見出し画像

保護犬を迎えると決めた私は、見えていない世界の広大さに愕然としている。

保護犬を飼うことにした。昔から動物(というか昆虫も植物も生物全般)が好きで、ずっと飼おうよ飼おうよと親に交渉を重ねてきた。しかし、共働きだった我が家には面倒を見る余裕がなく、「もう! としぼう(弟)で我慢しなさい」と言われ続けてきた。…いや、この母の返しもどうなのよ?
大人になってからも、出張、出張、出張で、犬どころか自分の面倒すらままならない。自分の身体を含め、生命体を慈しむ環境にはなかった。

ずっとフツフツと動物がいる暮らしに憧れてきた。
でも、その思いは閉じ込めてきた。
唐突に一般論になるが、人には閉じ込めた思いがたくさんありすぎると思う。正確にいうと、閉じ込めたことすら忘れてしまうような感情で私たちはできている。自分の人生を生きているようで生きていない。これはどうしてなのだろう。

これまた唐突に話を戻すが、今回は「犬」を家族に迎えたいという思いを実現するために、私は心の蓋を開けたわけだ。(おおげさにいいすぎ?)とはいえ、人間側の満足度を高めるためだけに飼うわけにはいかない。迎え入れる犬が幸せに生きていけるように心の準備と住環境の整備をする。

ここまで書いておいてなんだが、このnoteを書いている時点では、我が家はまだ犬をお迎えができていない。でも、どんどん気持ちは流れていってしまうから、今の気持ちを書きとめておこうと思う。

◆ペットショップの動悸

現在は、犬を飼おうと思ったらブリーダーに連絡するのが一般的なのだろうか? 
少なくはなってきたが、ペットショップに行くという選択肢もあるのかもしれない。犬も猫も好きなので、ペットショップのショーウィンドウにはよく惹きつけられた。可愛くじゃれつく子犬と子猫。それを見ていると自然とニマニマと顔がほころぶ。

しかし、同時に「30%OFF!」などと値引きをされている子を見て、胸の動悸が激しくなることもあった。「命」と「値引き」との取り合わせに、心がざわつく。

人は見たいものしか見ない。可愛い子猫と子犬は成長して大人になる。その後は、どこにいくのだろう。
…そんな経験から、ペットショップで買うのではなく、保護犬をもらうという選択をしたいと思うようになったのだ。

◆保護犬はおもいのほかたくさんいる

以前からライターの友人が保護犬を引き取って育てていると聞いていた。友人のお宅に遊びに行って以来、「保護犬」という言葉が頭にこびりついて離れなくなった。

「犬を飼いたい」。その思いを正確に捉えた時、真っ先にそのライターの友達に連絡をした。そうしたら、保護団体がいくつもあることや、飼うための心構えを教えてくれた。
保護団体やその団体と提携をして里親の方のブログを見て、続いて保護犬のインスタを見て、またブログを見て……、そんなことを繰り返して、気になる犬を探していく。

しかし、そこで問題が発生する。
どの犬も可愛くて全く決められる気がしないのだ。これ、笑えるような笑えない話で、時間をかけらばかけるほど「ああぁ、この子の鼻がなんてかわいいんだろう」「この子の毛並みはモフモフなのかぁ」と無限のループにはまる。

保護犬と呼ばれる子たちは、私が想像するよりもはるかに多くいた。東京で暮らしていると、野良犬を見ることはまずない。私が小さい頃には、すでに野良犬は身近な存在ではなかった。(インドに行った時に野良犬の群れに遭遇し、ダッシュで逃げた記憶があるくらいだ。)
だから、こんなにもたくさんの犬が保護され続けていることに少なからずショックを受けた。「見えない」ことは、「ないこと」とはちがう。そんな当たり前のことに、私は気付かされた。

◆譲渡会に参加する

ブログでもインスタの写真でも、心はときめくものの「この子を飼う!」と決め切ることはできなかった。そこで、私は譲渡会に参加することにする。

ドキドキしながら、向かった初めての譲渡会。梅雨の最中だったにも関わらず、やたらと暑い日だった。犬も猫もペタンとへたり、ややだるそうにしている。
里親さんや運営ボランティアさんが慣れた雰囲気で迎えてくれた。

参加者たちの多くは、飼い主ベテランさんだった。この子が何を好んで食べるのかとか、他の犬との相性を聞いている人が多数。実際に、自身が飼っている先住犬を連れてきて相性を確認している方もいた。

そうしたベテランさんの質問内容に耳をそばだてて、「そうか、犬と一緒に暮らすということはこういう確認が必要なのか」と知る。もちろん飼いながら知ることもたくさんあるだろうし、もらい受ける際に教えられることもあるのだろうが、事前に知って環境をイメージしておくことかできれば、犬に負担が少なくて済む。…むちゃくちゃ大事じゃないか、この会!

里親さんが犬たちの性格をそれぞれ語る。「この子は寂しがり屋なので夜鳴きをするから、私がゲージの隣で寝ているんですよ」とか「最初は人間を怖がっていたんですが、ずっと撫でていたら膝に顔を乗せてくるようになりました」とか。一犬一犬のエピソードに胸打たれ、ずっと聞いていられる。そして、一時預かりとは思えない愛情を彼らに注いでいる姿に、「本当に優しい里親さんと出会えてよかったね……」と胸がつまる。

◆決められる気がしない犬探し

今まで知ることがなかった世界がここでは繰り広げられている……! 譲渡会にいくたびに、そんな興奮を覚えた。

野良犬を見かけなくなった今でも、人間によって傷つけられたり捨てられたりする犬たちがゼロになることはない。なぜ家族として迎え入れたペットが、最終的に保護されるにいたるのか。
なかには、飼い主さんが亡くなったり高齢で飼えなくなったりという理由も耳にした。でも、多くが理不尽な環境に置かれた犬猫たちだった。

「どうして…」という思いと同時に、そもそも私が飼うことが犬たちの救いになるのか、果たして許されることなのか、とも考えさせられた。

譲渡会ではすべての犬の顔を覗いてくるのだが、まったく決められない。
子犬はめちゃくちゃ可愛くて、多くの人が集まる。ボランティアさんも、「子犬はすぐに決まるんですよねぇ」と口をそろえる。私も、眺めているだけで気味が悪かろうニヤケ顔になってしまう。

しかし、なぜだか、片目が見えずおそろおそるお散歩に行く犬や寄り添って生きてきたおじいちゃんが亡くなって人恋しい老犬、ひどい目に遭って人間が近づくとサッと距離を取る子などに目がとまる。

「可愛い!」とは少し違う感情で、彼らが何を考えて生きてきたのかを聞き、寄り添いたくなる。とはいえ、彼らを飼う難易度は高い。特別なケアも必要になる。飼い主初心者の私がどれだけ彼らをケアすることができるのだろう。それこそ、無責任なことになるのではないか。
命と向き合う覚悟を問われているような気がしながら、ゲージに入る彼らと目を合わせた。

◆ビビビッは本当にくるのか?

犬探しは始まったばかりだが、すでに私は犬を迎えることができるのだろうかと心配になってきている。

色々な保護犬を見れば見るほど、家族にする子を決められる気がしない。そんなことを、ペットを飼っている友達に話すと、「いや、ビビビッてくるから大丈夫だよ!」とよく言われる。

なかには、インコにビビビッときて飼ってしまったという人もいた。ホームセンターに用事があって行ったら、そこにいたインコが目にとまって、とても気になったものの「いやいや、飼っている余裕なんてないから」と自分に言い聞かせてその日は帰宅。
しかし、どうしてもどうしても気になり、夢にまで出てきたことから、翌日お迎えに行ってしまったという。しかも、インコはその子のことを覚えていて、すぐに肩に乗ってきたのだとか。

そんな「この子だ!」という感覚が私にもくるのだろうかと思いながら、犬チェックを続けている。コロナの影響で中止になる譲渡会も少なくない。しかし、それは犬と飼い主のマッチングが減るということも意味する。(オンラインでのマッチングは盛んになったみたいだけれど。)
これまで見えていなかった世界の広さにたじろぎつつ、引き続き自分が出会うべき犬と出会うために動いていきたい。

お迎えしたあかつきには、「我が犬」自慢のnoteを書けるといいな。そんな日がくることをイメージしながら、今日のnoteはいったんここまで。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。