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【3分ショートショート】名人
名人と呼ばれた男がいる。
男は料理人だった。
脇目も振らず、来る日も来る日もひたすら中華鍋を振るような男だった。
とくに炒飯は絶品であった。
やがてその味を求めて、大勢の客が押し寄せるようになった。
男は戸惑った。
店の前には連日のように長蛇の列ができた。
男は懸命に鍋を振った。
だがしだいに、客を捌ききれない日が多くなった。ありつけなかったと言いがかりをつける客をとりなすこともしばしばだった。
男は疲弊していった。
こんな毎日がつづけば鍋を振れなくなってしまう、とふさぎ込むようになった。
そんなある日、男は宇宙にいこうと思いたった。宇宙なら捌ききれないほどの客が来ることもないだろう、と考えたのだ。
男は即断即決の人だった。
店は繁盛していたので資金は潤沢だった。
男はすぐに、宇宙エレベーターの静止軌道ステーションに小さな店舗を買った。内径四メートル、奥行き十二メートルの、古いモジュールを改装した居抜き物件だった。
男にはこだわりがあった。
駆けだしの頃にようやく鍋を振らせてもらえるようになってから今日まで、炒飯だけは他人に預けたことがなかった。時代とともに巷では回転鍋やロボット調理器が導入されていったが、男は鍋を振るのをやめなかった。機械がつくる炒飯を不味いとは思わなかったが、味気ないと感じた。物足りなさの原因は、魂の欠如だと確信していた。
男は宇宙でも魂のこもった炒飯を供するつもりだった。
だが男は無重力を知らなかった。
知識がなかったわけではない。静止軌道ステーションが無重力状態だということは知っていた。
知らなかったのは、無重力ではなにが起きてなにが起きないのかというような、経験してみなければわからないことだった。男にとってはまったくつかみどころのない事態だった。
男は途方に暮れた。
魂どころの話ではなかった。
そもそも無重力では鍋を振ることができなかった。鍋を振ると中身は空中に飛び散り、そのまま戻ってこなかった。長年のあいだに男の身体に刻みこまれた、飯の一粒まで油でコーティングする技は、無重力ではなんの役にもたたなかった。
炎を使うこともできなかった。静止軌道ステーションは火気厳禁だった。冷静に考えれば気付きそうなものだが、衝動買いのように物件を手に入れた男には寝耳に水だった。だが炒飯の香ばしさを引きだすには、飯粒を炎のなかで踊らせることが肝心だった。炎は男にとって魂の根源だった。
男は諦めなかった。
長年の経験は封印した。
初心に戻って一から考え直した。
中身が飛び散るなら、蓋をすればいい。いっそのこと、中華鍋で蓋をしてはどうだろう。鍋で包みこむようにすれば、満遍なく熱を入れられるのではないか。
男は二つの中華鍋を向かい合わせにしてみた。
鍋二つを一緒に振るのは骨が折れた。重力がないからといって質量までなくなるわけではない。二つの中華鍋を一体として振る練習をひたすらくり返した。
男はたゆまぬ努力の人だった。
時間をかけて納得のいく鍋振りができるようになると、油と飯を入れて熱源にかけてみた。
最初の試みは酷い出来だった。内側を確認する手立てがないのだから、はじめから上手くいくとは思っていなかった。
男は辛抱強く鍛錬を重ねた。
その甲斐あって、やがて鍋を振る腕の感覚だけでなかの様子がわかるようになった。
炎の問題は厄介だった。静止軌道ステーションに店を出すなら火は使えない。だが炎なしの炒飯など、あり得なかった。男は必死に知恵を絞ったが、とっかかりすらつかめなかった。
糸口はひょんなところから得られた。
近所の呑み屋でたまたま隣り合った大学院生が、炎の正体はプラズマだと教えてくれた。男にはなんのことかわからなかったが、大学院生に頼んで鍋の内部にプラズマとやらを発生させる高電圧装置を組み上げてもらった。
ところがプラズマというやつは、手に負えない曲者だった。気まぐれでへそ曲がりで予測不能だった。炎のように操られることを拒み、飼い慣らされてなるものかと牙をむく野獣のようだった。
だが男は挫けない。
魂を失ってなるものかと、今日も宇宙で鍋を振りつづけている。
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