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同じペースで、これからも。

幼い頃近所の60代の男性を見たら、本当に「おじいちゃん」といった言葉がふさわしい方たちでいっぱいでした。ふと気が付くと自分自身がその「おじいちゃん」になっているのです。
人生は、若い時即ち人生歩きはじめの時期には、この先長く永遠に道が延びているように思いこんでいましたが、今はもう人生のゴールが見え隠れするステージになりました。そこで思うことは、「自分は今まで人生を楽しんできたのか?」ということです。



後悔とこれから


昨年の12月末で教員退職後にしていた仕事も辞め、80代の母親の介護が中心の毎日です。母親がデイサービスに行かない日には、妻が準備してくれた朝食、そして昼食、夕食の上げ下げがメインの作業で、他にも洗濯・掃除・母親の身の回りの世話で一日が過ぎていきます。しかし毎日のルーティンに慣れてしまえば、自分の時間が多く取れるようになってきました。以前はテレビのワイドショーやYouTubeの視聴で時間を埋めていました。ですが今では、家まわりの草刈りをしたり、本を読んだり、隣町のスポーツクラブに行ったり、家に残っている昔からのガラクタや不用品を片付けたりしながら過ごしています。(他には、私の古くからの思い入れの本や物が多すぎて、まだまだ整理できずに困っているのですが・・・)

若いころを振り返れば、20代中盤から50代終わりまで、ウイークデーは残業で8時から10時過ぎに帰宅、土日も昼まで寝て昼に起きて職場へ行き、とりあえず月曜日からの仕事がスムーズに始められるよう、日が暮れるまで仕事をする日が多かったと記憶しています。テーマにあるように「歩くスピードで生きる」どころではありませんでした。妻や子ども、家庭はほったらかしでした。自分としてはその当時はそれでいっぱいいっぱいだったので、と思います。しかし、やはり後悔のほうが大きいです。
58歳で退職して、やっと可愛い孫たちと会える時間が増えました。今までは、24歳からの約40年間、仕事がメインの生活でした。私は今やっと、自分のやりたいこと、チャレンジしてみたいことをゆっくりと始めていきたいと考えています。人それぞれにその方だけの人生の歩みがあるように、自分も「ああ、自分も64年の間に自分独自の人生の歩みがあったし、これからも続くのだな。」といった思いがあります。そうは言うものの何から何まで全く自分の思い通りの時間があるわけではありません。今までできなかった「歩くスピードで人生を生きてみる」ことを楽しんで味わってみたいと思っています。

同じペースで、淡々と。


最近、本当に「人生は本当に山あり、谷あり」だなあと、しみじみ感じます。調子の良い時期、良い年、良い日もあれば、調子の悪い時期、悪い年、悪い日もある。また、調子云々関係なしに、淡々とした平和な日々もある。今考えれば、調子の良い時期には浮かれ気分で楽しく過ごしたはいいが、その時期に大切な何かを無くして次の不調な時期を招いてしまって、不遇を嘆く・・・。気分は上がったり下がったりで、心静かで穏やかな時間は果たしてどれくらいあったのだろうか、今までの人生という時間を大切に送ってきたのだろうか?と自問自答を繰り返している今日この頃です。
 最近になって思うことに、「私の今までの人生は、無駄に体に力を入れ、全力で走ったかと思えば、それに疲れて、またその疲れを自分勝手な理由にして長い間うずくまって、立ち止まったり寝込んだりの、割と雑なペースで
歩みを進めてきてしまった人生だなあ。」と反省するのです。
 
 自分なりの表現ですが「人生は真面目に生きていれば、必ず前に向かって進んでいく。しかし誰しも『良いこと・幸運なこと・自分にとって都合の良いことばかり起きること』は無いし、また『良くないこと・不運なこと・自分にとって都合の悪いことばかり起きること』も無い。良い時期、普通の時期、良くない時期がいろいろなリズムでやってきながら、前に進んでいく」ものだと思います。


そう考えれば、「一つのことに一喜一憂を繰り返すのではなく、どんな状況でも常に同じペース、淡々と歩くスピードで、人生を歩んでいくことが大切なのだ」と思うようになりました。
良い時期は自分の表(陽の部分)が外に向かって伸びていくイメージを持ち、また不遇の時期は、自分の内(陰の部分)が大地の中にしっかり根を張る時期と考えて地力をつけることをイメージしながら、同じペースで淡々と歩いていきたいと考えています。

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