小説「モモコ」【41話】第8章:6日目〜少し遅い朝〜
「あ、目を覚ましたのね」少女の声が聞こえた。
僕は意識を取り戻し、ベッドに横たわっている自分の状況を少しずつ理解しようと試みた。ぼやけていた視界もくっきり見えるようになってきた。白い天井が見える。視線を変えると、傍らにさっきの声の主と思われる少女が座っていた。
「ここは?」と尋ねた。「雉谷病院の病室。あなたは意識を失ってたの」少女が答えた。
僕は当時のことを思い出そうと試みた。だが、何も思い出せない。
病室の扉が開き、別の女性が入ってきた。白衣を纏っているところから、この病院の医師だろうと推測できた。
「あら、ルンバちゃん、起きたのね」そう言って女医師は少女の隣の椅子に腰掛けた。ルンバ?僕のことを言っているのだろうか。
「あ、そっか。もう記憶なくしてるのよね」女医師が言う。「そう。お兄ちゃんは記憶障害だから」少女が言った。
「ルンバ、が僕の名前なんですか?すみません、何も思い出せなくて」
「そうよ。あなたはルンバと呼ばれてた。一緒にカルト宗教家を退治した仲間みたいなものよ」と言って女医師が笑う。
「そして私は犬養モモコ。あなたの妹よ」少女が言った。「お兄ちゃんの本名は犬養ヒトシ。私たちからはルンバと呼ばれてたけど」
モモコはしばらく、黙って目の前の虚空を見つめていた。何か大事なことを考えているように見えたので、ルンバはモモコが口を開くのを待った。
「まず」とモモコが口を開いた。「この5日間に起きたことを話すわ。長くなるわよ。水を飲んどく?」
「ああ」とルンバは返した。雉谷が持ってきたコップの水を一杯もらって飲んだ。飲み終わるの待って、モモコがこの5日の起きた一連の出来事を話し始めた。
一通り聞き終えても、ルンバには全く実感が湧かなかった。話を聞く中で思い出すものものもあるかと期待していたが、何一つ身に覚えがない。
「全然思い出せないんでしょ?仕方ないわ。記憶障害のせいだから」
「どういうことだ?」
「さっき話した内容の中に、ひとつだけ誤りがあるの。特に、雉谷さんが話したあなたの出自についてね。どうしても言えなかった気持ちはわかるわ。わたしだってそうしたから」
モモコの隣で静かに様子を見守る雉谷に目をやると、黙ってただうなずいていた。
「子宮性果実分娩法。ユーテラスフルーツデリバリーで生まれたのは、本当はわたしが最初じゃない」モモコは淡々と続けた。
「UFDで生まれた人間は本当は世界に2人いるの。ひとりがわたし。もうひとりが、ルンバ。あなたよ」
「わたしたちの親、犬養ヒトシとその妻の間にはなかなか子どもができなかった。母親の子宮に先天的な欠陥があったの。一度目の妊娠で流産し、その負担が大きく彼女は亡くなってしまった。父は、冷凍してあった妻の卵子を使って、子宮性植物に我が子を妊娠させた」
「UFDで生まれたお兄ちゃんは、他の人間とは大きく違う2つの特徴を持っていた。一つ目は類稀なる身体能力。生後2週間で歩く乳児なんて今まで例がなかった。当初は発達の速さに目を見張っただけだったけど、成長するにつれ、その能力は人間の限界を超え始めたの。わずか10歳で、お兄ちゃんは100メートル走の世界記録を抜いてしまった」
ルンバはモモコから聞いた5日間の出来事を思い浮かべた。港でモモコを背負って走ったり、ビルの壁を5階まで登ったり、たしかに身体能力が優れているようだった。
「もう一つは、記憶障害。お兄ちゃんは5日間しか記憶を維持できない」
「え?」ルンバは驚いて声を上げた。
「正確には、一般知識以外の固有的な知識や経験を5日経つたびに全て忘れてしまう。例えば自分の名前、家族のことまで忘れてしまうの」
「ただ、例えば固有名詞や特定の個人に関する記憶以外は残っていくみたいね。事故によって同じような脳の障害を持った事例がいくつかあるわ」雉谷が付け加えた。
動揺するルンバを意に介さず、モモコは淡々と続ける。
「UFDで生まれた子どもは、何らかの突出した能力を得るとともに、大きな欠陥も授けられて生まれてくる。お兄ちゃんは、卓越した身体能力と引き換えに5日間で全て忘れてしまう記憶障害。わたしは、卓越した頭脳と引き換えに、寿命が4分の一しかない。成人するかしないか、20歳頃に、わたしの命は尽きるわ」
言葉を失うルンバだったが、モモコ本人は全く暗い雰囲気がなかった。その卓越した頭脳で、短い人生という事実に折り合いをつけたのだろうか。
「このことを話すのも実はもう何百回目よ。途中まで数えてたんだけどやめちゃった」モモコが笑う。
「つい最近まで、わたしたち犬養一家は一緒に暮らしてた。わたしとお父さん、お兄ちゃんの3人でね。ただ、昨年くらいから、妙な連中に付きまとわれるようになった。不審に思ったお父さんが調べてみたら、その背後にはかつての同僚、猿丸アキヒコがいたの」
「猿丸の狙いを察したお父さんは、話をつけると言って出て行った。わたし自身が狙われていたからわたしは連れて行かないと言われたわ。代わりにお兄ちゃんを連れて行ったのは、お兄ちゃんの身体能力が護衛や逃亡に役立つからだと思う」
「でも、わたしが残った隠れ処も連中に見つかって、わたしはお父さん達に合流しようと後を追った。博多のとある港まで辿り着くと、そこにはずぶ濡れで凍えるいたお兄ちゃんがいた。話してみたら記憶を失ったばかりみたいだった」
「父は、犬養ハジメはどうなったんだ?」ルンバが尋ねる。
「わからない」モモコが伏し目がちに答えた。
「港は連中が見張っていて、お兄ちゃんが船から海に落とされたと考えると、お父さんも同じように落とされたと考えられるわ。無事なのかどうか、確かめたかったけど、そんな暇もなく猿丸たちに見つかってしまった」
「猿丸は、まだモモコのことを狙っているのか? ここも危ないんじゃ...」状況を把握できてきたルンバがモモコの身を案ずると、隣の雉谷が「安心して」と答えた。
「さっき話した碧玉会というカルト宗教を崩壊させたことで、教祖の悪事が明るみになったの。もともと警察内部に碧玉会の幹部がいたために警察の追求から逃れていたみたいなんだけど、今回の件でそれも全てバレてしまったらしいわ。警察庁の監察官が動き出して、猿丸たちの存在にも気がついたみたい。たぶん、しばらくの間は猿丸も表立って動けないはずよ」
「それに」とモモコが付け加えた。「この雉谷病院にいれば安全よ。雉谷さんもいるし、ミンジョンさんもいる」
「身を隠すのに闇医者の病院ほど打ってつけの場所はないわよ」と雉谷が笑った。
「ミンジョン...っていうのは、さっき話してくれた僕たちのチームの女性ですか?」ルンバの質問に雉谷が「そうよ。今は仕事に出てるわ」と答えた。
「まずは。もう少し休みましょう」とモモコが言った。「あと4日間の時間がある。休んだら、今後のことを話しましょ」
雉谷がすっと奥の部屋に行き、何かお盆に乗せて戻ってきた。美味しそうな匂いが漂う。「さ、まずは食べて」という雉谷の催促に流されるまま、ルンバはお茶漬けを食べた。不思議なことに、記憶は何も残っていないというのに、前もこの場所で、こんなふうにお茶漬けを食べたような気がした。
〜つづく〜
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