コトバは伝えるのに有効なのか?【論文備忘録】
こんばんは、"もっちゃん”です。
記事に興味を持ってくださり、ありがとうございます。
今回は【論文備忘録】です。
先日、最近は"熟達”とか"実践知”に興味がある、ということで記事を書きました。
その流れで読んだ論文になります。
認知科学の流れにはなりますが“身体性認知科学”という視点から考察を加えているものになります。
⓪今回取り上げる論文:鈴木宏昭・横山拓(2016). コトバを超えた知を生み出す:身体性認知科学 から見たコミュニケーションと熟達. 組織科学 Vol.49 No. 4. pp.04-15.
認知科学における巨匠がお書きになったものです。特集号の巻頭になりますので、招待論文に近いものでしょうか。
①要旨
本論文の抄録をそのまま転載させていただきます。
本論文は『組織科学』内の論文になります。教育現場に限らず、より広い組織を対象として書かれています。
ですが、身体知という視点からとても参考になる部分が多々あります。
②研究全体に対する感想
本論文はレビュー論文に近い感じがします。当時において新旧広く論文をレビューしながら、“知の伝達”や学習者の“学習の経路”についての考察を加えています。
個人的には、今非常に興味のある分野におけるレビューだったので、自分がこれからどんな論文にあたっていけばよいのかという、大きな指針になるような気がして、とても参考になりました。
また、“知の伝達”や学習者の“学習の経路”についての考察は、学校教育においても見つめ直さなければいけない点が多々あるような気がしています。
逆に、どのように学校教育において生かしていくことができるのか、というより実際的なところを考えていく必要もあるように感じました。
③コトバを用いることの弊害
読んでいて感じたことは、「コトバを用いることの弊害」です。
前回、暗黙知(身体知)を伝える上で、コトバが有効にはたらくのではないかということを書きました。
それに対し、その限界も語っているのが本論文です。
コトバにすることで、逆に表面的なものしか伝わらない可能性がある、ということかと思います。
それはそうなのだろうと思います。確かに。
コトバにすることで見えてくるものはあるけど、失われるものもある。
知識も含めて、“モノ”ではなく"コト”と捉える筆者の主張としては、とても自然なものとも思います。
それぞれ適した分野や領域があるとは思うのですが、では教育現場においてはどうなのだろうと考えると、いまだ具体的なイメージはわいてこないようにも思います。
④場の共有ということ
いずれにせよ、本論文でも述べられていますが、熟達者との「場の共有」というのは熟達において大事なことのように思います。
加えてそこでのコトバでのコミュニケーションも重なると、効果は飛躍的に伸びるものではないでしょうか。
教員の熟達において、
教室や生徒の雰囲気や空気感
問いに対する生徒のレスポンスや表情
といったものをどう捉えるのか!?
といったことは、コトバにすることはできるかもしれないけど、「場の共有」によって感じ取れるものでもあるようにも思います。
そういったことを捉え、自分の引き出しの中からどのように振る舞うのかに、熟達は見られそうな気がするのですが、どうなのでしょうか。
⑤教員の熟達はどうしたらよい?
考えてみると、意外に教員にとって上記のような「場の共有」はそこまで多くないようにも思います。
授業参観からの授業研究会といった流れは、場を共有しながら言語化していく流れにとても沿うようなものと思うのですが、そういった機会がどこまで確保されているのでしょうか。
もっと言えば、初任の時からOJTの名の下にいきなり担任を任せられ、学級経営もしながら、いきなり教科指導をやらされる。しかもベテランと同じタイミングで。
と考えると、初任のしんどさはとても感じます。
私が初任だったときは、先輩の先生方がいろいろフォローしてくださったり、ハードルを下げてくださったり、指導の先生についていただいたりしながらなんとか切り抜けてきました。
ただ、冷静に考えると無茶だよなぁとも思います。
1年間、4月から3月まで、誰かの先生にべったりくっついて、場の共有とコトバでじっくり“知”を身につける機会があっても良いように思います。
まぁいろいろな問題でそれが叶わないから現在のような状態になっているのでしょうけど。何か良い方法はないものでしょうか。
なんてことを考えた論文でした。
個人的にはレビュー部も含めてとても参考になることが多い論文だったので、保存版です。また読みたいと思います。
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