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なにかを信じて悟りを開くことはありません

なにかを崇めたり、信じる事で、悟りを得ようとする動きがありますが、それはあり得ません。

あまり書く気にはなりませんが、○○哲学を勉強している方が悟りの話をしますが、その先にあるのは悟りではありません。

悟りとは、信じる事から自由になる事でもあり、「こうなったら悟りだ」という考えも、信じる事です。

クンダリーニが上昇したからと言って悟りとは関係ありませんし、地中の中で1週間すごせたからと言って悟るわけでもありません。

現象をもって悟りとする方は沢山いらっしゃいますが、それは都合の良い解釈でしかありません。

なぜ、このようなことを書かなければいけないのか、本来、このようなことを書きたくもありません。

しかし、これから先、人間の都合により、悟りが解釈されて、沢山の方を迷わせますし、実際、迷わせている方がとても多いのです。

特に、ヨガを勉強されている方々。

悟りのかなり手前に思います。

自分の良いように判断し、ゴールを勝手に動かしてしまいます。

わたしは、本当の悟りとは、こうだ

という議論をするつもりはありません。

好きに語ればよいとも思います。

しかし、そこにわざわざ迷わされる必要のない方も沢山いらっしゃいます。

有名なヨギの言葉を聞けば、どの段階にあるのかはハッキリします。

しかし、目覚める前の方にとっては、素晴らしく聞こえてしまうようでもあります。

残念ながらそれを止めることはできません。

ヨガを実践する方を批難するモノではありませんが、ヨガを実践している時点で、悟りについて語るのは時期尚早なのは、ヨーガスートラに書いてあることなのではないでしょうか。

ヨガを実践する事で、そのエネルギーはどこに流れているでしょうか。

崇拝する神のような何かに流れていないでしょうか。

その違和感を感じるなら、また、向き合い方も変わるかもしれません。



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