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小説「モモコ」【40話】第8章:0日目〜深夜〜

 吸い込まれそうな、真っ黒。雲ひとつない漆黒の夜空を見上げながら、僕は焦っていた。

 目の前で父が誰かと激しく言い争っている。相手が誰だか記憶にないが、どこか見覚えのある初老の男だ。いつも穏和な父が、深刻な表情で男を諭すように語り、男が反発して大声で怒鳴る。仲裁に入るべきなのかもしれないが、状況がわからない上に、親の喧嘩に子が割って入るのも気が引けた。

「なあ、おれがUFDにどれだけ身を捧げたと思っているんだ」と男が語気を強める。

「そんなことはわかっている。この研究は、僕らチームで成し遂げたものだ」父は静かに返した。感情を抑えて冷静に努めようとしているように見える。

 父と男、そして僕の3人は、同じ船の甲板の上に立っていた。クルーザーのような小型フェリーだ。たしか、父から重要な話があると言われ、逃げ出すように家を出て、行き先も聞けず、ただ言われるがままに船に乗った。

「UFDは、世界中のやつらの度肝を抜く技術だ。ただデザイナーベイビーを産むという意味だけではない。例えば、その子宮性果実から取れるプラセンタは人間の能力を大幅に向上させる」

 男は興奮して饒舌に喋り出した。

「可能性が無限にあるんだ。世界がひっくり返るんだぞ」男は喋りながら、父の方にじりじりとすり寄って行く。「だが、おまえはこれを世に公開しないと言う。人類にとってどれだけの損失になるか、何もわかっちゃいない」

 父は数秒黙ってじっと男の目を見つめると「モモコは」と言った。「モモコ、UFDで生まれた僕の娘は、20年で死ぬ。テロメアの長さが4分の1しかないんだ」

「なんだって...」男はたじろいだ。「そんな話おれは聞いてないぞ。それにテロメアの長さだけで寿命が短いとは限らないだろう」

「もちろんその通りだ。だが、短命を示す根拠が他にいくつもある」そう言って父は上着のポケットから小さなケースを取り出した。その名刺入れのような薄いケースを開けると、中から小さなSDカードを取り出した。

「その根拠も、この中にすべて入っている」

 SDカードを見つめて息をのむ男に見せつけるように、父はカードを持つ右手を前に出した。

「すべてのデータがここにある。モモコのデータも、ヒトシのデータも」

「ヒトシか」男は僕のほうに視線を変えて言った。「まだ記憶障害は続いているのか?」

「ああ」と父は答える。

「だが、その一方でこの子は卓越した身体能力を授かった」男は憐むような目で僕を見つめている。「本来ならオリンピック選手だってなれる天賦の才能だ。なぜおまえは自分の息子の才能を活かす道を示してやらない?」

「それがヒトシの幸せになるのであれば、そうするさ」父は言った。

 ルンバは混乱していた。記憶障害?身体能力?いったい二人は何を言っているんだ?

「父さん、いったい何の話?」

「ヒトシ、おまえにはまたあとで話そう」

「ま、話しても忘れてしまうがな」と男が笑っている。「それよりそのSDカードをよこせ」男は一歩ずつ父に近づいていく。

「無理だ」父は言った。「僕は今日、このデータを丸ごと捨て去る気でここに来た。猿丸君、キミにすべてを語る義理を果たしてからね」

「そしてもう、十分だろう」父は後ろに振り向くと早足で甲板の端まで向かった。慌てた猿丸が後を追うが、父はもう右手を振り上げていた。

「父さん!」父の身の危険を感じ、ルンバも走り出したが、「ふざけるな!犬養!」その声に覆い被さるように猿丸の怒声が鳴り響いた。

 父がSDカードを投げる前に、男が父の右手を掴んだ。驚いた父が力任せに振りほどく。さらに手を掴もうと前に出た猿丸に押され、父が足をもつれさせたが、船から落ちる寸前で、なんとか踏み止まった。

 猿丸が懐から何か機械のようなものを取り出した。ジジジッ、という電気のような音が、近くまで走り寄っていたルンバにも聞こえた。スタンガンだった。

 猿丸は気を失って倒れかける父の右手からSDカードを抜き取ると、父を海に突き落とした。

 ドボン。

 父を助けなければ!とルンバは海に向かおうと甲板の端まで来たが、急にガクっと力が抜け、立っていられずにそのまま膝をついた。「リセットの時間がきたか」と猿丸が背後から言った。

「リセット...?」要領を得ないルンバが振り返ると、猿丸は手元のカードを睨みつけていた。徐々に表情を歪めていく。

「あのヤロウ、これはただのプラスチックじゃねえか」

 父が持っていたSDカードらしきものは、メモリではなかったようだった。意識朦朧とするルンバに猿丸が詰め寄っていく。なんとか力を振り絞ってルンバは立ち上がった。

「このクソ親子が!」

 次の瞬間、猿丸がルンバの体を強く突き押した。体勢を戻そうとするが間に合わない。そのまま夜の海に落ちた。海面に体を打ち付けて激痛が走る。薄れゆく意識の中で、ルンバは猿丸の顔を念入りに思い浮かべた。この顔だけは忘れない。この顔だけは。

〜つづく〜

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