過去は変えられない。しかし過去は忘れて作り変えることができる。

 以前は、過去を思い出すたびに心の内に痛みが生じることが多かった。私の場合それは二十九歳から三十歳になるギリギリまで続いていたと思う。

 三十歳を目前に迎えたある日、自分の中で『忘れられない過去』に対する捉え方が百八十度変わった。それまでの私は、どこか意識の片隅で「過去は変えられる」という固定観念を持っていた。

 その固定観念に縛られてもいた。『過去』とは『既に自分の頭の中にしか存在していない出来事』だと気付くまで、私は忘れられない過去を頭の中で脚色して作り変えるという反則技を行い続けては、いつか誰かに事実を暴かれてしまう日がくるのではないかと、日々怯え続けた。これがその頃の私が物語やエピソードトーク、私小説を作るときの方法だった。記憶が曖昧な部分は、本当に体験した出来事なのかどうか、正直自分では判別がつかなくなっていく。この過程が、私は嫌で嫌で仕方がなかった。『忘れられない過去』に縛られていたからだ。

 私が『忘れられない過去』を思い出すときというのは、だいたい反省の意味合いが大きく、「こうしていればよかった」とか「やらなければよかった」といった根深い後悔からはじまる。元々、私はこの『反省』という作業が好きすぎた。一日過ごしているうちの三分の一ぐらいは頭の中で過去について反省したり、「あの時、本当は誰が悪かったのか」等を改めて再検証しようとし続けていた。これは生まれつきの性質なのか、それとも成長過程で身に付けた癖なのか、そのあたりはまだ自分でも確証が持てていない。

 だが、一つだけハッキリ断言できるのは「私はこの癖を持っていたからこそこうして文章を書きはじめた」ということである。矛盾しているのだか、癖を長年継続した結果、それを文章に書き起こしたくなり、健全に書く方法が分からず苦しみ続けた、という流れだ。

 『忘れられない過去』を反芻し、再検証を繰り返すことによって脚色が日々足されていく。そして、その中から物語やエピソードトーク、私小説を無理矢理に作り上げていった。これでは文章を綴るのが嫌いになってしまって当然なのである。

だが、三十代を目前にした私はこのように考えが変わった。

「過去は変えられない。しかし過去は忘れれば作り変えることができる」

 この考え方に至ってからは、文章を考えることに罪悪感や心の痛みを感じることは無くなった。

 これが健全な物語の作り方でありエピソードトークの作り方だと、私は結論している。私小説に関してはまた少し違う気がするため、また別で語ることとする。

 要するに、忘れられない過去は一度ある程度まで忘れてしまわなければ、物語やエピソードトークに作り直すことは中々難しいのである。

 全てを事実として脚色などの試行錯誤を行って無理矢理に物語や私小説の形に落とし込むと、他人が読んで面白い文章を作り続けることは困難である。これは小説と私小説とノンフィクションの書き方をゴチャ混ぜにして作り上げた、どっちつかずの文章だからである。例え面白くても、それは偶然の産物である。

 ノンフィクションの面白さに本来脚色は不要であり、私小説と小説(フィクション)そしてノンフィクションの面白さというのはそれぞれに分けて考えていなければ、うっかり深い落とし穴にハマって抜けだせなくなってしまうことがあるから気をつけよう。

 面白くない出来事というのは、一から作り直して面白くする事は可能だとしても、脚色だけして面白くする事は不可能なのである。

 最後にお情け程度の辻褄合わせで悪いのだが、「過去は変えられない。しかし過去は忘れれば作り変えることができる」というこの考え方こそが、ここ数年執筆作業が上手く行かずに苦悩していた私にとって、一番学び直さなければならなかった事である。

 私が非効率な執筆活動を続けて出した結論が、誰かにとっての効率的な学びに繋がれば、これ幸いである。

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