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「正義」の反対は「悪」ではない

コロナによる自粛の動きが進み始めてからというもの、各人が自分たちの「正義」を公表する機会が増えたように思う。そういう私も、「なぜこうしないんだ」「もっとこうしないと!」という思いをいつもより強く抱くようになった。自分の考えが100%正しいとは思っていないし、経験したことのない事態に直面する今、誰の言うことも100%正しいとも思えない。

しかし、それでも、自分の中の「正義」が顔を出す頻度が増えている。非常事態とは、“そういうもの”なんだろうか。

例えば私は、「さすがに都内にいて外食はしない方がいいんじゃない?」と思ってきた。一時的に閉めるか、テイクアウトにするか。そんなふうに切り替える方がよいんじゃないかなぁと。
でも、昨日オンライン飲み会をしていたひとりから、「#飲食店の灯りを消さない というハッシュタグがインスタではやり、それに正義感を持っている人もいる」と聞かされた。(なかには、テイクアウトをそのハッシュタグをつけてアップしている人もいるので一概に通常営業をしているわけではない。)

それを聞いて、いつの間にか自分は自分の正義の渦に飲まれていたのだと気付かされた。
正義の波に溺れていると、自身とは違う正義があることに気づきにくい。自分と相反する正義は正義ではなく、「悪」として見えてしまう。これは非常に恐ろしいことだ。

正義と正義の対立は、どこの国でも起こっていることかもしれない。
が、私たち日本人は特定の宗教を信仰している人が少ないため、自分の考えとは違う正義にあからさまに触れる機会はこれまで少なかったかもしれない。

余談だが、この問いを考えていた時に、以前、三四郎の学校で投げかけられた「アンパンマンはバイキンマンにパンチしていいのか」という問いを思い出した。
ねぇ、バイキンマンは本当に悪者なのかな?

「正義」には、計り知れないパワーがある。一度信じると、壮絶な魔力を発揮する。そのために、自分とは異なる正義を受容することが難しくなる。

私は思い込みが強い人間なので(笑)、「完璧な正義はない」ということを繰り返し繰り返し自分に言い続けたい。自分の両耳にタコができるくらい。

他者の正義を受け入れることは簡単ではない。だから、自分の正義を疑うところからスタートしてみようと思う。自分の正義を疑うことで、軸はグラグラと揺れるかもしれないけれど。
…そう思うと、自分を疑うということは弱さではない。むしろ、強さがないとできないことなんだなぁと気づかされる。自分にその強さが備わってることを、信じたい。

コロナが招いた現状は、様々な社会的ヒダを浮き彫りにさせている。歴史的な出来事に直面している私は、それを見つめられるように目を見開いていきたい。自分を疑い。多様な正義を感じ取り。未来に向けてどのような連帯を見いだせるのか、これから考えていきたい。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。