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「好き」のグラデーション

僕の周りの人や、たぶん世間一般の人たちは主に恋愛感情を指して「好き」って言うよね? というような話を以前に書いた。
恋愛感情としての「好き」もあれば、友情としての「好き」、家族としての「好き」もある。
「好き」にもいろいろあるはずなのに、相手が恋愛の対象になると、つまりヘテロなら異性ということになるけれど、その恋愛対象となり得る相手に対して「好き」と言った場合、それが友情から出た言葉だとしても、必ず恋愛感情として理解されるのは納得がいかないという話。

最近思うのは、「好き」の種類にはいろいろある上に、その組み合わせでもあって、その組み合わせの割合も0%から100%までのグラデーションになっているのではないかということだ。

僕はアセクシャルだけれど、恋愛が嫌いなわけではないし、恋愛をしたくないわけでもない。
単に、恋愛という気分が滅多に湧き起こらないし、恋愛という気分と作法がいまいちよくわからないというだけだ。
性嫌悪もないから、普通にセックスも求められればできる。
自分の方から、どうにかして女の子とセックスに持ち込みたいという気持ちにほとんどならないだけで。

だから、女性と恋愛関係になるということは、可能性としてはありうる。

そういう前提に立って周りを見渡してみたときに、この人とは恋愛関係になってもいいなと思える人と、友達以上にはなれないだろうなと思う人がいる。
これを分析的に数値で考えてみると、友達にしかなれないと思っている人に感じている「好き」は、恋愛感情が2割、友情が8割という割合で、恋人になってもいいなと思っている人の「好き」は、恋愛感情が6割、友情が4割という割合があるのではないだろうか。
恋愛、友情以外にも、例えば妹のように感じているとかであれば、家族愛が数割入ってきたりするのかもしれない。
その割合は相手によって様々で、グラデーションのどこに位置するのかが、その時々のシチュエーションや気分によっても揺らいで変わっていくものなのではないのかとも思うのだ。

それが恋愛感情100%に振り切れる人は恋愛ができる人で、恋愛感情100%で恋に落ちて、それが0%になると恋から覚めたってことになるのかもしれない。
そして、僕の場合、恋愛感情と友情の割合が半々とか、恋愛感情2割とか、それくらいの間をふらふらとさまよっている感じなのだ。

しかし、思うにこの感覚は誰もが持っているはずのものだと思う。
簡単に言うと、すっごいタイプとか、まあまあタイプとか、ぜんぜんタイプじゃないとか、そういう話は誰もがよくするはずで、それと「好き」のグラデーションの話は感覚的に同じ話なんじゃないだろうか。

感覚的にはわかってもらえるはずなのに、中途半端を許してもらえないのはなぜなんだろう?
恋愛感情として「好き」か「好きじゃない」か。
0か、100か。

感情って割り切れないものだし、割り切りたくもないと思うのだ。
グラデーションの中にある感情の方が豊かなのではないか?
いろんな人との関係性の中に、いろんな「好き」を感じていたいし、そういう感じ方や価値観を理解してもらえたらとも思う。

僕は、僕の「好き」な人たちに、そのことを伝えたい。

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