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人生にひとさじの刹那主義を

押し殺した小さな違和感

「モチベーションなんて、考えるもんじゃない」

昔、とある先輩に言われた言葉だ。

働くことに対するモチベーションが下がっている、少なくとも僕にはそのように見える同僚に、何かやれることはないだろうかと、考えあぐねているときのことだった。

「そんなものは、他人にどうこうしてもらうものじゃない」
「それぞれが、勝手にやればいいものだ」

そう言われて、ごもっともだと思った。その同僚のモチベーションを高める再現性のある打ち手などおそらくないだろうし、そもそも、他人のモチベーションを高めようなどという考えは、文字通りのおせっかいなのかもしれない。

同時に「それって寂しいな」とも感じたのだけれど、僕はどうしてか、その小さな違和感は押し殺すことに決めたようで、その後、他人のモチベーションがどうなるかに関して、ひどく無頓着になった。少なくとも、その同僚に対して、僕が何か行動に起こすことはなかった。

それはご自分でどうぞ

現在、僕の仕事は、子どもに関わるものだ。

子どもたちに内発的な動機づけを促す、というのが、ひとつの大きなキーワードである。そのためにはまず大人の内発性が必要だよね、ということで、同僚にも内発的な動機づけを促す関わり方を大切にしていこう、と掲げている。

僕が受け入れた「モチベーションは他人がどうこうするものじゃないから各自で勝手にやればいい」という思想と、内発的な動機づけ、という考え方は、最初からかなりマッチしていて、僕のなかにもすんなり入ってくる。

ただ、「動機づけを促す」という部分が、僕のなかで絶妙なコンフリクトを起こしていることに、最近気がついた。

僕は、そもそもといえば、自己責任論が嫌いなほうだ。実力の90%は運でできていることを理解できない人は、恵まれたおぼっちゃんお嬢ちゃんだな、とすら思うほど、極端なまでに。

そんな僕が、どうしてか、モチベーション、動機、というものに関しては、非常に自己責任論的な価値観になっている。

いや、正確にいえば、人類社会における人間のモチベーションというマクロな話に関しては、まったくもってアンチ自己責任論なんだけれども、「目の前にいる同僚のモチベーション」というミクロな話になった途端、「それはご自分でどうぞ」と突き放してしまうのだ。

よくよく考えれば、矛盾している。あらゆる人のメンタルは、家庭環境や出会っていた人々、そもそもの能力と社会ニーズのマッチ度、経済状況などなどの様々な運ゲーによって構成されていく。努力しない人に対して努力しないことを責めてもなんら解決しないように、モチベーションが低い人に対してそれを責めたところで何も意味がない。

あのとき僕がスルーした同僚も、実はそうだったのではないのか?

何かの運ゲーの歯車が少しだけズレて、一時的に気持ちが沈んでしまった。そうだったんじゃないのだろうか。

悪意なく削られてしまう感情

ここから、2つの気づきが生まれる。

1つは、小さな違和感は決して押し殺してはいけない、ということだ。

同僚を心配する気持ちは、どんなに論理的な解釈をつけたところで、消え去っていいものではないのだと思う。

まだ若い頃は、どうしても目上の人の意見を素直に聞き入れがちだ。それはもちろんいいことでもある。素直ではないやつは伸びない。ただ、感情の違和感は、押し殺す必要はないのだと思う。「なんか寂しいな」「冷たいな」と感じたら、その気持ちは大切にとっておいたほうがいい。無理にその場で発露する必要はないが、削れないように大切に保管しておくのだ。

そして僕が思うに、その先輩はおそらく、僕の小さな違和感を押しつぶす意図はなかったんじゃないかと思う。同僚のモチベを懸念している後輩に「あいつは気にしなくて大丈夫だよ」といった類のことを言いたかっただけなのかもしれない。どこまでいっても想像でしかないけど、そうなのかもしれない。

だから、その先輩を責めるような捉え方は、きっと間違っている。誰にも悪意がなくても、削られてしまう感情というものがある。だからこそ、日常に感じる「小さな違和感」は守らないといけないのだ。

トロッコ問題がしんどいワケ

もう1つは、”人々”と”人”の違いだ。マクロで見るかミクロで見るか。社会全体を良くしたいと考えるか、目の前の人を助けたいと考えるか。そんな違いのこと。

僕の場合、ざっくり言えば、「”人々”には優しいが、”人”には優しくない」という矛盾が、僕のなかでコンフリクトを起こしていた。マクロとミクロがつながる境界線に立つ瞬間、あまりにつじつまが合わないので脳が、心が混乱する。

こういう、全体を見てるけど個が見えてない、みたいな状況に陥ることは、僕だけの特別な事象ではなくて、案外みんなに起こる事かもしれないと思う。

日本をよくするために頑張ってきた政治家が、気がつけば目の前の仲間を傷つけている、みたいなことは、実際起きてるんじゃないかな。

とはいえ、現実はそんなにきれいに整理はできないので、実際問題、”人々”と”人”が矛盾せざるを得ないシーンはたくさんあると思う。トロッコ問題みたいに、「”人々”か”人”かどっちかを選べ」という問題も、きっと世の中には五万とあるだろう。

でも、人の心はそんなに複雑性に耐えきれるものではないんじゃないかなと思う。”人々”と”人”で考え方に矛盾が生まれてしまうとき、きっと、その人の心になんらかの歪みや負荷がかかっているということは、忘れないでおきたい。

人生にひとさじの刹那主義を

さて、僕はというと、同僚のモチベーションに対してどう考えていくのか、明快な答えは持てていない。あのときに時間を戻して、僕が何か行動を起こすのかというと、正直わからない。

なぜなら、そういった領域に対して、僕はもう、統一したモノサシを持つことをやめようと思うからだ。その刹那、その瞬間瞬間に感じる、あたたかさ、寂しさ、喜び、悲しみ。そんな感情に身を委ねようと思う。

目の前の人を助けたいと思ったら助ける。それでいいんだと思う。助けたいと思えないほど自分に余裕がないこともあれば、本当は困ってなんかなくて恩の押し売りになるかもしれない。でもそういう複雑な話にするんじゃなくって、その瞬間の感情を大切にしたい。その感情に価値があるとまでは言わない。価値があるかどうかすらどうでもいい。ただ、大切にしたい。

論理的に解決しようとすると、何かしら基準を設けて、あらゆる言動に説明をつけなければならなくなる。でも、論理思考でうまくいく問題なんて、実は世界にはあまり多いほうじゃないんだと、最近切に思う。

人間が問題と感じる多くは不幸に始まる。不幸の多くは、人とのつながりや関係性から生まれている。

あらゆる違和感には意味がある。1ミリたりとも軽視せずに、大切に大切にすることを、ほんとうに心からおすすめしたい。


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