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JR西日本・山﨑社長の無罪判決について

2012年1月11日に、JR福知山線脱線事故の件で山﨑社長(当時)の無罪判決が言い渡されました。本来なら、事故の被害者である私は「そんなの納得いかない!」と憤るところでしょうけど、この裁判に関してはいろいろと複雑な個人の思いや事故全体の事情、日本の司法制度の仕組みなどを鑑みて無罪が妥当だと感じていましたし、むしろ無罪になって欲しいとさえ願っていました。
私の個人的な見解になりますが、報道ではなかなか伝わらないことを書き残しておこうと思います。

そもそも、事故直後から「ATS(自動列車停止装置)」という言葉が、メディアの報道などによって一人歩きをしている感があり、まるで事故の原因が「ATSが設置されていなかったから」というような雰囲気になってしまっていましたが、JR福知山線脱線事故が起こった背景には、ATSの設置が遅れたことだけではなく、運転士の指導方法や指導者の管理体制、さらに意思決定や情報伝達に関することなどについてもかなりひどい状態で、ATSの設置どころか、会社の根幹に関わるところで非常に脆弱な状態でした。
ATSがあれば確かに「あの事故」は防げたでしょうけど、その後にJR西日本が惹き起こした伯備線と西明石での保線員死亡事故なども、管理体制や情報伝達の不備によって惹き起こされたものですので、ATSがなかったことが事故の原因というのは、ごく表面的なことを捉えているだけのように感じています。

刑事裁判は、企業ではなくて「誰に」「どんな」「過失」があったのかということを争う場ですので、今回の場合は、事故現場のカーブを急なカーブに付け替えた当時に鉄道本部長であった「山﨑氏」が、「カーブ付け替え時にATSを設置する」という「危険予測の義務を怠った」ということで争われました。
検察がATSに着目したのは、ATSが事故原因だからというよりも、この「危険予見性」ということでしか裁判で「個人」の責任を追及することができないので、ATS設置に特化して何とか裁判に持ち込んだというのが背景にあるようです。

多くの被害者は(私も自分が事故に遭うまではそう思っていました)、「裁判で真相を究明して欲しい」と思っていますが、実はそれはちょっと見当違いなことで、裁判の本来の目的は、誰がどんなことをしたからどんな刑罰を与えるのかを決める場所で、原因を究明したり再発防止を検討したりする場ではないのです。
ただ、裁判の中で検察が調べたことがいろいろ出てくるので、素人の被害者には知り得ないことを知ることができるという意味では、真相が明らかになるような錯覚になるというのが実情です。
なので、この裁判でも、基本的には起訴された内容のATS以外のことは問題視されませんでした。

以前の裁判であれば、被告が無罪になると検察が調べた調書は表に出て来ることはありませんでしたが、山﨑氏が起訴されたぐらいの時期に被害者支援制度の法律が変わり、被害者は内容を口外してはいけないという条件付きで、事前に調書を閲覧することができるようになりました。私も何度か読みに行きましたので、誰がいつどのような証言をしているのかは、ある程度知ることができました。しかし、そうした調書の多くは、被告人側の弁護士が被告の不利になると判断した場合、不同意ということで裁判には使われません。
元鉄道本部長であった山崎氏に大きな責任があることは間違いありませんが、巨大組織の中で自分一人だけが起訴されてすべての責任を負わされるということは納得のいくものではありませんので、被告人側としては「無罪」を主張するのは当たり前のことです。これは山崎氏の問題ではなく、日本の司法制度がそのようになっていることによるものです。

そういう意味で、ある特定の起訴できる内容だけで裁判が行われると、逆に言うと、自分たちが不利になるそれ以外のことについてはまったく口を噤んでしまうことになります。
そうなると、再発防止の手がかりになる重要な組織的構造の反省点などを洗い出すことができなくなってしまいますので、私個人の見解としては「全員不起訴」となって、裁判という足枷が無い中で組織的構造の改革を行うための独自調査を行う方が良いのではないかと感じていました。
※JR西日本は、後に被害者と共に独自に事故原因を調査して、結果を両者で公開しました。これは、数多の事故史上極めて珍しいことでした。

現在の日本の司法制度では法人罰を科す法律がありませんので、どれだけ大きな事故でも「誰が悪かったのか」という個人を無理矢理探し出して、裁判にかけるという方法しかありません。外国では、法人罰という制度を取り入れている国もあり、企業に対して懲罰的賠償ということですごい額の賠償責任を負わせたり、社会貢献に対する義務を課したりする場合があるようです。そうすることで、ある一定の安全性担保への抑止力になるという考え方です。
アメリカでは事故の原因はNTSBという調査機関が調査して再発防止に努めますが、加害企業の法的責任すら問わないという姿勢で調査をし、事件性がある場合のみ(わざと事故を起こしたとか、テロ等の可能性がある場合)FBIが捜査に出て来るというシステムを取り入れているようです。企業の責任を問わないので、関係者が本当のことを話しやすくなり再発防止策を構築しやすいというメリットはありますが、被害者の心情としてはかなり複雑な点があり、一概にそれが必ずしも良いということも言えないでしょう。調査と捜査が完全に分かれている一例です。

法人を罰せられないのであれば、一番悪そうな人を裁ける枠組みに当てはめて裁判にかけて有罪にすれば良いのか…というのが、実は今回の裁判の本質でないかと感じています。かと言って、法人が起こした事故なので誰も悪くないのか…というのも、また違うように思います。
なので、最初からこの裁判に関しては全くノータッチでしたので傍聴にも行っていませんし、取材の依頼があっても、一度もコメントも出しませんでした。

法人罰に関しては、私個人はどちらかと言うと否定的な考えを持っていますが、現在の司法制度のようにトップが「知らなかった」や「危険とは認識していなかった」ということがまかり通ってしまうと、会社のトップは何かがあったときに「知らなかった」という方が責任を逃れることができるようになってしまいます。
責任と犯罪とは意味が全然違いますので、「知っていたか知らなかったか」「認識していたかしていなかったか」が判断基準にしってくると、会社経営はきちんとできなくなくなってしまうのではないかと感じています。

裁判とは別の話になりますが、山崎社長は、事故当時の垣内社長の後任としてJR西日本を立て直すために、一度、本社から子会社に飛ばされた立場であったにも関わらず、あえて戻って来て社長に就任された方です。
「国鉄改革3人組」と言われ、JR西日本内では「天皇」と称されていた井手正敬氏との確執についてはいろいろと報道されてきましたが、本当のところはどのような力関係があったのかは我々には分かりません。
ただ、事故当時の垣内社長はもちろんのこと、南谷氏、山崎氏という歴代社長は被害者の前に出てきて謝罪もされましたし、説明会にも出席して事故原因究明に向き合い、個別に被害者の家庭にも訪問されていましたが、井手氏は一度も公の場に出て謝罪することなく、メディアの取材でも扇子であおぎながらコメントをするような状態でしたので、他の歴代社長とはまったく違う態度を取っていました(後の話を総合すると、彼を被害者の前に出すと何を言い出すか分からないので、表に出すことができなかったようです)。

社長が山崎氏に変わるまでは、垣内社長はじめJR西日本の会社としての見解は、「運転士が異常なスピードでカーブに突っ込んだりしなければ事故は起きなかった」というものでしたし、「遺族さえ対応していればよい」というスタンスでした。国が被害者に実施した近畿運輸局による説明会も、最初は遺族だけが対象でした。これまでの事件事故の慣例通り、「生き残った人には説明すらする必要がない」「生き残っただけでも良かったじゃないか」という扱いでした。
事故から約1年後に山崎氏が社長に就任し、この事故は100%JR西日本の過失であり、歴代経営者に責任があるということを認めました。このことは、その後のJR西日本にとって大きな転換点となり、トップの見解によって救われたのはおそらく被害者だけでなく、JR西日本の社員にとっても、ようやく本当の意味で事故に向き合うことができる基盤ができたのではないかと思います。

それまでは「運転士ひとりの過失」というスタンスだったので、被害者の各家庭に付いている担当者はきちんと謝罪することもできず、どこまで対応していいのかも分からない状態だったのではないかと思います。おそらく「余計なことは言うな」という指示を受けていたのではないかと思いますので、被害を受けた皆さんとの人間関係を築くことができず、心苦しい状態だったのではないかと思います。
まずは自分たちの過失をきっちりと認めて、何が足りなかったのか、何を改善すれば再発防止につながるのかということを真摯に考えなければ、あれだけの事故の教訓は何も活かされないことになってしまいます。そういう意味でも、山崎氏の見解の表明は、JR西日本という会社のその後の方針を決定づける大きなターニングポイントであったと言えます。

私は山崎氏と個別に面会をしたことがありますし、他の役員の皆さんとも面会をしたことがありますが、基本的には井手氏のような態度を取る方は誰もおらず、ごく普通の方がほとんどでした。
僕も糾弾したくて面会を希望していたわけではないので、いろいろお聞きしたいことを聞いている話の中では、当然、皆さんの中にも鉄道マンとしての誇りや専門性があるので、「この件については間違っていなかったと思う」ということを率直に言ってくださる方もおられました。私は鉄道の素人ですので、むしろ「ここは間違っていなかった」を自身を持って言ってもらった方が、何でもペコペコ謝られるよりも本当の話に近づくことができたように思います。
ただ、公の場であちこちからカメラを向けられ、どこをどのように切り取られて編集されるのか分からない場では、言えることと言えないことがあるというのは分かるような気がしていました。私ですら、カメラの前では言えないことや使わない方が良い言葉というのにとても気を使っていました。

加害企業と被害者という立場の違いではありましたが、山崎氏だけが検察から起訴され、井手氏、南谷氏、垣内氏の歴代三社長は検察審査会による強制起訴というかたちでの裁判の在り方は、最初からかなり無理があり、公平性に欠けたものであったように感じています。
これは、2009年に施行された検察審査会法がなければ、歴代三社長は起訴すらされなかったということを意味しています。

上記の理由から、山崎氏のみがもし有罪判決になってしまうと、一人だけを吊し上げにして被害者感情のガス抜きのために人身御供になったような、なんとも後味の悪い結果になってしまいます。とても変な感情ではありますが、私個人の見解では「無罪になってほしい」と願っていたというのが正直なところですし、無罪判決が報道されたときには、正直ほっとしました。
こうした背景があって(僕の知らないところで、もっと複雑な事情や思惑があったのだと思いますが)、JR福知山線脱線事故という未曾有の大惨事を惹き起したにも関わらず、JR西日本の関係者全員が無罪という結果になりました。

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