ユルく生きる。

 もう十五年近くも前の話になる。高校を二年生の冬、十七歳で中途退学した。にもかかわらず私は、その後も暇があれば定期的に学校へ行く事を習慣にしていた(実質引きこもりニートだったので常に暇だったのだが)。『学校に行く』という表現はあまり適切ではないかもしれない。

 実家での引きこもり生活は延々続けていると次第にやることを見失ってしまう。すると一口に言葉では説明がしがたい恐怖に突然襲われる。将来の不安とか、日ごとに離れていく同級生との差を実感して激しい劣等感に支配されてしまい身体の活動は停止する。その先は脳内での活動のみになってしまい、過去の出来事が次々とフラッシュバックされて、自身が現在追いやられている状況に至ったその原因の追究を始める。『過去の答え合わせ』だ。もちろん答えなんか出ない。自分目線のみで美化悲観などの誇張も入り交じった曖昧な記憶だけでは情報は不足しているからだ。

 部屋の中で行われるいつまでたっても結論が出ない『過去の答え合わせ』は、続けているうちその者の精神を蝕んでいく。すると「人目が怖いから部屋から出たくない」などと悩んでいたことは忘れてしまい、無意識のうちに家の外へ出掛けるようになってしまったのである。最初は勇気を振り絞る必要のあった人目を避けた深夜俳諧がどんどん発展していき、いつの間にか授業中や放課後の母校へ足を延ばすようになっていた。当時の私は所謂、夢遊病患者の有様だった。そう説明した方がしっくり伝わるかもしれない。

 私が通っていた高校は定時制で、市立図書館や公園、公民館などの一般に開放されている施設とも隣接している。高校と図書館を行き来できる屋外の二階には渡り廊下があった。
 落下防止の為に設けられた渡り廊下の手摺の上に両肘を付いて前屈みの体制の私は、嫉妬と後悔が混ざり合った赤黒く充血した睡眠不足の眼で、数か月前までは自身も在籍していた軟式野球部の練習をただ茫然と眺めていた。あまり厚着をしていなかったので、その日は三月の末頃だったと思う。

 背後から突然「おぉ、佐藤。お前今どうしとんな?」と声を掛けられた。声の主は野球部の練習でグランドに向かう途中でたまたま通りかかったのであろう監督だった。先月、二月の中頃に自主退学をしたばかりの私が学校の目の前にいることに少し驚いたような大きめの声だった。

 学校付近の俳諧はそれまでにも数度繰り返していて、その日以前には野球素人のくせに野球部のコーチを務めていた二十代若手教師のI先生に「お前はもう学校辞めとろうが。ここは学校との境目じゃからもうくるな!」と一方的に怒鳴られて意気消沈する苦い経験をしていた。世界史の授業を受け持っていたI先生は生徒から好かれることばかりに執着している印象で、所謂スクールカースト上層連中からの人気はあったが、圧倒的下層民だった私は彼に良い印象を抱いていなかった。I先生は自身に向けられる私からの後ろめたい気持ちを察していた上にその日は虫の居所が悪かっただけだとは思うのだが、この出来事は数か月の引きこもり生活の影響も相まって人間不信に陥っていた当時の私には酷く堪えた。なので、野球部の監督との突然の遭遇にも頭の中で言葉が全くまとまらず、私が返答を果たすまでには十秒程度の時間を要した。

 記憶は曖昧だが、監督は私が無言で返答を考えている間、間繋ぎで他にも幾つかの世間話を振ってくれていたことだけは覚えている。内容は一切覚えていない。監督の気遣いになんとか応えようとした私は、きれぎれにしか機能していない腐りかけの脳で必死に考えた末に、「ホームレスになろうと思っています」と当時の本心を素直に吐露した。世間知らず且つなんともバカげた発言だと今でも思うのだが、これは当時の私の紛うことなき本心だった。

 監督は私の突飛な発言を聞いて言葉にならない開口をしてしまい、その後は呆れつつ返答に困ってしまったのであろう数秒の間を置いたが「まあ、オマエがやってみたいと思うんなら一度やってみたらええが」と、部活動の時の話口調と同様の少し人を小馬鹿にしたような半笑いの返答をしてくれた。この日から十五年近くの時を経た今でも、当時監督が返してくれたこの言葉が私の心の中で支えとなって残っている。

 退学後の私が引きこもりニート生活から抜け出すまでには約一年、更にそこから野球部員の同級生たちと談笑ができるまで回復するにはプラス二年の期間を要した。「あの時のお前は怖かった。辞めたくせになんで学校に来るのか本当に理解できんかった」と同級生の野球部員Aが当時の私に対する本音を近年になって教えてくれた。
 実際、当時の私の精神は脳がゲル状にとろけていたとしか考えられないほど何の意志も目的も無くて、過去に後悔や未練を残してしまった地元の黒歴史スポットを日々淡々と俳諧し続けていたような有様で、安直な表現になってしまうが『生ける屍』という言葉が当時の私を言い表す言葉としてはピッタリ当てはまる。今当時の自分を客観視してみても、それら奇怪な行動に至っていた理由を上手く後付けすることができないでいる。奇怪な行動を繰り返している当人でさえも理解できないぐらいに複雑に入りくんで絡まった精神構造をしていたのだろう。

 四十代中年で家庭を持つ体育教師だった監督は、野球部の顧問兼監督を嫌々でやらされているような人だった。選手に恵まれなかったのも大いにあるのだが、実際あまり部活動に熱心に取り組んでいなかったので、私が入学してからは大会でも万年一回戦負けが続いていた。

 母校の部活動は、校則の関係で平日の部活動の時間が一限分の授業時間よりも短かった。小・中学校での不登校が原因で部活動に飢えていた私は、入学当時昼間と夜間両方の練習に参加するつもりでいたが、夜間生と監督のやる気の無さが原因で夜間帯の練習が行われていないことを知って「入る学校を間違えた」と後悔をしてしまうほどにがっかりした。唯一長時間練習ができる休日土・日いずれかの練習日も参加者は常に十人以下だったし、監督は朝の七時頃にゴルフウェア姿で現れたかと思えば約一時間ほどでアップとノックを終わらせてしまい、あとはその日の練習内容をキャプテンに指示して「じゃっ」と半笑いで部員達に一言述べて非常に嬉しそうな表情でゴルフのコースに出かけて行く自由人だった。

 部活動に対するやる気は皆無に等しい監督だったが、他に三名いた副顧問のコーチI先生、H先生、K先生と比べると断トツで野球が上手かった。詳しくは知らないのだが、現役時代の監督は強豪校の硬式野球部で揉まれた高校球児だったと誰かから聞いた。ポジションや成績、補欠・レギュラーどっちだったのか等の情報を私は一切知らない。
 監督はゴルフが無い日の練習では時折誰よりもやる気を見せることがあり、そんな日だけはフリーバッティングやシートバッティングで率先してピッチャーを務めてくれていた。素人に毛が生えた程度の実力しかない部員から三振を取るたび「よっしゃ、ざまあみろっ」と無邪気にドヤ顔で叫ぶ負けず嫌いな性格であったことに加えて、部員数の六割近くを締めていた三年生の引退が原因で一時的な部員不足に陥ってしまった際に急ごしらえの即席エースとして抜擢した私のピッチング指導に付きっきりになってくれることが多かったため、監督は現役時おそらく投手だったのだろうと私は推察している。

 私が部活動を行ったのは高校が初めてで、小・中学校は不登校気味であまり出席していなかったので幼少から野球が好きだったにもかかわらず練習の殆どをそれまで一人で行っていた。高校で部に所属するまでの野球の知識は図書館や本屋でピッチングとバッティングに関する教則本を読んで独学したり、専門的な用語やルールに関してはPS2のゲームソフト『実況パワフルプロ野球』や少年誌の野球漫画『ミスターフルスイング』『ドカベン』『メジャー』『おれはキャプテン』などで覚えた。

 高校生になってから生まれて初めての野球指導を受けたので、実質、監督が私にとって最初で最後の野球指導者となった。口数も少なく内向的で人見知りだった私は、野球部員として監督とプライベートな話や雑談をした記憶が全く残っていない。なので入部届を提出しに職員室を尋ねた際に初対面の監督から「経験者か?」と聞かれ「いえ、趣味なので部活では初めてです」と返答した時のように、野球に関することについて監督から尋ねられたことをただ本音で返答したことぐらいしか監督との会話の記憶はない。

 いくつかパッと思い出せた会話の内容も、

監督「三年生が卒業して部員はギリギリじゃ。ほとんど素人ばっかりじゃからちょっとでも野球を知っとる佐藤は投手をやれ」

私「やってみます」

監督「佐藤。来週の練習試合は二試合あるから一試合目で投げたらバッテリーはそのまま守備位置交代。今度は佐藤がキャッチャー。それでもう一試合やるぞ」

私「キャッチャーはやったことないけどやってみます」

監督「佐藤はコントロールがええから全部低めに投げろー。高めはいらんぞー」

私「はい」

 などで、監督と一対一で話したことはワンリターンのみで完結してしまうような事ばかりだった。あとは部員全員に向けてとか他の部員に一方的に冗談を吹っ掛けていたときの事ぐらいしか思い出せない。

 高校一年生の時の私は『部の中で一番』と言っても過言がないぐらいに練習と自主トレに打ち込んでいた。自分ではそう自負している。しかし、部活動後の同級生からの誘いを九割方断って意図的に作り出した練習時間だったため、同学年の中で私の存在だけが浮いてしまっているような感覚をいつも肌身に感じていた。

 野球部員の同級生は全部で六人いる。

 「本当はサッカーがしたいけど部員が少なくて試合ができないから野球部に来た。野球は好きではない。攻守交代制でベンチで動かない時間があるから野球は嫌だ」と入部したその日に平然と言ってのけた掛け持ち部員のA。彼とは犬猿の中で私とAは部内で一番仲が悪かった。

 ある日の練習中に「本当は野球よりサッカーが好きなんよ」とデリカシーの無い本音を打ち明けてきた元不登校児で運動音痴の部員B。彼は高校三年間の練習試合・公式戦の全てでノーヒットという偉業を達成した。結構スタメン多かったのに。

 入部後、初めて話しかけた時「『メジャー』の茂野吾郎がカッコいいからジャイロボールが投げたくて野球部にきた」と無邪気に話した元テニス部で運動神経抜群の部員C。そしてその親友であり、同級生の中で頼れるお兄さん的存在感を持っていた部員D。
 彼ら二人は上記ABの部員を「野球楽しいで」と気軽に誘ったそうだ。CとDは私含む同級生達よりずっと大人びていた。それだけでなく、学年レベルで人望がある社交的な人物だった。数々の空気の読めない発言でその場の空気を濁らせて迷惑をかけてきた私はいつも知らないうちに彼らにフォローされていることが多かった。なのでCD二人には今でも頭が上がらない。

 そのほか、七つ年上(定時制高校だったので)で二十三歳、さだまさし似の老け顔をしたオジサン部員のE。夜間生でシニアリーグ経験者のFなどがいる。
 Eは一人だけオジサンで入学時野球初心者だったにもかかわらず、ホームラン連発の大砲二塁手に成長し、三年生時はキャプテンを務めるほどの大飛躍をして周囲を驚かせた。
 一方、Fは定時制軟式野球のあまりのレベルの低さを知って舐め腐ると一ヶ月も経たぬうちに練習へ出て来なくなり、バイトと夜遊びでその後の高校生活をエンジョイしたようであった。

 部活動に真摯に打ち込んできた者や経験者ほど次第に練習に来なくなるというのは定時制部活あるあるだ。定時制高校ということもあって同級生先輩後輩いずれも年齢・性格・学歴ともに特殊な経歴を持っている野球部員が殆どだったが、ハッキリ言ってみんな良い人たちだった。そんな中、当時の私が最も凡庸な中二病然とした痛々しさを持っており、精神年齢も圧倒的に幼かったという自覚がある。同学年が卒業した後、数回ほど同級生部員と集まる機会があったが、その度に「佐藤は変わった」と驚かれる。私が当時どれだけ痛々しかったかというエピソードが飲みの席でいくつも散見するので、私はその度に「本当に申し訳ないことをしてきたな」と今更ながらに反省するしかない。しかし当時の私は、彼らとのプライべートでの付き合いを疎かにして「俺はこいつらとは違う」という痛々しい自意識を持っていた。社交的に生きられない自分にはコンプレックスを抱いていたにもかかわらずロンリーウルフを気取り、挙句には仲良く過ごせている同級生たちへ嫉妬心を抱くなんとも不安定な感情が心の中の彼方此方に無造作に散らばっていたことを今でも鮮明に覚えている。

 練習に対する熱量が低いだけでなく、野球を本当に好きなのかどうかも危うい連中と一緒に部活動をしていることにいつも嫌気がさしていた。かくいう私もほとんど素人に毛が生えたような状態であったので、実力に関して彼らに偉そうなことは言えないが、先輩たちを含め全員が『遊び感覚』で野球部に集まっているように見えた。実際、遅刻やサボりの多かった部員Aに怠慢さを改めるよう指摘したところ「野球は遊びや!」と一方的に逆ギレされて何も言い返せなかった悔しい思い出もある。

 一年生の一学期の終わり頃には、部に顔を出す時間も頻度もやたら少ない監督の適当さに対しても嫌気がさしはじめていた。だがそれをハッキリ言葉にすることは出来ず、一年生の秋の大会で春から引き続き一回戦で大敗してしまった辺りを皮切りに、結局は私も部員達や監督・コーチ等と同様にどこか適当な気持ちで部活動に参加するように気持ちが流されはじめていた。

 夏休みの間に生まれて初めて彼女ができてしまったことも、気持ちが緩み始めた要因の一つだろう。結局三ヶ月と持たずに突然フラれたのだが。

 失恋のショックも隠しきれず、オフシーズンの体力強化メニューにもただ惰性で参加していたし、頭痛を理由にしてキャプテンに何の相談もせず勝手に練習を切り上げたことだって数回ある。

 二年生に進級してからの私は、更に野球に対しての熱を失ってしまっていた。他に何かやりたい事や友人との約束がある訳でもないのに練習や練習試合を頻繁にサボるようになってしまった。学校にも週の半分以下しか出席しなかった。入学時から嫌悪感を抱いていた不良然としたクラスメイト達と親密になり何度か遊びに行ったりもしたが、彼らとの交流はまるで面白く感じる瞬間がなかった。彼らも私の事を「ノリの悪い奴だ」と見限ってすぐに離れて行った。なので学校を欠席した日でも、結局私は一人で過ごしていることがほとんどだった。

 私の野球に対する熱量が、その後も更に失われていった原因はいくつかあり、成長期にも拘わらず全く身長が伸びなかったこと、体格差によるハンディに理不尽さを抱いてしまった事をはじめ、夏の練習中に生じた左足のケガ、後輩女子マネージャーへの失恋から生じた傷心、新一年生である後輩部員達の台頭など、原因を上げ始めると数えきれないほどあるため、詳細は割愛する。

 監督は部活動で怠慢を続けた私のことを、責めたり叱咤することが一度もなかった。それは監督が元々部に対する熱量が低くユルい性格だったのも理由の一つだとは思うが、左足のケガが中々直らない私に「とにかくピッチングはするな」「練習は無理に来なくても自主トレでいい」といくつか指示を授けてくれていたので、もしかしたら「一旦野球から距離を置いてみろ」というユルい監督なりのアドバイスだったのかもしれない。

 私は監督の言いつけを守ったり守らなかったりを繰り返しながらも、密かに自主トレに励んでいた。やる気がでなくて何の目標も持てず自堕落に過ごす時期と、自分のあまりの無力さに練習をしていないと気持ちが収まらない時期の繰り返しを数回過ごした。少し無理をしたせいで回復に至るまでの期間を伸ばしてしまった時もあったが、その長引いた時間を使って自分のような小さな体格でも投手として戦える術を身に付けるため、ピッチングフォームの変更に時間を掛けてじっくり取り組んだ。確か、もうその頃は週に一日ぐらいしか学校に行ってなかったと思う。

 私が足のケガを百パーセント完治させて戻って来れたのは、もう二年生の秋だった。その頃には既にレギュラーメンバーのほとんどを野球経験者の新一年生達が埋め尽くしており、二年生と三年生は数合わせで入れてもらっているような体たらくだった。

 復帰した初日に、私はシートバッティングのピッチャーとして登板を志願し、その登板で初めてサイドスローを披露した。

 まだコントロールに自信がなかった私は全ての投球をセットポジションから開始することにした。トルネード気味に二塁側に腰を捻り、左足はインステップ気味のナナメ右前に踏み込む。右バッタ―の外角、対角線辺りに目星をつけて全身のバネを一気に開放するようにクロスファイヤーを放つイメージでリリース。体感速度だけでなく、実際に五キロから十キロ程度は球速が伸びている自覚があった。

 練習なのに空気を読まぬ全力投球を続けていくつも三振を奪う私に対して、部員たちからブーイングが起こってもおかしくない状況だったのだが、後輩同級生先輩達の全員が私の完全復帰を喜んでくれているような暖かい雰囲気がその日のグランドにはあった。コーチの先生方も「佐藤良くなったが」と励ましてくれた。だが、何故かその日監督は練習に居なかった。その日その後何があったかなどを一切覚えていないのだが、監督がその場に居なかった事だけは印象的に記憶に残っている。

 その後の結論を簡潔に述べると、私は完全復帰をした日を境に野球部の練習に顔を出すことをやめた。理由を説明しろと言われると、その時の私は精神的に病んでいたからとしか答えようがない。

 当時の私に病名を無理矢理定義しようとすれば『統合失調症』だと思う。当時、生まれてから一度も性行為をしたことがないのに自分が電車やバスの吊り革等で感染した性病ではないかと疑って、親に真剣に相談した事がある。少しでも類似した症状や傾向があるだけで不安が収まらなかったのだ。病院で健康診断と性病検査をしたが、勿論性病ではなく、診断の結果も敵齢の平均値よりもずっと健康体だった。しかし、統合失調症の原因はハッキリとは解明されていないので、私の場合『燃え尽き症候群』や『鬱病』『対人恐怖症』から統合失調症に似た症状に飛び火したのかもしれないし、姉二人と私含む姉弟全員不登校の時期があり精神的に悩まされていた時期があるため、家庭環境、成長過程、遺伝、発達障がいなども要因として考慮にいれなければならない。

 朝、学校へ向かおうとすると、どうしても通学途中で突然足が止まってしまいその場から動けなくなる。そんな時は、いつも自主練習を行っていた自宅近所の公園の公衆トイレの中に逃げ込むのだ。洗面台の前にある鏡で自分の姿をマジマジと見て「鼻の頭にあるこのおできが気持ち悪い」と自虐しておできをつまんで引きちぎろうしてみたり、「ここが変」と前髪の一本一本を詰まんで整える繰り返しを二、三十分も延々と続けるもいつまで経っても満足な形に仕上がらず、最終的には「こんな状態で学校に行きたくない」と悲観に暮れた。その後はいつもお決まりのパターン。知っている人に最大限遭遇しない道を選び、野球部の帽子を目線よりも更に目深に被って顔を隠しきった状態で自宅までの帰路を歩いて帰る。意識が朦朧しているとしか考えられないこんな行動を私は退学するまでの間に合計三十日以上は繰り返した。

 高校を退学する四か月ほど前には、道をすれ違う人や自分の席の周りで談笑しているクラスメイト達が自分の気持ち悪いところやヘンなところをコソコソ話しているように感じる被害妄想も併発しており、いつも両耳をイヤホンで塞いだ状態で、なるべく誰とも目線を合わせないように過ごしていた記憶がある。

 最終的に自分の部屋からもまともに出られなくなってしまった私は、二年生の二月で中途退学を決めた。出席日数も単位数も足りていなかったため、十月頃には既に留年も決まっていた。今振り返ってみれば、休学や留年を選択する余地が十分あったはずなのに、当時の私は一切迷うことなく中途退学を選んだ。母は何度も私の事を引き留めてくれたが、私には母の気持ちも言葉も一切伝わってはいなかった。学校生活と他人との交流を異常なほどに恐れていた私は、誰にも干渉されることのない時間を最優先に欲していたのだろう。

 私が監督と話をしたのは冒頭で語った日が最後だ。
 監督との記憶は他にも幾つかあって、その中でも当時は全く気持ちが分からなかった名言が一つある。

 練習の合間のベンチで休憩している時、一人の先輩が半笑いで「監督、タバコって美味しいですか?」と幼稚な質問をした。監督は、ベンチの周辺にいる部員全員に聴こえるぐらいの声量で「ワシがなんでタバコ吸っとるか分かるか?」とドヤ顔で更に質問で返した。質問をした先輩もベンチの周りにいた全員も答えられずいると、監督は続けざまに「それはな、はよう死にてえからじゃあ!!」と今までに見たことがない嬉しそうな表情で言い切ったのだ。

 当時、監督のこの発言が冗談なのか本心なのか私には図りかねた。だが、「妻子あって長年勤めてきたキャリアもある教師が何を言うとんじゃ」と監督のことを心の中で密かに嘲笑していた記憶が鮮明にある。このエピソードを、同級生達と集まる機会があるたびにネタ話として「監督は頭がおかしい」と冗談で話してきたが、私自身三十歳を越えた今、監督の気持ちが少しだけ分かるようになった。

 やりたくないことは最大限やらず、好きな事や好きなものを思う存分堪能する中で、自分の意図していないタイミングでいつの間にかコロっと死んでいた、というような生き方に憧れが生まれたのだ。勿論今でも「早く死にたい」などとは全く思わないのだが、今改めて考え直してみると、監督の「はよう死にてえからじゃあ」という理解しがたい発言が頭の片隅にあったからこそ「ホームレスになろうと思っています」などというバカみたいな願望を吐露することができたのだと思う。当時の私は、友達はおろか肉親に対しても完全に心を閉ざしていたので、このような常識外れの言動が吐露できる場所などどこにも存在しなかったのだ。

 以前は全て忘れ去ってしまうかすべてを無かったことに改変してしまいたいと考えていたこれら黒歴史の記憶。私は、仕事中やボーっとしている時に黒歴史の断片を一つ思い出すと、それを頭の中でやたら時間を掛けて修復してしまう癖がある。この癖が発端で、私は文章を書くようになった。

 話は現在に戻る。

 今日も黒歴史を一つ修復し終えた今の私。今の私は、当時の監督よりもずっとユルくてやる気が無い人間である。きっと傍からもそう見えていると思う。知らず知らずの間に、大分監督に影響されていたのだと、本文を書いているうちに気がついた。もしくは、このユルさは私の中に元々眠っていた特性なのかもしれない。だからこそ、部員の時は監督や同級生の行動に腹を立てていたのかもしれない。私も本当は最初からユルく生きたかったのかもしれない。コンプレックスを理由にして、誰にも負けたくないと心に無理をさせ過ぎていたのかもしれない。

 ちなみに、今の私は「ホームレスになりたい」とは一切思わなくなった。好きなことだけやって全く働かない生活は少しいいなと思うが、「せめて住む場所ぐらいは最低限欲しい」と考えてしまうのが本音だ。

 もしいつかまた「ホームレスになりたい」という衝動が湧いてきてしまった場合には、まずはキャンプから始めて徐々に慣らしていこうと思う。どうせ数日と持たず「無理だ!」「もう嫌じゃ!」などと言いはじめ、泣き啜りながら自宅への帰路を辿る姿が目に浮かぶ。

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