラインにも連絡をしなくちゃ。

(6)

〇カケル (分かってる感)

 高校の頃から真子さんの行動力がすごかったのを思い出した。真子さんの一声で、バスケ部OBのグループラインには真子さんの代とその上の代、そして俺の代とその下の代の元バスケ部員の50人以上が参加した。マネージャーだった真子さんは男女問わず皆に好かれる姉御気質で人情派タイプだったが、僕にとっては不思議な存在でもあった。「真子さんのおばあちゃんは東日本大震災で被災していた」という噂を聞いたとき、僕の心はざわざわした。いつも快活な真子さんと「被災」と言う言葉がどうしてもリンクしなかったからだ。その噂が本当なのかウソなのか聞くことができないまま真子さんは卒業してしまった。

 コロナ禍だというのに真子さんが招集をかけると15人のOBが集まり、僕は久しぶりにバスケットボールを触った。久しぶりに身体を動かせるのと懐かしい面々に会えたことで僕ははしゃいでしまったと思う。高校時代の何も考えないでいられた時間が懐かしかった。先輩の一人が、将来何になるつもりなのかと聞いてきた。「今のところノーアイデアです」と答えると、先輩は「とりあえずやりたいことやれよ」と言うだけ言って他の仲間のところへ行ってしまった。ハルさんは「何でもいいからやってみたらいいんじゃない?」と言っていた。モヤモヤしているのがイヤで、コートに戻りとにかく汗をかいた。

 このご時世なので終わった後に飲みに行くようなことはなく、みんな粛々と思ったより早めに帰っていった。僕が黙々とゴールの練習をしていると、気付けばコートには真子さんと二人だけになっていた。こないだ真子さんがうちに来た時に一緒にいたおばあちゃんは少し認知症になっていたように思えた。あの日以来、僕はあの噂が気になり始めていた。

「俺らの代のユニフォームのデザインしてくれたの真子さんでしたよね」「そう!よく覚えてるね」
「カッコ良かったですから、あのユニフォーム」
「だよね!あのデザインは今でも私の自信作だよ」
「真子さん、確かデザイン系の会社に就職したんでしたっけ」
「うん、そうだよ」
「夢を叶えたって感じですね。真子さんすごいって思ってました」
「ありがとう。でも会社はやめちゃったんだ」
「え?何でです?」

真子さんはボールをパスするように「ヘイ!」と言って右手を上げた。僕はゆるいパスを投げた。真子さんはボールを受け取り華麗なシュートを打ち、見事にネットを揺らした。真子さんは笑顔でこちらを見てから明るい声で言った。

「東日本大震災でおじいちゃんが死んでから、おばあちゃんが少しずつボケ
 始めちゃったんだよね。そしたらコロナになったでしょ。で、心配だから
 一緒に住むことにしたんだけど、うち母子家庭だからさ。時間の融通が利
 くように会社を辞めてバイトにしたの」

僕が長年気になっていたことを真子さんは隠すこともなくサラッと教えてくれた。震災でおじいちゃんを失ったときは、大変な心の傷を負ったに違いない。それでも真子さんは自分の夢を見つけて、夢に向かって進んでいった。そしておばあちゃんのために自分の夢を諦めてしまった。何故真子さんはこんなに明るく振舞えるのか理解できない。

「余計なこと訊いちゃって、すいません」
「でもね。今もデザインの勉強は続けてるんだ。独学だけどね。だってやり
 たいことはやりたいじゃん。誰かのせいにして夢を諦めるなんてことはし
 たくないからね」
「・・・そうですよね」

言葉が見つからなかった。真子さんが前向きさを知れば知るほど自分がどれだけ甘ったれているのかと思う。真子さんは何があっても自分の夢に対して真摯に向き合い続けている。僕は自分の未来が見えないことを何かのせいにしようとしている。分かっているけれどそれが何のせいなのか見つけられない。そのことがもどかしいんだ。

「おじいさん、被災したんですね」
「カケル、女川ってわかる?」
「石巻の隣ですよね。たしか震災の被害が大きかった・・・」
「そう。おばあちゃんは高台の集会所にいたから助かったんだけど」
「真子さん、女川に行ったんですか」
「おじいちゃんが行方不明だったからね。その間キヨコちゃんを一人にして
 おくわけにも行かなかったでしょ。だからお母さんと二人でしばらく女川
 にいたんだ」
「そうだったんですね・・・」

そう言うのが精いっぱいで僕は黙り込んでしまった。

「そういえばカケルは被災地に行ったことある?」
「いえ・・・」
「そっか。私、あのときに見た景色は今でも忘れられない・・・たぶん一生
 忘れられないと思う」
「どんな景色だったんですか」
「・・・女川の町を巨大な手が掴み取っていったみたいだった」
「巨大な・・・手」
「何だか分からないんだけどね、そのときに『ああ、もうダメだな』って漠
 然と思ったのを覚えてる」

真子さんはその時に女川で見た景色を鮮明に思い出しているように見え、それと同時にそのときの絶望的な気持ちを俯瞰しているようにも見えた。真子さんはあのときの景色と、においと、風と、暮らしを感じた経験がある。そんな風に真子さんを見ていたら、不意に言葉が口を衝いて出た。

「その景色、俺も見ておけばよかったのかなあ」
「何で」
「俺、ずっと東京にいてニュースでしかあの震災のこと知らないから」
「そうだね・・・ニュースだけじゃ分からないことだらけかもしれない」

真子さんのいう通り、僕にとっての東日本大震災はテレビという箱の中の出来事でしかない。死者・行方不明者が2万人を超えたということもピンと来ない。人が死ぬという事象を数で表現されても受け止めきれないと思う。ニュースでは亡くなった方一人一人に愛する人がいるという事実よりも被害の規模感や感動を呼ぶもの、あとは政府の無能さばかり取り上げていたように感じる。テレビの箱の中にあった震災は、僕の中で感じているものとは大きく乖離していただろう。だからハルさんが来たとき、僕は知っていると思っていた情報との違いに狼狽したのかもしれない。

「あの年の夏、親父が石巻の友達を家に連れてきたんです」
「ああ、ハルさんだっけ。元気そうだけど死んだような顔をしてる」
「俺、おふくろがハルさんを迎え入れたときの感じが忘れられなくて」
「どんな?」
「ハルさんの気持ちに寄り添ってるフリっていうか、雰囲気でハルさんの気
 持ちをはぐらかしているっていうか。共感してるってアピールをしてるだ
 けっていうか・・・俺も同じだったんですけど、なんか違うって。子供な
 がらにおふくろへの不信感を感じちゃったんです」
「・・・」
「おふくろがもっとハルさんの気持ちを分かってあげてたら、俺もこんな気
 持ちじゃなくて、しっかりあの震災を受け止められてたんじゃないかって
 思って。ハルさんにもっと寄り添えてたら、今とは違うもっとちゃんとし
 た考え方ができてたんじゃないかって」

気が付くと俺はとめどなくおふくろへの不満を語っていた。真子さんが「ストップ」と止めてくれるまでそのことにすら気付かなかった。真子さんは怒っているような、憐れんでいるような、悲しんでいるような顔をしていた。それは今までに見たことがない顔だった。

「そんなの当たり前じゃん」
「え?」
「他人の気持ちなんて分からないのが当たり前」
「でも分かってあげたいじゃないですか」
「絶対に無理。自分が同じ経験をしているならまだしも」
「俺は気持ちを分かってあげたかったんです」
「カケル・・・それっておこがましいよ」
「おこがましい?」
「震災で辛い思いをした人の気持ちをカケルが分かってあげる?そんなこと
 絶対にできない。私はカケルにそんな風に思われてたお母さんのほうがよ
 っぽどかわいそうだよ」

ぐうの音も出なかった。小学生だった俺は、おふくろに期待し過ぎていたんだ。おふくろはハルさんに俺の思ったような立派な態度で接することができなかった。俺と同じテレビでしか情報がなかったおふくろに、俺は求め過ぎていた。小学生だったんだから母親に過度の期待をすることはあるだろう。でも俺は大人になった今日まで同じ気持ちのままでいたのだ。ひどいマザコンだったことに気付いた俺は恥ずかしくなった。真子さんは僕を元気づけようとして、僕の背中をドスッと強く叩いた。

「みんな色々あるんだよ。人の気持ちはひとつじゃない。そのもそテレビの
 ニュースが正解なわけないじゃん。震災の被災者だからってみんな同じこ
 とを考えてる訳じゃない。みんなそれぞれの辛さを抱えてる。それにカケ
 ルみたいな悩みを持つ頃だったある。それぞれがそれぞれに辛さに耐えな
 くちゃいけないし、乗り越えたいと思ってる。だってそれでも生きていく
 しかないじゃん」
「俺、カッコ悪いっすね」
「そんなことないよ。何も考えないよりはずっといいと思うよ」

 そのときコートの奥からガシャーンと何かが落ちる音がした。見るとそこには買い物袋を派手に落としてしまったおふくろがいた。おふくろは俺に気付かれて分かりやすく「しまった!」という顔をしたかと思うと「ごめん!なんでもないです!」と言ってそそくさと立ち去ろうとした。俺はそのまま見過ごしてあげようと思ったが、真子さんがおふくろに近づいて行き「こんにちわ!こないだはキヨコちゃんがお世話になりました。ありがとうございました!」と言った。おふくろは真子さんに愛想笑いで応えていた。

〇典子 (相手との距離感)

 アンチイオンのお父さんやハルさんには悪いと思いながらも結局イオンで買い物をしてしまう。申し訳程度に男たちにはスタバのストロベリーフラペチーノをお土産に買ってきた。帰り道の途中、屋外のバスケットコートに若い男女が二人で話をしているのが見えた。コロナ禍ではあるけれどやっぱり若い二人は離れられないものだよね、なんて思っていたら男の子はカケルではないか。家では機嫌悪くしていてもやっぱり青春してるんだな。私はちょっと安心して二人を見ていた。風下にいるからか、二人の声はよく聞こえてしまうので私は隠れて話を聞くことにした。

 話を聞いていると二人は全然恋愛の話をしていなかった。ハルさんが東京で暮らすことになったとき、私の対応がウソっぽかったことで幼いカケルの心が傷つけられたと聞こえてきた。私は驚いた。確かに私はハルさんが笑顔で接してくれる度、その心の裏側を見ないようにしていたけど、そのことにカケルが気付いていたなんて。二人の話を聞いているうちに、体の力が抜けてしまっていたらしく、イオンで買ってきたものたちをガシャンと落としてしまった。思わずカケルを見ると目が合ってしまった。

「ごめん、何でもないです!」

無理やりにでも他人のフリをしてその場を立ち去らなくては!とりあえず逃げるようにそそくさと歩き出したら女の子のほうに声をかけられた。

「こんにちわ!こないだはキヨコちゃんがお世話になりました」
「あっ!あのときのおばあちゃんのお孫さん!」
「はい、本当に助かりました。ありがとうございました!」
「いえいえとんでもない。・・・もしやカケルとはそういうご関係で?」
「何バカなこと言ってんだよ。真子さんは俺の高校の先輩。今日は高校の仲
 間と久しぶりにバスケやってたの」
「はいはい。じゃあ私は先に帰ってるね」

とにかく早くカケルから離れたかった。私はカケルの母親として何ひとつとして教えられていない。それどころか悪い大人の見本としてカケルの心を傷つけていたのだ。そう思うと私はカケルと顔を合わせられない。それなのにお孫さんの真子ちゃんがそれを許してくれなかった。彼女は私のことを真っすぐに見た。

「あの、カケルのことよろしくお願いします!」
「いえいえ、こちらこそです」
「話、聞いてあげてください。自分からは言いにくいみたいなんで」
「真子さん!やめてください」

カケルも私と二人になることを嫌がっている。しかし真子ちゃんはお構いなしだ。「じゃあ失礼します。カケルまたね!」と言って行ってしまおうとしたが、戻ってきて「あ、ボール私のだから」とボールをカケルから奪い取るとサッサと帰ってしまった。私とカケルは何も言えず、二人で真子ちゃんを見送っていた。気まずい・・・。親子なのに何故こんなに気まずいんだ。変な空気を変えたいのか、カケルが仕方なさそうに言った。

「まったく・・・いつからいたんだよ」
「治一さんがうちに来たときの話くらいから」
「マジかよ・・・」

カケルもまた私から逃げたいんだろうな、と思った。だけどカケルがそういうときに気を遣ってしまうのは分かっている。だから逃げるわけにもいかずイライラと突っ立っている。そんなカケルのことを思うと私は思わず「ごめんね」と言ってしまった。

「別におふくろのせいじゃねーし」
「そうじゃなくて、ごめん」
「何が?」
「カケルが言ってた通りだよ・・・私、あの震災が一体何だったのか全然わ
 からなくて。ニュースを見ても全然実感がわかなかったの。だから治一さ
 んが来たときはどうしたらいいか分からなくなっちゃって。それっぽい言
 葉で適当にあしらおうとしてたんだと思う。そんなの大人としてカケルに
 絶対に見せちゃいけない姿だったよね。ホントごめん」
「別に・・・。それは俺の問題だから」
「さっきカケルの言葉を聞きながら反省した。私は今の今まで治一さんにち 
 ゃんと向き合って来なかった。もう10年もあったのに。私は一度もちゃ
 んと考えてあげたことがなかった」
「・・・」
「治一さん、いっつも笑ってて私たちに弱いところを一度も見せてくれたこ
 とがなかったでしょ。だからずっとその笑顔を鵜呑みにしてた・・・違う 
 な、私は鵜呑みにしたかったんだ。それ以上考えたくなかったから。でも
 カケルはそうじゃなかった。ちゃんと治一さんのこと考えてた。治一さん
 がどんな気持ちでいるのかすごく考えてあげてたんだね・・・。やっぱり
 私はダメだなあ。カケルはすごいよ。ちゃんとしてる」
「俺だってハルさんの気持ちなんて分かんないよ。ただ、ニュースで見た震
 災の映像よりも、ハルさんの笑顔を見てるほうが胸が痛くなるだけで」「そうだね。だから私はずっと見ないようにしてた。逃げてたんだ」
「俺はまだ子供だったから」
「子供だったから逃げられなかったんだよね・・・私は大事な子供を置いて
 一人だけ逃げてたんだなあ。本当に自分がイヤになっちゃう。年齢ばっか
 り増えていくだけで全然大人じゃない・・・最悪だよ」
「しかたねーじゃん。あの時は緊急事態だったんだから」
「本当にごめん!私、変わるから。絶対ちゃんとした大人になるから」
「もう、そういうとこ!」
「え?」
「そんなんだからおふくろのこと嫌いになれないんだよ」
「すいません・・・」

私はつくづく自分の愚かで怖がりで自尊心の強いところが嫌いだ。ただカケルが私のことを受け入れてくれていると感じて嬉しくなった。もっと反省しなくちゃいけないと分かっていても、カケルがこんな私を母親だと思ってくれていることが嬉しかった。カケルは最高にいい大人に育ってくれている。私なんかよりずっと。

「何笑ってんだよ」
「いや、笑ってない」
「ホントちゃんとしてよね。母親なんだから」
「はい・・・それよりあれ食べる?スタバで買ってきたの」

ストロベリーフラペチーノは、さっき落っことした弾みでフタが取れてしまってぐちゃぐちゃになっていた。

「これ・・・」
「出すなよ。家に帰ったら皿によそえばいいだろ」
「お、さすがカケル。そうしよう」

カケルは買い物袋を私から取り上げると「行くよ」と言って先にスタスタと歩き出した。私は急いでカケルの後を追いかけて、カケルと手をつないだ。「ふざけんなよ」とカケルは私の手をふりほどき、走って行ってしまった。私は「ちゃんと生きよう」と心の中で言って、全力でカケルを追いかけた。

             「凪のように穏やかに」2巻 おわり  
                         3巻に続く


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