見出し画像

自分を大切に生きようとした時の落とし穴。ワガママに生きるか、我儘に生きるか。

 「自分を大切にする」というような話は、どんなシーンでも出てくるものですが、あなたなら、どのように自分を大切にするでしょうか。
また、どの自分を大切にしていくでしょうか。

 いざ自分を大切に生きていこうとしても、何を大切にして生きていけばいいのか、案外わからなかったりします。自分を大切に生きることと、わがまま放題で生きることはまた違うのは、それをやっても何も満たされないことでわかります。

 私は「自覚」に出会う前、仕事をしていても、遊んでいても、その瞬間は「それなりに」楽しくやっていましたが、いつも根底にうっすらと虚無感のようなものが流れていました。こんなことをこの先もずっと繰り返していくのかと思うと、うんざりした気持ちになっていました。

 フリーでやっている仕事を法人化して拡大し、もっと派手に生きるかな、という考えも過りましたし、いくつか経営者としてのオファーもあったので、そっちにリソースを全振りしていこうかとも考えましたが、どうもその気にならず、あらゆるオファーを全部断ち切って、一度自分自身と向き合っていく必要があるなと、時間をつくり、向き合いはじめました。

 自分をもっと大切にしていこう!と思って自分と向き合い始めましたが、そもそも自分を大切にするとは何を大切にすればいいのかが全く見えてきませんでした。

 仕事でもプライベートでも、自分が我慢して事が収まるなら、なんぼでも我慢する。面倒くさいのが嫌で、自分が被って済むならそれで全て収める。そんなタイプとして生きていた私は、だいぶ自分の本音から、遠ざかっていたようで、向き合い始めてみたものの、まるで自分がどこにいるのか、本音はどこにあるのかわかりませんでした。

色々なことにすっかり飽きていた、2022年の初夏
自分と向き合いはじめた頃の私。

 自分を大切に生きるときにぶつかる問題。

 自分を大切にしよう!とか、本音で生きよう!と思うなら、誤解を承知で書くなら「わがままに生きることが一番」です。

わがままは、漢字で書くと「我儘」と書きますが、
私(我)の成り行きに任せる(儘)となります。

しかし、ここに大きな大きな落とし穴があります。
「どの"我"の声を聞けばいいのか。」という問題です。

 私が本音を見失っていた時に感じたのは、私の中に色々な声があるということでした。悪魔の声、天使の声のような話もありますが、どれも一見本音のように感じましたが、何か違和感がある。そんな感じでした。

 この成り行きを任せる私を見極めていくことができないと、
単なるワガママ野郎になるだけですし、それを続けていても、永遠に満たされることはありません。

私の中に色々な私がいる。  

 私の中に色々な私がいるというと、多重人格みたいなものを想像する人もいるかと思いますが、そうではありません、、と言いたいところですが、
ある意味多重人格です。

 多重人格と言っても、私の中に、ダニエルという人格と、太郎という人格と、花子と、キャサリンという人格がありまして、という話ではありません。何かしらの考え、都合、規定、戒律を無自覚に握り込んでいる私が存在するのです。言い換えると、それらの考え、都合、規定、戒律に影響されている色々な状態の私がいるように感じるのです。

 それをエゴと言うこともありますが、エゴと丸めてしまわずに、そのエゴを丁寧に見ていくと、何かしらの考え、都合、規定、戒律に影響されている私の状態であることがわかります。その私を蔑ろにしながら「エゴはよくない!」と、やってしまうと、苦しくなっていきます。

 丁寧に自分と向き合っていくと、そういった「考え、都合、規定、戒律」を無自覚に握り込み、その影響をモロに受けていることに気がついていきます。しかし、それを手放そうとしても手放せません。せいぜい、気にならないフリをするか、無かったことにして蓋をするのが関の山で、それをやっても、何も変わりません。

 何かを握り込んで窮屈になっている私をただ知っていくことが、その握っている握力を緩めることになります。

ワガママに生きるか、我儘に生きるか。

 「考え、都合、規定、戒律」を無自覚に握り、それに影響されている私の声を本音と捉えて、その声に従って生きるなら、喜ぶのは、エゴの私であり、結果的にエゴを甘やかして、エゴを肥やすことになります。

肥えたエゴは、また新たな何かを欲しがるだけで、もっともっと!となっていつまで経っても欠乏感のループからは抜け出せません。

 いくら満たしても、その時だけ満たされた感覚があるだけで、3日もすれば、また欠乏感が湧いてきて、また何かを満たしにいく。そんな餓鬼(仏教において、六道のうち餓鬼道に落ちた亡者を表す。いくら食べても飢えを満たすことができず、あるいは食物に触れるとそれが燃え上がるなどにより食することができず、土を食い泥水までも飲む苦厄に苛まれる。)のようなループをすることになります。

「考え、都合、規定、戒律」を無自覚に握り、それに無自覚に影響されている私の声に従い、生きることを私は「ワガママに生きる」と捉えています。

一方「我儘に生きる」
「考え、都合、規定、戒律」を下せるだけ下ろした私の声に従って生きることです。この価値は、それらを下ろしてみないことにはわかりませんが、それがわかった時、本当の意味で、自分を大切にすることができるようになってきます。満たそうとすることなく常に満ちている私として"活きる"ことができるようになります。

 「考え、都合、規定、戒律」下ろしていくためには、自分自身と本気で向き合っていくしかありませんが、何か握り込んでいるものが見えたとしても、それを手放そうとしている私に囚われているなら、停滞を生むだけです。とことん向き合う必要があります。

 今の自分から変わりたい、
 本音で生きたい、
 私を知りたい、
 消耗する毎日から抜け出したい、
 エゴを満たして虚しくなるループから抜けたい、
 
 どんな動機でも構いませんが、本気で自分と向き合っていきましょう。


私は「私に向き合うこと」を極めていく。
「自覚の道」を極めていく。
自分自身に中途半端に向き合うつもりは毛頭ありません。
必然的に、相手と向き合う姿勢もそうなっていきます。

本気で自分自身と向き合いたい人と私は出会いたい。

いつも最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いいね!フォロー、よろしくお願いします。

twitterもやっていますので、よろしければ是非フォローしてください♪

悟り子パンダ:twitterもやっています。 こちら
●自覚人のカウンセラーがあなたの悩みに向き合います。
 自覚カウンセリング協会:
こちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?