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できることなら書きたくない僕が、それでも文章を書く理由【書く学】

書くメシU30'sの記事リレー、今週のテーマは「書く。とは?」

みなさんには、文章を書く理由はありますか?

だいぶ継続してnoteを書き続けているので、何かすごい理由でもあるのかな?と思われるかもしれませんが、実は僕の理由はたいしたものではありません。

というのも、僕にとって、書くことはそれほど本意ではありません。
できることなら、書かないですむならそれに越した事はありません。

でも、僕には「書く」が必要なのです。

どういうことか説明してみます。


好きだから、限界を感じてる

僕は昔から、文章を大量に書く子供でした。小学生のときは自由帳を数冊埋め尽くすほどの創作物語を書いていたし、中学では「生活の記録」という先生との日記の数行を考えるのに、先生を困らせる面白い文章を書こうと、家で辞書を引きながら2時間くらい日記を書いてました(笑)

それに、僕は読書が好きでした。今でこそ学術書やビジネス書が増えましたが、昔は物語ばかり読んでました。練られていて巧妙な語彙の使い回しや、情景が浮かぶような文章表現。怒りもセンチメンタルも愛も憎しみも、いろんな感情を言葉に込められる作家を心から尊敬し、憧れています。

でも、だからこそです。

少なからず言葉にこだわりを持って生きてきたからこそ、言葉の限界を、特に書き言葉の限界を、心底感じているのです。


「文章」とはあまりに、あまりにも...

「文章」とは、ツールです。どうしようもない感情や、美しい情景や、血の通った理論や、あるいは淡々とした情報を、人から人へ伝えるためのツール。書き手の意図通り伝わることもあれば、伝わらないこともある。でも書き手の意図通りに伝わらないことで、読み手が勝手に解釈することで生まれる美しさもある。そんなツールです。

ツールは他にもあります。それは筆だったり、バイオリンだったり、舞台だったり、色んな表現方法があって、その表現の一つの手法として「文章」や「書く」という行為を捉えています。

僕はたくさん「文章」を書くうちに、「文章」では伝わらないものがたくさんあることを実感しました。素晴らしい演奏を聞いたあとや、美しい夕焼けを見たあとや、生き様にふれるような人との出会い。そんないろんな人生の豊かさを、僕は言葉では、きれいにありのまま表現できないことに気づいたのです。

ノーベル文学賞をとるほどの大作家なら、こんなことは思わないのかもしれません。僕がただの凡人だからかもしれません。

でも、僕にとって、「文章」とはあまりに、あまりに縛られた、不自由なツールなのです。


音楽や絵や、舞台や踊り。「表現」への憧れ

だから、演奏で観客を感動させたり、みんなの心に残る絵を描いたり、非日常の世界観を舞台で魅せて感情を揺さぶったり、そんなアーティスティックな表現を持つ方々への圧倒的な尊敬と、憧れがあります。

どうしても言語的表現では表しきれない美しさや躍動、哀愁や臭みみたいなものが、非言語的な世界では表現できるのです。それに憧れるし、本音を言えば羨ましい。

「文章」は、どうしてもロジカルの枠をでづらいものです。少なくとも僕の書く文章には、伝統工芸のような絢爛さも、ロマンス映画のような艶やかさもない。

だから、絵画教室に行ってみたり、楽器を始めてみたり、いろいろ試してきました。

それでも、僕はどうにも「書く」ことが好きなようで、それ以外の表現も楽しいものの、「書く」ことほどに無心になれないことに気づきました。

もちろん「書く芸術」もあります。詩や俳句が、小説が、人の心を動かすこともある。僕もその境地を目指すべきなのかどうかはわかりませんが、少なくともそのベクトルに、僕の表現が昇華され得る光明が見えるのです。

だから、僕には「書く」が必要なのです。

自分を表現するツールとして、僕は性質的に言葉に頼るのが合っているらしく、一方で音楽や絵や舞台で表現する方々に尊敬と憧れを抱きながら、それでもやっぱり僕には「書く」なんだ、と言い聞かせて生きる。

そんな面倒な葛藤を抱えながら向き合っているのが、僕の文章というものなのですから、もし書かずに他の表現ができるならやってみたいし、憧れの裏返しとして、「書く」ことは心からの本意でない、というわけです。


人生のあらゆる苦難は、あとで小説のネタにすればいい

表現がやりたくて右往左往した挙句、結局「書く」に戻ってきた、そんなひねくれた向き合い方をしている僕ですが、これから、もっと「書く」表現を広げていきたいと思っています。

凡人のくせに言語に限界にだけは生意気にも気がついてしまった僕が、これから言葉を使ってどんな挑戦ができるか。

そう考えて、面白がることにしたのです。

それでもきっと、性分として、これからも僕は非言語的な表現に憧れ、絵やら音楽やら色々手を出すことでしょう。そしてそのたびに定着しない自分に打ちひしがれ、「書く」方向に情熱を傾けるのだと思います。

もしかしたらそのうちに非言語的な表現もできるようになるかもしれないし、そうじゃなくても、それが僕らしい「書く」への向き合い方のように思うのです。

最後に、中学の卒業文集で、将来を夢に「作家」と書いた瞬間から持ち続けている、僕の最強な思考法をお伝えして、この記事を締めくくります。

「人生のあらゆる出来事は、あとで小説を書くときのネタになる。そう思えば、いろんな苦難や理不尽も、いいネタ仕入れた!と思える」

僕は嫌なことがあったとき、だいたいこの思考を掘り起こします。

本当に小説を書かなくてもいいです。でもいったんあとで書こっかなと計画して、すべての出来事を、物語を描くためのネタに過ぎない、執筆取材なのだと思い始めると、途端にレジリエンスが高まって、現実もタフに生きられるようになります。こうなると最強です。僕は何度もこの思考に助けられてきました。

みなさんも、別に本当に書くかどうかはさておいて、ひとまず「あとで小説を書く」ことにしてみるのをオススメします。「これもネタやん!」と思える無敵感をぜひとも感じてほしい。

以上、僕の「書く学」でした。僕にとって「書く」は、僕を表現するための手段なのです。

みなさんは、表現するとき、どんなツールを使いますか。

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Photo by Patrick Tomasso on Unsplash

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