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((僕の手元には「一冊の古い本」だけが残った)

今から15年以上前の話。その時僕はある古本を探していた。数ヶ月ほど地元の古書店を回ってみたものの見つけることができず「縁があれば、いつか出会えるかもしれない」と半ばあきらめの気持ちになっていた。

当時ホームページに設置していた掲示板に「〇〇を探しているけれど、なかなか見つからない」と書き込んでみた。何か新しい情報が得られることを期待したわけではなく、ただつぶやいてみたのだった。

数日後ある方から「〇〇なら、△△に在庫がありましたよ」とコメントが書き込まれた。それを見た僕は記載されていたアドレスに移動し「在庫限り」のそれを注文した。書籍代と送料で、それなりの金額になっていたような気がするが、文字通りなりふり構わぬ勢いで注文したのだった。

10日ほど経って本が届いた。思っていたよりも程度は良くなかった(あの当時は写真等が掲載されておらず、少ない文字情報だけで購入を決めなければいけなかった。届くまでの期待感と恐怖感(のようなもの)は、現在よりも数倍大きかったと思う)。表紙は日に焼けて色褪せ、紙は茶色に変色し、大きく開いて読もうとするならば、痛みが激しくなりそうな危うさもあった。それでも僕は「本を手に入れることができた」満足感でいっぱいだった。

本が届いた日の夜、掲示板に「おかげさまで本が手に入りました。ありがとうございました」と書き込んだ。すると情報を提供してくれた人から「それはよかったですね。私も学生の頃は、週末になると古本屋巡りをしたものでした」というような返信が書き込まれた。

それで、その人との会話は終了した。その後、その人からコメントが書き込まれることはなかった。僕の手元に「一冊の古い本」だけが残った。

あの頃はよかった、という言葉を口にするのは歳を重ねた証拠かもしれない。それでも、当時のインターネットの場には「自分が知っている知識を、必要としている人に提供し共有する」文化(のようなもの)が、あったように感じている。

自分なりの努力を重ね、それでも手に入らなかった知識(情報)を求めるならば、知っている誰かが提供する。時にはそれが数人になり、短時間で最善の解法にたどり着けることも少なくなかった。

匿名のまま交流が始まり匿名のまま終了する。見返りも、誰かの上に立ちたいという主張もない。おそらく、あの場に存在したのは「同じ言葉で交流ができた」という、ささやかな喜びだったのではないか、と思う。

あの頃はよかった、と口にするのは歳を重ねた証拠だと思う。忘れているだけで、不快な思いもたくさんあったと思う。それでも、そんな体験があったのだ、ということを個人的な記録として、ここに書いておきたいと思う。

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