『暇と退屈の論理学』を読んで
あまりにも面白いので、少しずつ読み進めながら感想も書き連ねたいと思います。
まず、なにが面白いって、それぞれの章に問いが立てられていることです。
第二章 暇と退屈の系譜学
〜人間はいつから退屈しているのか?
考えてみたくなりませんか。私は「食糧に困らなくなってから」と予想しましたが、本書では「定住してから」とありました。
食糧生産が出来たから定住したと考えていましたが、定住したから食糧生産できるようになったと読み、自身のロジックの甘さと、習ったことを正しいと思ってる思い込みに気づけました。
最近ハマっている縄文時代の話も出てきて、大変面白かったです。
さて、今から第三章です。
暇と退屈の経済史
〜なぜ「ひまじん」が尊敬されてきたのか?
予想は
ひまじんは退屈はしてないから。ひまじんは楽しみや付加価値(宗教、芸術、イベント等)を見出しやすく、定住し退屈した人たちの救いになったから。
さて、この本にはどう書かれているでしょうか。
うーん、この問いと文章が合ってないように感じました。
ただ、暇=客観的、退屈=主観的という定義や4象限での分類は面白いです。暇人は退屈していないからという私の回答は局所的であったことが分かりますし、暇=退屈にしないという思い込みがあることもわかりました。
次は4章です。
暇と退屈の疎外感
〜贅沢とは何か
贅沢とは何か。
暇があり、退屈がない状態ということになるのでしょうか。
具体例としてはレジャーではない、自発的にしたいことを楽しめること。
つまり、心身共に健康で、他人の目や評価を気にせず、外的メリット(例お金や賞賛など)が発生しないにも関わらず、または発生しなくとも、やりたいことがあること。情熱?
贅沢は決してお金だけでは解決できないと思いたい私は、上記が贅沢だと考えます。
本書では、消費と浪費の違いが書かれていました。消費は絶対満足しえなず、浪費は満足する。とのことです。
何が目的なのか、はたまたその目的は本来的なものなのか。。。
ルソーとマルクスの「疎外」や「本来性」などなじみのない文脈で説明されています。だんだん難しくなって、自分の中で分かっているのかいないのか。。。
第5章は暇と退屈の哲学
~そもそも退屈とは何か。
私は退屈とは、つまらないこと、心身が何らかによって拘束されている状態。もしくはその状態で何も心が動かされないこと。と定義しました。
本書では、具体例を用いたハイデガーの退屈の2段階の分け方と3段階目が面白いです。
①何かによって退屈させられること
②何かに際して退屈すること
③はネタバレになるので明記を避けます。
①はよくあることですが、②が興味深いです。パーティに行って様々な人に会い、おしゃべりをし、タバコを吸ったり料理を楽しんでいるのに、その時間を後から思い起こすと、「パーティの際に自分は退屈していたのだ」と気づくそうです。私も20代前半までは、同じことが良くありました。自分より100年ほど前に生まれた人と同じ感覚を共有できることは驚きですね。
第6章 暇と退屈の人間学
~トカゲの世界をのぞくことは可能か?
ユクスキュルの『生物から見た世界』を読んだことを思い起こされました。そうすると、この本でも引用されており、忘れられない「ダニの話」がされていました。
ユクスキュルの読後、私なりの考えも合わせると、「トカゲの世界をのぞくことは不可能」。そもそも人間としての認知以外を持ちえないし、想像を超えることもない。現状見えていないだけで、紫外線などはあるのだから、それと同等の何かがないとは言えないし、トカゲがそれを認知していないとも言えないから。
本書では、人間の特徴について環世界間移動がしやすいという点が挙げられていました。それもあくまで「人間の視点で」という条件付きだと考えます。
第7章 暇と退屈の倫理学
~決断することは人間の証しか?
前章から引き続き、ハイデガーの理論をもとに、「人間は自由だから退屈し、決断によって自らの可能性を実現せよ」ということを考えていっている。ここまでくると、この質問の背景にはハイデガー的「決断」があるとしないと回答にならないと思うので、ハイデガーを深く理解していない自分の予想は立てません。
退屈の①と③がつながり、②が意外な方向に行くのが面白かったです。
結論
結論を読んで、期せずして、3章と4章で予想していたこととリンクしていることに気づきました。
分かることは、分かることを体験していく中で分かっていくこと。
消費ではなく浪費をすること。それはものを受け取ること。これは、瞑想に近いような気がしました。
そして、最後はいつもの日常から外れたことをして思考していくか。
仕事を休んでいて変わったのが、「料理」と「家事」についてです。仕事をしているときも料理はしていましたし、家事もしていましたが、仕事をしておらず、膨大な時間がある中でおこなう料理と家事は質が変わります。楽しいのです。使い方が分からない野菜を買っても、ゆっくり使い方を調べたり試行錯誤しながら料理が出来ます。家事も柔軟剤を自分で調合したり、拭き掃除を頻繁にできたり、トイレもいつもピカピカにできます。それがふんわりと幸せなんです。これが、浪費をすることなのかもしれません。楽しむには余裕と思考と実験が必要です。
また、少し角度を変えた感想ですが、「自由」「平等」「理想」「生きることの意味」などの言葉を忘れることはできないのだろうかと考えます。人間が作った概念で、耳障りが良く、何も考えずに使っていますが、自由も平等も理想も生きることの意味という概念をキャンセルしてしまえば、「ただ在る」「そのうち生命活動を終える」以外のなにものでもないと思えるのではないかとも思います。
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